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ユトリロ

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私生児で10代からアル中になり、少年時代は大変苦労したという。
入院したり警察に拘束されたり学校にも馴染めずで、不安定でかなり荒れた生活をしていた。
健康状態も悪化したり小康状態になったりの繰り返しであったらしい。
母親も手をこまねいて人任せになり、祖母に預けることも多かったようである。
しかし祖母が元々アル中で、ユトリロ少年にも酒を呑ませていた影響が大きかったと謂われる。

要するに生育環境が悪かった。
人はそれを選べないのが、決定的なところである。
この初期の受け身の状況については、どうにもならない。
では、それを変える~脱するには、もうカントの説くように自らがそれを選んだと捉え返し、自らの主体として生きなおすしかない。

ユトリロ7歳の時の母シュザンヌ・ヴァラドンによるデッサンはよく彼の特徴を湛えている。
晩年のユトリロの写真にも残る面影が窺える。
鼻つきがまさに彼である。
どういう対象として描いたのだろう。
この頃は彼女も画家として成功している時期だ。

結局、彼女が息子のアル中療法として彼に絵の手ほどきするようになった。
だが、師匠の言うことを素直に聴いて画業に励むというより、独自の画法を編み出して描いてゆく。
かの有名な白い絵だ。
何と絵の具に漆喰を混ぜている。

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はじめは、描くこと自体嫌々ながらであったらしい、、、想像はつくが。
母とは異なる作風であるが、彼も高い評価を得るまでにそう時間はかからなかった。
それに従い、とても平穏な日常生活も手に入れてゆく。
絵を自ら描いてゆくうちに、生命力の核に触れていったのだと思う。
自我とか主体よりもっと深いところに、図らずも降り立ったのではないか?
それが確信を生み、強固なものにしてゆく。身体も落ち着く。
外的なシステム~法に全く左右されない内的な基準~価値の獲得により、、、。
大概、優れた芸術家はその域に達している。
(世間の目や流行りや、才能などという外部の尺度などは端から意識にないが)。

自分のやるべきことをひたすら、やる。
創造行為とはそうしたものである。

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ユトリロは、ひたすら街を描く。彼にとって絵を描くとは、街~街頭を描くことであった。
彼もまた、パリに色々な国や地域から集まって来てモンパルナスやモンマルトルの街や風俗や人々を、ボヘミアンな生活を送りながら描き続けた所謂、エコール・ド・パリの画家に数えられるが(その中でも特に有名な画家であるが)、彼にとってはパリは生まれ故郷であり自分の元々住んでいる街頭を描いているだけである。

それがとても寒々としている。
人は時折、街路や階段に見つかるが、本当に他者であり、何か繋がりの感じられる温もりの表情はその姿にない。
だが、白い建物や路(石畳)は構図と共にとても堅牢である。
白の堅牢なマチエールが更にその建造物の内と外を厳しく隔てているようだ。
ユトリロは勿論、外にいる。
ロートレックは中にいる(笑。(レオナール・フジタもいた)。

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最初に見た絵がこれだったか、、、。
とても孤独な絵だ。
孤独というものをじっくりと感じさせる。
だが、寂しいとか悲惨なものでは全くない。
確信的な孤独である為、力強い。
強度のある孤独である。


観ているうちにこちらにも力が漲ってくる(笑。
いや、本当に、、、。



朝の出来事

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朝、登校班で待っている間に次女が道路に落ちていた花弁と葉で顔を作って遊んでいた。
なるほど、子供は知らぬ間に何かをして楽しんでいる。
「かたち」で遊んでいることは多い。
よく観ると、花弁の表面を少し擦って(圧してか?)色素を滲み出させている。
リボンの強いピンク色に当たるところだが、そこが彼女の工夫の部分か?
後は、片方だけ見えている眉毛が顔として定着させている。無意識にやったのか。
実はここがポイントであろう。
(リボンは別物~装飾であり、顔の対称的でまとまりの緩さを眉毛がしめている。口と相似的な形の動きも面白い)。

公園に行くと、よく平らな土の上や砂地を素早く探し、木の枝で引っ掻き画を描いていたりする。
考えてみると面白い。
「かたち」とは何なのか。
かたちを作ろうとウズウズしてしまう気持ちとは何なのか?
(恐らくモノとの間の呼応関係が生じるのだ。そういう引力が互いに働く)。

今朝のものは構成による絵作りだ。
僅かな隙間の瞬間の。

足元にあった自然の美しさにふと気付き、それを手に取って何気なく観ることからそれは始まる。
本当に狭い範囲に、形、大きさ、色、素材の異なる要素がばら撒かれているのだ。
塀の傍等にそれらはよく集まっているが、そのバリエーションはちょっと凄い。
今の時期特有のものでもあろうが、貴重な贈り物にも感じられる。
風~気流の悪戯、もしかしたら鳥や虫も絡んでいるかも知れない。
偶然の集まりにしては意外に綺麗で、ちょっと驚く。
これも自然の摂理の一端なのかという趣を感じる。


後で聴くと、毎朝やっていたとのこと。
朝、集合場所でみんなが集まるまでのほんの一時である。
今日たまたま水筒を忘れていたので、届けに行ってはじめて気付いた。
いつも素材は異なり小石を使うこともあるらしい。
かなり手馴れてきて手早い作業になっている様だ。
毎回、何らかの絵はポツリと、ひとつ出来ているという。
直ぐに消えてなくなるフラジャイルな形を残して毎朝、登校していたのだ。
まさに不思議な鳥の消息みたいに、、、。
ちょっぴり香しい。


これから毎朝、観に行くことにした(笑。
早朝というのも気持ちよいし。
子供は何処かで必ず何かやっている生き物なのかも、、、。

だがさて、一方長女の方は、学校自体行きたくない人であり、朝の集まりの時間などまだほとんど頭は眠っている様だ。
恐らく環界に対して感覚が起きていないし、何も考えていない。
単に朝が弱いのか、、、確かに朝の苦手なことはよく分かる。
学校に着いてランドセルを降ろしたあたりで、はじめて目が覚めるらしい(笑。

身体リズムと(固有)時間がそれぞれ違うのだ。
人が違うのだから当然だが。
次女はやたらと早起きだし。


明日は教室初めで、「おもちゃカボチャ」を描こうと思う。
夕方であるから、少し疲れていても、頭ははっきりしているはず。
クロッキーは4,5枚やって、絵の具の使い方を確認して、はじめるつもり。

何だか面白くなってきたが、その前に雑事が幾つも重なってしまった。
実際どれくらい出来るものやら(笑。
なかなか計画通りには進まぬこともある。
今日の「お月見」は、寒いし月は隠れているということで、お団子とミカン(月の代用)で食べるだけ食べた(笑。




ロートレック

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どの絵も闊達な筆さばきで気持ち良いし小気味よい。
何と迷いのないスピード感溢れる絵か。
絵の上手さでいったら、これ程上手い画家もそうはいないだろう。
画家は皆、上手い人揃いだが、その中でも抜きん出ている。
と、絵を観ていて、つくづく思える。

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ポスターになると、もう水を得た魚みたいに伸びやかでしなやかな線が決まりまくる。
本人も描いていて楽しくてしょうがないだろう。
その楽しさがリズミカルな旋律に乗って伝わって来る。
この快感がたまらない。

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それに平気で厚紙~ボール紙にグワッシュなどでガンガンと描いている。
恐らく手近にあったもので描いていたりするのだろう。
中にはツギハギで、打ち付けた釘の頭まではっきり出っ張っている板に、伸び伸び達者で奔放な絵を見事に描きつけている。
これは日本の伝統的な美学の用の美にも通じる精神か?
文人画にも通じる域のものである。
粋だ。

なかなか普通、そんな素材に絵を描けるものではない。というより描こうとさえまず思わないものだ。
そこにおいても何か飛び抜けた感覚と理念をもっていることが窺える。
ともかく、何だろうが描いてしまうのだ(爆。

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由緒正しい貴族の生まれであったが、幼い頃の事故から下半身の障害を得たロートレックは、爛熟した文化の中心というか坩堝のようなムーランルージュ~キャバレーの奥深くへと、踊り子や娼婦の私生活の内にまで入り込んでゆく。
まるで空気のような存在として彼女らを活き活きと描いている。
そこに自分の住処を移し、究極の自在観を得たのだ。
(出自・身分に囚われ普通の脚でスタスタ歩くことより遥かに自在で伸びやかな生を手に入れたのだ)。

この辺で、彼は恰も目の存在となり、何でも自在に描け、何処にでも何にでも描ける極意を身につけた感がある。
彼のしなやかさはこういう場から生まれているのだ。
きっと。

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ユトリロのお母さん、シュザンヌ・ヴァラドンも描いている。
彼女もとても優れた画家であり、ユトリロのお師匠でもあった。
確か酒も彼女から習っている。
ロートレックも大酒呑みだ。それで体を壊している。

ちなみにシュザンヌはその美貌からルノアールのモデルなどもかなりしていた。
あの有名な「ブージヴァルのダンス」とか、、、。
マルチな活躍ぶりである。

ユトリロはパリを外から寒々しく孤独に描いた人だが、ロートレックはパリの中身、その深奥の熱気溢れる渦を捉えた画家だろう。
どちらも優れてリアルであるが。

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ゴッホとは結構、意見も合い仲も良かったらしい。
芸術家は自分の感性と内的な価値意識が絶対的なものとしてある。
(世間や外的な基準・規範など端から知った事じゃない人たちでもあり)
そうそう仲良くなれるものではない。
案外、名コンビに思えるが、、、。
しかし、アルル行きを進言したのはロートレックそのひとであった。
そこに行けば精神的に落ち着くのではないかという配慮からだろう。

ゴッホは、ゴーギャンと共同生活をアルルでして、ああなったが、ロートレックと娼婦の館に住めばもっとヒトが丸くなり?大画家になるまで生きていられたような、、、。
でも晩年の狂気の傑作~糸杉に比べられる作品がここで描けるかどうか、、、狂気があれを描かせたとしたのなら、無理か、、、。だが、違う形の傑作が生まれた可能性も高い。創造の根っこはちょっとしたことで変わるものではないし。

それに、ふたりとももう少し長生き出来たかも、、、。
ユトリロ36歳、ゴッホ37歳没である。
これでは余りに早すぎる。


清々しい日々、、、

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いよいよ気候も過ごしやすくなってきた。
日差しは強いが風は心地よいし、気温も丁度良い。

お隣さんから大きなオレンジ色のカボチャを頂いた。
絵のモチーフに良いので教室に使うことにした。
この時期、お花屋さんには「おもちゃカボチャ」が出回る。
それも幾つか買っておこう。
大小の色とりどりで形も不揃いのモノを合わせてモチーフにする。
そう思って、ちょっと近所を何軒か周ってみたが、、、まだ出回るという程ではなかった。
明日また、店探しをしないと、、、。

今日は娘の個人面談の日である。
わたしはあいにく自宅待機となった。
娘たちがその間に帰ってきてしまうからだ。
ひとり誰かが待っていなければならない。

バーバはリハビリでいないのだ。
一番元気に外にも頻繁に出掛ける。
電話もよくしていて、忙しいらしい。
用が沢山あることはよいことかも知れない。

どうやら、娘は漢字が苦手らしい。
確かにイソップを読んでいても、あまり読めない。
帰って来てから、娘のリクエストで宇宙関係の本を一緒に読んだ。
イソップより、乗った。
何と謂うか、興味・関心のある分野の本から読みそのものに馴染んでゆく方が、動機付けから言っても好ましいか。
結構、地球が太陽に呑み込まれる件で図を描きながらの白熱した噺となった(爆。
ただ、赤色巨星がカンでなかなか言えない。


明日は「中秋の名月」
満月少し手前であるが。
(満月は10/6だ)。
薄(すすき)と月見団子だけ用意しておこう。
薄は、稲穂の代替~間に合わせのようだ。この辺が日本文化の奥ゆかしい趣深いところ。
本当は、枝豆・里芋・栗などを盛り、御酒もあればよいが、そこまではやらないな、、、。
酒は準備しよう。久々に呑みたい(笑。勿論、少量だが、、、。


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今度の休日は、海辺を歩くことにした、、、。
先程の本を読んでいて、例え噺に出て来た海辺が何であるか知らなかったのだ。
それでは、例えのイメージすら沸かないではないか。
話がいちいちその辺でつかえて前に進み難いということより、まだ一度も海辺を味わっていなかったことはある意味深刻であり、その体験は急ぐことにした。

確かに、知らないはずだ。
彼女らが生まれてこのかた、海辺に行ってはいない、、、。
わたしも思い切り一緒に海辺の空気を吸って、潮騒と波飛沫に浸りたい。

昨日の公園

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十月は小春の天気、草も青くなり梅もつぼみぬ、、、(徒然草)

この時期よく言われるのは『天高く馬肥ゆる秋』であるが(笑。
昨日は丸一日、家族で公園に行って過ごしたが、長雨の落ち着いた後の爽やかな空気が気持ちよかった。
十月桜も咲いているではないか。
そのせいか公園はかつてないほど混んでおり、5つある広い駐車場に停めきれないほど車が溢れていた。

等間隔に何処にも車がある。
面白い。
宇宙みたいだ。
星も結局、均一に分布している。
宇宙の等方性が謂われている。
そして中心はない。
ただ加速膨張してゆくだけ。
ちょっと眩暈がして、寂しくもなる。
星が将来は見えなくなるのだ。
幾世代後の噺だろう、、、。

考えてみれば中心も基準もないのは当然。
太陽系は秒速300Kmで(天の川)銀河の中心に対して回り、その銀河系もアンドロメダ銀河と謂わばペアを成す形で回っていて将来は激突する運命にあるらしい。それらを含む局部銀河群は、またさらにおとめ座超銀河団に含まれ、その超銀河団は大きな重力~グレート・アトラクターにひかれて移動してゆく、、、SFにもしばし登場するのだが、、、結局、動きなど何を取り敢えず基準に置くかにより説明可能となるだけで、静止基準などもともとないことから、もうただ凄まじい速度でピアノ曲線を描いているようなめくるめく感覚だ。よく地上に呑気に張り付いていられるものだ、と感心することもある。

ただ、光が眩しい、、、。心地よい眩しさだ。
光速度が一定であることから、時間の伸び短みを見出したのはアインシュタインだが、(時間の進み方によって光が見かけ上、一定の速度に見えること、が正確か)空間~身体に固有の「時間」が流れているという認識は、われわれにもとても馴染む。
そちらの方が生活の実質・実感に適う。
公園で日向ぼっこして、芝生で草の匂いを嗅いで寝転がっている時に、時計時間などいちいち気にしていられない。
寝転んで見ている限り、この公園、遠近法で整序しきれない。
時間がヒトの数だけあるような空であり空気である。
ルネサンス以前の絵をみるような感覚だ。
それから、音が面白く響く。
小さな音でも気に障る音があるが、大きな音でも心地よく響く音もある。
そう、潮騒などはその例だろう。f/1揺らぎか、、、。
いつの事だったか思い出せないが、海など何処にもないところで、潮騒の音が聴こえて、音源を確かめる気にもなれずに転寝をしたことがあった。
音には、昔から不思議な想い出~体験がある。
そんなことをゆらゆらと改めて想い浮かべた、、、。
本当に少し眠ってしまった。


帰る頃には月が出ていた。
まだ空は青空である。
藤原定家の「明月記」には、牡牛座に突如現れた超新星爆発のことが書いてあり、月より明るく数か月間も輝き続け、昼でもそれは明るく見えたという。1054年7月4日のこと、、、。

贅沢な噺だ。


コロー

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絵心とかよく聞くが、コローの絵を観ていると、その絵心というものがじわっと実感できる。
その絵を描くことの恍惚感を想い、、、
脇に置いていつでも観ていたいという絵である。
「絵」なのだ。
それ以外の何ものでもない。
伝統的な手法の傑作はあるが、それを越えているところが感じられる。
そこが面白い。

コローから、印象派まであと一歩のところにあることはよく分かる。
影の部分がそれまでの画家の絵とは異なってきているからだ。
ただ明度と彩度を下げ黒を混ぜたりする(所謂、ヤニ色という定番処理)ではない。
影の部分にはそれ相応の色(色相)があることを発見している。

タッチも落ち着いていて静かだが、細やかなだけでなく大胆で確信的でもある。
必要最低限の単純な筆致と色で恐らく素早く仕事を仕上げたと感じられるものも少なくない。
ここでもやはり、省略したりぼかしたりすることで、その空気感も含めたリアリズムを追及している。
何でも細かく埋め尽くせば、リアルになるという考えは、もうここにはない。

都市の光景もモニュメンタルで一種の偉大さを証明する絵ハガキ的な構図ではなく、画家の感性で切り取った詩的で私的な風景が観られる。
場合によっては、その建造物が何であるのか分かりにくいものもある。(例えば「コロセウム、、、」)。
観光写真でこれが~とはっきり分かるそんな構図では、もはやない。
あくまでも画家がこの情景が美しいと感じたまさにその絵なのだ。
この点で、コローは印象派に繋がる資質をはっきりと示している。
丁度、現在われわれがとっても心惹かれたアングルの風景をスナップショットで切り取るような感じだ。
それは無名の風景になっている。とても新しさを覚える。

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如何せん、写真を撮っただけだと、それで安心してその風景を味わい尽くさないのが、大方のケースだ。
例え、簡単なスケッチでも自分で描いておくと、かなりイメージが脳裏に残る。
その印象を大切に、先ほど撮った写真も参照して家に帰って絵にするとかなり良いものが出来るかと。
本当はその場で粘ってずっと最後まで描ければい謂うこと無いが、実際はそうはいかないことが多い。

でも写真を元に何となく描き出すと、かなり危ないところに引きずられてゆく。
コローの世界~絵から遠い光景にどんどんなって行ってしまい焦る。
自分の「絵」~印象というものを最初にしっかり意識し、描き始めなければならない。
(描き始めが肝心である。それ以降はブレないよう、勢いを大切に進めることだと思う)。

コローを観ると、どうしても描くことそのものに気持ちが流れてゆく。
そう、描くことの恍惚を感じさせ誘惑する絵であろう。
もう少しで、印象派に繋がり爆発する前夜の密かにワクワクする絵ともいえる、、、。

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モネの快楽~快眠

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「散歩、日傘をさす女」は数パタンある。恐らくこれが美術の教科書で観たものだ。
もっと派手で煌びやかで、色彩がビビットなものがある。
ちなみに、その華やかバージョンの方は傘の柄が描かれていない。
もう、光と渦巻く色調と風を描くのに夢中で、そんな細かいモノなど描いてる場合じゃない、とばかりの勢いのある絵だ。
ただ、教科書にあったのは、こちらか、、、今では調べようもないが。

モネという巨人を書かないできたが、書くとなるとなかなか厄介である。
セザンヌのように考えさせるタイプの画家ではなく、寧ろ考えさせない画家であるか。
彼のある方向性を考えに考えて展開してしまった絵画がその後の前衛現代絵画でもある。
ひとつ観念的~思想的なネタが分かってしまうと、もう面白くないというものは多い。

モネは、考えてしまう前の状況で描こうとした。
題名はついているが、その「場」そのものを描いているとしか謂えないような絵である。
中心があるようで、なく、主題はあるとは謂え、それが切り離されてはいない。
一気呵成に捉えたもの~ことを描き切る。
結局、その「場」の本質を掴もうとするとき(勿論モネはそんなことは言っていないが)、説明的な配慮を完全に捨てる。
直覚したその事象の全体性を取り込もうとする運動そのものとなる。
そんなリアリティ~写実なのだ。
リアリティを現す際に傘の柄など結果的に必要なかったりする。(あくまでも結果的に)。
しかし、それを論理的に意図的操作で省略したりし始めると現代美術の頭でっかちになってしまい、面白くもなんともなくなってゆく。

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モノは場のエネルギーとして励起した姿である。
そのエネルギーそのものを鬩ぎ合いつつ描きとろうと愉しく格闘するモネ。
そこに概念的な説明の枝葉をくっつけていってしまうと、だんだんエネルギーが失せモノそのものの姿~運動が形骸化してゆく。
まさにプラトンのいうイデアに対する影みたいな絵になっている。
そう残像みたいに虚ろなものになるだろう。
それに比べてモネの鮮やかさときたら、、、。

われわれが絵を描いていると、描くうちにどんどんそちらの方向に向かって行ってしまう。
まるでエントロピーの法則みたいに。
そして観念的に略してみたり止めてみたりすると、とてもわざとらしく心地悪い。
やはりモネみたいに快活に活き活きと(ネゲントロピーそのものに)描ければとっても気持ちよいはず。
彼は、ずっと目が観えなくて手術か何かで急に眼の見えた人になりたい、みたいなことも言っていた。
赤ん坊にとっての外界みたいな光の渦を生々しく体験してみたい。
やはり、はじまり、、、これが重要なのである。
何故か?(われわれはすべからく生と死に昏く、その間は言語的な概念に縛られ続ける)。
われわれは気が付いたらこのように見えてしまっていたのだ。
まさに、ことばの獲得に同期するように、、、。
そうなると、もう知ってしまった以前に遡行は原理的に不可能となる。
しかしモネは例外的な芸術的な鍛錬と意思でセザンヌが言ったように「目そのもの」になってしまった(ようだ)。
それをもって天才と呼ぶのだろう。
では、われわれがその状態を獲得するには、と考えたとき、技能的には遠く及ばずとも、科学的な認識によりその世界に近づくことは可能であると思う。
やはり量子物理学的世界観は全てのベースとして要請されるしかない。

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これまでわたしの抱いてきた彼について、いや彼を巡る印象~感想である。
わたしもモネの一ファンであることは間違いない。
それにわたしは、あまり論理で突き進むだけの現代美術には関心が寄せられなかった分、モネの快感がまだ瑞々しいまま残っている。

ただわたしの個人的な趣味で、モローバルテュスボッチョーニが大好きトリオなのではあるが(笑、、、。
それは仕方ない。
モネは見る度に、いいなあ~っと、ただ快楽に浸れる画家である。
初期の頃の硬質な感じの絵からして好きだ。


何だかわたしは(も)、印象派が好きなんだと今更ながら自覚するのだった(爆。
今夜はじっくりモネ画集を眺めて寝よう。
ラベル(モーリス・ラヴェル)の「水の戯れ」でもかけて。そうだその後に、「マ・メール・ロワ」と「亡き王女のためのパヴァーヌ」を繋げて、、、ZZZ(笑。

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色々あった日だ

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今日は大安であった。

早朝、公園でゆっくり読書し、昼過ぎに女子美に行ってみたらアートミュージアムで何かやっていることを知る。
寄ったらすぐに帰るつもりが、中国の山水画家の絵の展示であった。
わたしの守備範囲外であったため、サラっと眺めそのままホントに久しぶりに学食に行くことにした。
5年ぶりくらいか、、、。
ここの学食はとっても広い。
以前、二日連続で仕事で来たことがあった。
もう随分昔に思える。

ここのところ駅蕎麦も含め、蕎麦に凝っている。
選択肢がただの蕎麦とキツネとタヌキだけだったので、タヌキにした。
アート系女子大生に混じり、一人蕎麦をすすった。
割と近くで外国の留学生?がカレーうどんを食べていた(流石にヨーロッパでは食べられないだろうしな~。)
(それがどうした?)
なかなか旨かった。
値段は学食だと普通安いものだが、特に安くも高くも感じない(わたしの大学の学食はメッチャ安かった(笑)。
ただ女子大だけあって?、量は少なめ。(わたしの後ろの学生は大盛を頼んでいたが、分かる)。

わたしが最近見つけ、朝しつこく通い始めた蕎麦屋は朝だけサービス価格になっていて天玉蕎麦がとってもリーズナブルに食べれれる。まあ、こちらはダンプの運転手の集まる男臭い環境であるが。いまのところここが一番気に入ってはいる。結構旨いし。

女子美に朝から来れない。それに朝から学食やっていたかどうか、、、今度確認しよう。
(わたしのところではやっていた)。


帰ってからビデオデッキの容量空け作業。
デッキ本体と外付けHDの二つでやり繰りしているが、かなり厳しくなってきていた。
観ないで消すのも心残りであるし、Blu-rayメディアに片っ端逃がした。
ほとんど映画だが、科学系のドキュメントもある。複数回観るかどうかは、自信ない。
だが、面白い部分が少しでもあるかも知れず、取り敢えずとっておこう。
が、時間はどうしてもかかる。
ここで何より注意したいのは、以前コピーしたものとダブらないことである。
すでに10タイトルくらいそれをやってしまっている(痛。
NHKは再放送が多い。同じ「いきものがかりライブ」を2回もコピーしたときは情けなかった(怒。

ついでに映画を一つ見るには見たが、これがまた酷いもので~途中からは早回し、日本映画は事前に評価をたくさん見て、そのうえで見るかどうか(直ぐ消すかを)判断することに決めた。
くれぐれも愚にもつかぬことに自分の貴重な時間を吸い取られないよう心がけよう。
ちなみに、今日コピーした「アウトレイジ」は楽しみだ、、、(カット版かな~)。


娘たちと昨日雨で出来なかったワークショップをすぐ近くの公園でやってみた。
周りの遊具が気になり、遊ぶ体制が強すぎて、事前の心構えを作ることが出来ず、ただ形だけやるにとどまった感が強い。
感想を聴くと、ちょっと不安だったという答えに、少し手応えは感じたが。
(もっと心細さを用意しないといけない。次回はそうしよう)。
後は、遊具で遊び、虫を発見して(と言っても木登りするカメムシの模様と木肌が同じなのを知って)驚き、駆けっこをしてから5時のサイレンで帰った。
不思議に、5時のサイレンが鳴ると、どの子も蜘蛛の子を散らしたようにいなくなる。
これがわたしが今日一番驚いたことか?


月齢8.9

ホントに久しぶりに月を娘たちと見た。
欠けてぼやけるあたりのクレーターがとりわけクッキリ観えて気持ち良い。
相変わらず表情豊かだ。
(いつも同じ面しか見せないとは言え)。
これが静かに遠ざかって行くというのは、、、感慨深い。

だが、月だけではない。
このままの速度で宇宙が膨張し続ければ、われわれの子孫は夜空に星なんて見ることすら出来なくなるはず。
今、この時代に生きているから宇宙についての様々な思いを巡らすことも可能だが。
漆黒の闇しかなければ、空を見上げることもなくなるだろう。



シスレーに触れて

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シスレーについては色々と語れる程、観て来た画家ではない。
確かに画商でも評論家でもあるまいに、多くの作品や資料にあたる機会もないものだ。

大概、他の画家についても、絵をたまたま数点~数十点観ることで、(心地よい美に浸って惹かれてしまうなどして)それがその画家のイメージとなってきた。
ひとつの絵のなかにその画家の強烈な個性や創造性が渦巻いており、そのエッセンスを感じ取れれば彼~彼女のイメージが自分の内に生成されてゆく。

、、、考えてみると印象派には「風景画」の傑作が多い。
かつてない風景画が沢山生まれていることに気付く、、、
みんなチューブ絵の具をもって外に出て、五感全解で自然の神秘に、言葉~伝統を捨てて向き合ったのだ。
そこから生まれる生の風景の輝きが感じられる。
(生チョコレートでも生ビールでも、なんでも、生のつく美味しさである)。

わたしのなかでシスレーは、数少ない作品からイメージが作られている。
彼の絵では幾つかの「風景画」しか知らない。
如何にも印象派という風景画だ。
とても穏やかで美しい。
はっきりと分かる流麗なタッチと優しく鮮やかな色彩が心地よい為、血圧もスッと落ち着く(笑。
でもそんな絵である。
それだけで充分。
これだけ心地よい風景というものは、滅多に観れないことに改めて気付く、、、。
見直してみてつくづくそう思う。

その風景を観て、他に何かを探す~探る必然性も感じない。
シスレーを研究したいなどという気持ちも微塵もないため、気に入った風景画がシスレーそのものである。
絵の画題など知らず、シスレーで総称している。
実際、シスレーは「印象派の風景画」を極めた人のようで、生涯の作品のほとんどが風景画であったという。
かのピサロも認めた画家である。
作風もしっかり安定しており(恐らく変化も然程せずに)達者な印象派の手法で、次々に風景画を描いていった。
安定というより、しなやかで安らぐという感じか、、、。
一種の焦慮の念や郷愁も覚える。
そこに無性に惹かれる。何だろうかこのときめき。
特に、水辺(河)のある空気の広がった風景が好きでたまらない。

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はじめの頃はとても裕福な家庭の息子であったため、絵が売れなくても何の不自由もなかったようだ。
シスレーの活躍した当時、印象派はまだ売れる段階にはなかった。

後に 普仏戦争と父親の破産のため困窮することになる。
後援者が現れ何とかやって行けたようだが、、、。


今日、画集で見直してみて改めてシスレーが気になって来た。
作品展があったら、何があっても行って、じっくりとタップリ時間を費やしてその世界に触れたい。

美術教室準備

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今日をいきなり第一回目とした。
まだ肝心の生徒さんは間に合わず、娘二人と開始しようと、、、しかし。
彼女らもやることがあるし、まだそのつもりになっていないということもあり、プレ教室としてワークショップをやることにした。
今日は宿題をしてからパーティのお買い物があり、わたしもついてゆくことになっている。
その後、外へ。できれば公園で、、、。
何?次女は先にお風呂に入ると、、、。
(ゲームを始める前に何とかしよう)。


ワークショップは何かというと、二人ペアとなり、片方が目を鉢巻きで隠し、もう一人が道案内をする。
極めてシンプルなもの。
手を繋ぎ、道の凹凸などはしっかり目隠し相手に教えて歩く。
ヨガのひとつの方法らしい。
これはわたしが大学時代に外部講師から教えてもらったもので、非常に面白かった経験がある。
何の授業でやったかは忘れたが。

目が見えない側は、「光と影の変化」や「風の向きや強さ」、耳に入って来る「音の方向や響き」、「地面の微妙な硬さ柔らかさの感触」などをいつになく敏感に感知~感得する。
そう、それが思いの外劇的変化だったりする。普段はオブラートで包まれたかのようにしか感じないことが。
鮮烈な刺激で感覚能力が上がったかのような印象を受ける。
いや実際あがっているはず。
日頃視覚~概念(悟性)に余りに頼り過ぎていることからくるぼんやりした感覚から抜け出る、かなり手軽で効果的な試みの一つと想える。
(その講師の方は有名な物理の先生だったらしいが、名前は失念した)。

モノの観察、モノに関わってゆくには、こちら側の感覚が研ぎ澄まされているに越したことはない。
(なるほど、物理はかつてないほどの微細でデリケートな観測を強いられている)。
少なくとも知覚の幅が(心理的にでも)広がっていれば、その分モノが瑞々しく捉えられることが期待できよう。


、、、と思って表に出ようとしたら、タイミングよく大雨がいきなり降って来た。
(逆シンクロニシティー、、、そんなものがあるか?)
どうやら、、、わたしが絵を描こう、絵の準備をしようとするとこれまでも何か決意を挫くことがあったが、、、
結局、長女の提案通り、来週の木曜日から開始することとなった(残。
考えてみれば、家族の中でやるより、生徒がいた方が背筋もしゃんとする。
親子だけでやるのは、恐らくピリッとしない。
他者がいることで教室らしくなるというもの。 


しかし愚図つく天気の続くこと、、、。

天体望遠鏡もず~っと覗けない、、、。







カメが落ち着く

kame03.jpg

青いデカいタライに移り住んだカメであるが、漸く落ち着き、自分たちの住処という気持ちになったようだ。
動きもゆったりしてきて、餌をよく食べるようになった。
(以前、嵐の日に水槽ごとテラスに出しっぱなしで忘れていた時、かなりのストレスをためたのか、家に入れても随分激しくふたりで手足をばたつかせたり~顔を神経質に互いに突っつき合ったりしたことがあった)。
結構、環境に対しナイーブのようなので、こちらも一安心。

カメは大きくなるとペットショップの店員にも言われたが、その後も遊びに来た親戚にも心配そうな表情で「大きくなるけど、、、」と何度か念を押されてきた。
確かにみるみる大きくなっている今日この頃、、、(笑。

昨年6月に買った時は3センチ程であったが、今は16センチである。尻尾と頭(首か)を伸ばせばもっとか?
やはり初めに謂われたように30センチにはなりそうだ。
だとすると、新しく取り替えた青タライでなんとかなる。
二つの亀島を大きな亀島一つにでも置き換えれば、中で泳げない訳ではない。

顔つきは変わっていない。
人ならそれだけ成長すると顔も変わって来るが、ほぼ同じである。
長女のカメは少し大人しめの穏やかな顔で、次女のカメは結構、文句のあるようなきつめの表情をしている。

今もそれぞれの亀島に乗って首を伸ばして外界を窺っている。
好奇心があるのか、ただまっしぐらに歩きたいだけなのか、外に出すとひたすら速足で前方に進んでゆく。
かなり速い。
先ほど少しだけ、お散歩させたが、どうなのかこんな風に時折歩かせた方がよいのものか。
亀島に登る際に、しょっちゅうロッククライミングになっており、そこで筋力はつけている気はするが。

動きを観ていると、ホントに飽きないひとたちである。
癒される、、、。


今週の土曜は、次女のお茶会~ハロウィンパーティなのだそうで、そのなかにカメとも遊ぶコーナーがあるらしい。
学校のカメと家のカメが丁度同じくらいの大きさで、以前彼女らが押し寄せて来た時も、カメに馴染んでいた。
その時は、会の名称は「女子会」であった。
「お茶会」と「女子会」とどう違うのかは分からない。
メンバーも同じだし、、、。
お菓子やケーキや紅茶は同じように用意している。
恐らく遊ぶ内容が微妙に違うのだろう。
今度聞いてみたい。


取り敢えず、カメも落ち着き一安心。
餌が残り少なくなってきたので、次女と一緒に買いに行こう。




セザンヌ

Cézanne001

セザンヌを観る度に頭を過るのは、「達人」ということばである。
彼の絵には、余白がそのまんまのこされているものがある。
余白と言っても背景とかではない。
人物の頭部や体~衣服である。
然も余白があってしっかり凄みのある絵となっている。

もしかしたら未完なのかも知れないし、もうこれ以上手を入れる必要なし、と謂って筆を置いた絵かも知れない。
だが、その絵の存在感は途轍もないものだ。
こんな芸当の出来る画家はそれ程いない。
日本の文人画などにはよくあるパタン~思想ではあるが、、、西洋の油絵である。
(絵に対する基本的な構えや画材そのものが根本的に違う)。
まずアングルに出来るはずはない(笑。
(あくまでも素描~エスキースとかは別として)。
アングルに限らず西洋画は偏執狂的充填の世界である。
ゴーギャンのように金がなくなってちょっとばかり絵に余白が残ったという例もあるにはあるが。

どこかセザンヌは孤絶している。
孤高の人である。
全ては円筒と円錐と球で構成されている、という彼の絵画論のなかの言葉があり、とても印象的というか学生時代にびっくりした概念がある。
先輩と絵の何処の部分が球で円筒で円錐か絵を探ってみたことがあった。
そうしているうちに、ちょっとそういう単純なパズル~構成を越えたものだという感じがとてもしてきて徒労感を強くしたことがある。

セザンヌのもっともセザンヌらしい絵の存在感は、そのタッチからくると思う。
アングルにタッチはない。(タッチは絶対残さない)。
タッチは厳禁という画家は結構多い。
(アングルは子供の頃は、ダリとともに凄い上手い画家として尊敬していたが、セザンヌに触れてのっぺりしたビニール製品の制作者のような感覚しか持てなくなった)。

やはりこのタッチが達人なのだと思う。
またタッチを積極的に造形そのものに反映させるひとは、そのタッチがそれぞれ個性的で異なる。
画家~身体性が違うのだから当然のことだが、それに見入るととても面白く示唆的だ。
ゴッホなど一つの絵でそれを実に繊細に使い分けている。
非常に多彩で変幻自在な使い方だ。

それに比べるとセザンヌのタッチは見て分かるゴッホのようなシステマチックで知的なタッチとはまた違う。
物凄く確信に満ちた豪放なタッチであることは間違いないのだが、余白も含めて何であろう?
天才の意匠であるか。

そういってしまえばそれまでである。
ただ、事象を日常的な概念~名称で見てしまうと、例えば大事な個性を示す顔だけはしっかり塗って体から離れた部分についてはその重要性が薄れるなどの塗り分け、が無意識的に起きてしまうだろうが、セザンヌの「全ては円筒と円錐と球による」という観念に沿って描くと、何処が有意味な中心とかいう分け隔ては少なくともなくなる。
全ては全く異なる形成力のもとで生成される。
これはひとつ、とても肝心なところだと思う。

ともかくこれ程、絵を観る快感の味わえる画家もいない。
恐らく、今流行りの何でもコンピュータで解析する流れで、この円筒と円錐と球による絵の構成とか、タッチの法則などを観てみても、何かが分かるとは思えない。
凄く潜在した造形への必然性を感じる。
全く違う文法で形成されたものがたまたまわれわれの知っている世界に重なっているような危うさと快感がある。

Cézanne002


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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