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デッド・ゾーン

The Dead Zone002

The Dead Zone
1983年

デヴィッド・クローネンバーグ監督
スティーヴン・キング小説『デッド・ゾーン』原作

クリストファー・ウォーケン、、、ジョニー(元高校教師、家庭教師)
ブルック・アダムス、、、サラ(ジョニーの元フィアンセ)
マーティン・シーン、、、スティルソン(危険な政治家)
ハーバート・ロム、、、ウイザック(ジョニーの主治医)
トム・スケリット、、、バナーマン(保安官)

デヴィッド・クローネンバーグは、「ヴィデオドローム」「ザ・フライ」「 イースタン・プロミス」などの圧倒的な存在感のあるものが目立つが、この作品の隙のない丁寧で繊細な出来には、とくに好感を抱く。

美しい映画であった。
デヴィッド・クローネンバーグ監督はスティーヴン・キングの小説の世界観を余すところなく表現できていると思う。
いや更に透徹した世界に達していはいないか、、、。
クリストファー・ウォーケンの演技がそれを充分に体現し表出していた。

ヴィジョンの絶対的な説得力は様々なところで生きる。
多くは芸術の領域で発揮されることは多い。
以前、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンに関して採り上げたことはあるが、少なからず画家や小説家にも見受けられることは事実である。

フィアンセと共に幸せな日常を育んでいたジョニーにとり、ある夜の突然の交通事故により、彼も尋常でないヴィジョンを得ることとなる。
しかしその能力は、5年間の昏睡による時間の喪失、それは同時にかけがいのない恋人の喪失でもあり、ベッドから起き上がっても杖なしには歩けない足の不自由が残る、、、その代償として得られたものである。


確かに彼のような内的~潜在的コミュニケーション能力は、「心的現象論」を論じる吉本隆明氏もその存在を認めている。
所謂、世間的にいう超能力だ。
ひとつの源言語的能力で、胎内にいた時期の極めて初期に形成され得る能力のひとつとして捉えられている。

特にジョニーのように、それが強力で卓越したものであると、世間の好奇の目からは逃れられない。
芸術などに昇華・表現したものであれば、その領域での評価を呼ぶだろうが、彼の場合、日常に密着している。
彼は警察にも協力し犯人逮捕に貢献するが逆恨みを受け、銃で撃たれたりもする目に遭う。
面白おかしくメディアで採り上げられたり、犬を探してくれ的な手紙が山ほど届いたり、ただ彼を追い詰め悩ます事にしかならない。
しかも能力は次第に強まってくると同時に体力は衰弱して来る。
主治医には病院の管理下での生活を勧められるが、彼は今でも充分に管理下に置かれていることを告げる。
彼にとってはそれは忌まわしい能力でしかない。

連続殺人犯の警官の母親が息子のことを知っていた事実や主治医のウイザックが少年時代、ヒトラーに戦火のなか母親とはぐれたままになっていた深層の記憶と、その母親が遠くでまだ生きていることの透視は、さもあろうかと分かる。
彼らの意識のなか、記憶の底を探れば見えてくるだろう。
家庭教師を任され親しくなった少年が近未来に湖の事故に遭うことの予見は高度さは増していると思われるが、感情的な繋がりがそれを可能にしたとは受け取れる。だが手を触れたばかりの看護婦の自宅が今家事である事は、かなりの超能力と言えよう。
そして、連続殺人犯に殺された少女の遺体に触れてその犯人を特定した~顔を観た能力は、もうモノ~屍体から想念?を得るレヴェルである。少し他のケースから見て飛躍は感じられる部分ではある、、、。
そして、彼のかつての恋人サラが積極的に応援運動をしている政治家スティルソンの手を握った時に、彼が将来大統領となり、国の有事に躊躇いもなく核ミサイルを発射させることをはっきりと見てしまう。
強烈なヴィジョンである。
彼はさすがに、ウイザックに「ヒトラーがあのように台頭することが分かっていたら事前に彼を殺すか?」と問う。
すると彼は、「わたしは人々の命を救うのが仕事だ。勿論、彼を何があっても殺す。」と答える。

ジョニーは選挙演説の会場に銃をもって潜む。
結局、サラがスティルソンの間近におり、彼女の子供を盾として身を守った為に、彼が銃殺されることになる。
しかし、その一部始終はマスコミのカメラに収められ、駆け寄って彼を問い詰めてきたスティルソンが自滅して自殺するヴィジョンをジョニーは得る。
サラがどうして、、、?と困惑と驚きをもって彼を抱き上げるなか、彼は安堵して絶命する。
自分が死んでしまえば原理的に意味のないことではあるが、そのヴィジョンを観てしまえば、阻止できるのは自分であると思うだろう。わたしもほぼ同じ行動に出てしまうかも知れない。
世界を救うためとかいう大儀や自己犠牲の意識ではなく、そのヴィジョンの絶対性に突き動かされて、不可避的にとった行動であると思われる。
彼にとってきっとヴィジョンは、現実より強烈なリアリティを湛えたものであったはずだ。

最期に彼は、自分の能力を「今は神の恵みだと思っている」と恩寵として捉えて死んでいる。
The Dead Zone001

ジュリエット・ビノシュ in ラヴァーズ・ダイアリー

ELLES001.jpg

ELLES
2011年
フランス・ポーランド・ドイツ

マルゴスカ・シュモウスカ監督・脚本

ジュリエット・ビノシュ、、、アンヌ(ELLES雑誌記者)
ジョアンナ・クーリグ、、、アリツィア(女子大生)
アナイス・ドゥムースティエ、、、シャルロット(女子大生)
ルイ=ド・ドゥ・ランクザン、、、夫

ジュリエット・ビノシュ主演でなければまず観ない。
邦題が悪すぎる。
”ELLES”である。彼女ら~ELLES(雑誌名)で良かろうに、、、。
題が作品の品格を落としている。


クラシック音楽~最初の頃のは思い出せないがワグナー、マーラー、ベートーベンなどを基調としている。
が、そこに、、、あのシャンソン、、、何であったっけ、、、が介入してくる。
インテリア、服、ドレス、調度、色調などが彼女の生活の質を綺麗に表しているが、、、
冷蔵庫のドアにいちいち引っかかる。(何かが必ず邪魔してドアが閉まらないのだ)。
ここに綻び、不協和音が現れてくる。
そういうものだ。
一見整然としているように見えて、、、
エントロピーが静かに増大してくる。


熟年夫婦となると子供を介して繋がっている部分が大きい。
もうお互い同士の関係の瑞々しい更新は困難となってきている。
これはある意味、人間における普遍的で深刻な問題なのだ。
しかし、肝心の子供は親の預かり知れない何者かとなっている。
価値観が理解不能になっている。(長男の大学生の部屋にはチェ・ゲバラのポスターが飾ってあった)。
(ついでに次男の小学生は、流行りのゲームばかりしている)。
コミュニケーション自体も不全に陥っていることは明白だ。
特に大学生の長男は相当に生意気で親を馬鹿にしている。

”ELLES”の雑誌記者であるアンヌは、女子大生の援助交際の記事を書くために、見た目もごく普通の可愛らしい女子大生に取材を持ち込む。彼女らのネット上の広告を見てインタビューをするのだ。
最初は壁を作る彼女らであったが、アンヌの彼女らに対する先入観(偏見)が薄らぎ、一緒にパスタを食べたりお酒を飲んだり、シャンソン(クラシックではない)で踊ってみたりしているうちに、彼女らも心を開き質問に全て答え、赤裸々な話をしてゆく。
明らかにアンヌに好意を示し、自分の本当の名前も明かす。
夫がアンヌの今取り組んでいる仕事を、娼婦の取材と蔑視していることに彼女は大きな意識の落差を覚える。
更に、長男が学校をサボり薬をやったことに対して、夫は妻が家庭を向いていないと批判する。
「わたしたちの責任じゃないの?」というアンヌに取り合わず、上司を呼ぶ今夜のディナーの食事や振る舞いばかりを気にしている。

実際女子大生のふたりは、経済的な必要性、バイトでは勉強する時間すらなくなってしまうため始めたのだが、時間とお金の余裕で、人間として女性としても明るく力強く暮らしていることを知る。
ほとんどネガティブな感情は持っていない。それ以前の生活の方が遥かに辛く惨めであったのだ。
確かにこころが全てを受け入れているわけではない。
社会的にも知人にも秘密の仕事で余裕を持てているのだ。
しかし、少なくとも女性として扱われ、逞しく生活を営んでいることにアンヌは動揺し、自分の置かれた現状が逆照射されることとなる。
特に「女性」としてである。
ここでの性的な描写が女性監督のためか、感情的な流れも含め、かなりリアルに受け取れる。


夫が招待した上司たちとのディナーを囲むと彼女には彼らが皆、取材を続けているふたりの女子大生の客でもあることを想像する。確かに買うものたち~需要があるために成り立つ構造なのだ。
彼女はそれまでの日常に、自分の深層の欲望に自覚的になっている。
ディナーの場が耐え切れず席を突然離れ、外気に当たりにゆく。
もうどうでも良いわ、、、とか漏らしていた、、、。


翌朝、綺麗な食卓を親子で囲む朝食の光景が流れる。
食事はみんなで仲良くとらねばならない。
それぞれがこころは離れていても、食事を共にとることが家族を取り敢えず繋ぎ留める。
そんな静かで明るい映像が続き、エンドロールへ、、、。



アンタッチャブル

The Untouchables001

The Untouchables
1987年
アメリカ

ブライアン・デ・パルマ監督
エリオット・ネス の自伝を原作とする実録映画
デヴィッド・マメット脚本
エンニオ・モリコーネ音楽

ケビン・コスナー、、、エリオット・ネス(財務省捜査官)
ショーン・コネリー、、、ジム・マローン(シカゴ市警警官)
アンディ・ガルシア、、、ジョージ・ストーン(射撃の名手、若手警官)
チャールズ・マーティン・スミス、、、オスカー・ウォーレス(財務省簿記係)
ロバート・デ・ニーロ、、、アル・カポネ
ビリー・ドラゴ、、、フランク・ニッティ(アル・カポネ腹心の殺し屋)

今では「マイインターン」で優しさと包容力一杯の役などを好演しているロバート・デ・ニーロの鬼気迫るアル・カポネである。
ビリー・ドラゴの殺し屋は妖気さえ漂わせていた。もう紙一重である。
ショーン・コネリーは味わい深い役をしっかりこなしている。この映画の中核を成していることは間違いない。
アンディ・ガルシアは瑞々しくシャープでスマートであった。
チャールズ・マーティン・スミスの個性はこの物語に幅を持たせていて、過度の緊張を和らげる存在でもあった。簿記係なのに銃撃戦でも予想外の活躍なのがちょっとコメディ調でもあった。
ケビン・コスナーはこの役にピッタリであった。正義に拘り名誉も気にし揺れ動く主人公の繊細なこころの動きをうまくなぞっている。

丁度「ゴッドファーザー」の裏側の話だ。

禁酒法時代の話である。
酒が作れず売ることも呑む事もできなければ、世は荒れるだろう。
当然、それにつけ込む人間は出てくる。
呑みたい人間は金を出す。(ポテチが食べられないくらいで、ネット上で大金が動くのだ(笑)。
酒の密造とカナダからの密輸で大儲けする組織が出来る。
アル・カポネがその最大勢力のボスであった。

法はあくまで法であり、彼がチーム「アンタッチャブルズ」によって、逮捕されてすぐ後に禁酒法はなくなり、何時でも好きなだけ酒が呑める事になる、、、。
法とは法である。法以外の何ものでもない。

ただ、この物語の発端にあるのは、ギャングの酒の売り込みを拒絶した店主の店を爆破したことによる10歳の少女の巻き添えの爆死である。
この深い悲しみから市民に対する暴力の阻止のためエリオット・ネスたちが立ち上がったと言えよう。
しかし、捜査は難航を極める。
権力の深みにまでアル・カポネの金の力が浸透していたのだ。
勿論、警察の中に内通者がかなりおり、エリオット・ネスの最初のガサ入れは見事失敗する。
失態は大々的にメディアに乗って物笑いの種にされ、権威の失墜も含め、人身のマインドをもコントロールしてしまう。
昨日の、コルレオーネの勢力も政治家や警察やメディアを抱え込むことで強大化していた。
その構造は同じである。

この映画では、暴力~銃に対しては暴力~銃で叩き潰すという基本姿勢である。
シカゴ流なのだ。後半に至るまで、これをグイグイとジム・マローンが引っ張る。
かなり血なまぐさい。
壮絶である。
人物がよく描かれている分、「アンタッチャブルズ」のうち二人が死んでしまうのは、こちらの胸も痛くなった。
そして撮り方である。
緊張を如何に保つか、生理的に心理的に微細に尺の長さを調整していることは明らかだ。
脚本的~流れにも焦らすような効果を取り込んでこちらを緊張の内で揺り動かそうとしている。

また、その道具立てと場所だ。
クラシックカー(1930年代)や騎馬隊(車ではないのか)が贅沢に出てくる。
ちょっと小屋も含めて西部劇を連想してしまう、、、。
そして「階段」での「乳母車」越しの銃撃戦である。
度々上下の高さを使った攻防が巧みに描かれていた。
ここが非常に緊張を高めるところで、主に神経を極限的に使い、決断を下す場面となる。

冒頭での少女の爆死から事実上の最後の決着を着けるところも子供絡みである。
かなりの危うさであるが、ジョージ・ストーンの射撃の腕に託された。
母親としてはその事態に不安と恐怖でたまったものではないが、、、。
(爆死した少女の母親がエリオットに犯罪組織の撲滅の懇願に来ていたことの対比でもある)。


全体を通し音楽は実に演出効果を上手く務めていた。全体をスムーズに流す作用がよく効いていた。

今日はマフィアに戦いを挑む法の側の物語であったが、これ以降の暴力、汚職について改善はみられたのだろうか。
(確かに改善された部分はあると思われるが、、、寧ろ裏切り者は許さないというアルの姿勢の徹底化が進んだようにはっきり思えるところである。その極端な例がプリズム!ある意味、全世界的に透明化したマフィアに覆われたような恐ろしい世の中となったものだ)。


ゴッド ファーザー

The Godfather001

The Godfather
1972年
アメリカ

フランシス・フォード・コッポラ監督
マリオ・プーゾ『ゴッドファーザー』原作
マリオ・プーゾ、フランシス・フォード・コッポラ脚本
ニーノ・ロータ音楽


マーロン・ブランド、、、ドン・ヴィトー・コルレオーネ(コルレオーネ家の家長)
アル・パチーノ、、、マイケル・“マイク”・コルレオーネ(コルレオーネの三男)
ジェームズ・カーン、、、サンティノ・“ソニー”・コルレオーネ(コルレオーネの長男)
ロバート・デュヴァル、、、トム・ヘイゲン(コルレオーネ家の相談役)
ダイアン・キートン、、、ケイ・アダムス・コルレオーネ(マイケルの妻)
リチャード・カステラーノ、、、ピーター・クレメンザ(コルレオーネ家の古参幹部)
ジョン・カザール、、、フレデリコ・“フレド”・コルレオーネ(コルレオーネの次男)


設定だけでなく重みが「カラマーゾフの兄弟」にも似ている。
実は、「ゴッド ファーザー」をアマゾンプライムで初めて見た、、、。
わたしは、マフィアのドンパチがあまり好きではなく、これも敬遠していたのだが、フランシス・フォード・コッポラなので観てみたのだが、、、。
これは別格の作品である。

マーロン・ブランド、本当に重厚で燻し銀の演技である。
ニューヨーク・マフィアの頂点に立つ男の孤独と人間愛が深い味わいで表出されていた。
家族を大切にし麻薬を嫌っているところも、はっきりけじめのある人格である。
彼の出る場面はまるで、レンブラントの絵を観る想いだ(あの内面を抉る自画像群)。
(恐らくコッポラ監督もそこを狙っているのでは、、、)。
ここに本意ではないが、父を尊敬するマイクが結局、二代目を継ぐ過程が鮮やかに描きこまれる。
アル・パチーノの最初の青臭さから最後の覚悟を決めた精悍な面構えになるまでの変化の演技も素晴らしい。
周りの強面衆も実に渋くて滲みる。
一人一人の陰影が深くバロック絵画を想わせる絵とニーノ・ロータの音楽がこの映画を別格のものにしている。
これは、見始めたら3時間はあっという間であった。

緻密な構成には呆気にとられる。
精緻な工芸品に似た感触がある。
ドンがオレンジを買いに独りで出て行ったところを待ち伏せた対抗勢力の銃弾に倒れる。
奇跡的に回復するが最期はオレンジの農園の中で孫の防虫剤の銃に撃たれながら絶命する。
葬儀屋の娘が乱暴され顔を潰され報復を頼まれるドンであったが、その男に敵の銃弾に蜂の巣にされたソニーの遺体の修復を頼む。
パン屋の結婚を助けるとドンの入院する病院を守ることにそのパン屋が協力することに、、、。
そう言えばその婚約者はイタリアに行くことを止められうまくいく。
マイクは敵対勢力のボスとそれに協力する警部を射殺しイタリアに飛ぶ。
この視点で見ると、そんな対応関係でぎっしり稠密に練り上げられた映像であったのだ。
何気なく観てしまったのだが。

対比するモジュールで網目のように構成されている作品であることに気づく、、、。
これは飛んでもない美学によるアプローチで作られた特殊な映画のようだ。
一回観ただけでは、その全貌など掴めないことが分かるということだけは確認できた。

内容的に観ても、裏社会に生きること自分のファミリーが特殊であることに大いに抵抗をもっていたマイクがあのように変貌を遂げてゆくことに何とも言えない悲哀を覚えつつも非常に共感してしまうのだ。
(長男は直情的で粗暴で単純なため組織を任せられる器とは言えない。次男は気が弱く軽くあしらわれてしまうとてもマフィアの務まる性格ではない。やはり大学出の軍隊で表彰を受けた沈着冷静な自分が引き受けるしかない、、、と父の入院する病院を独りで守ったときに決意を固めたはずだ)。
そして最期まで威厳と包容力を保つドンの姿。
彼の死去で確実に何か大きなものが画面から喪失する。
マイクの変貌がここに極まる。
この辺の体感感覚が通常の映画とは異なるのだ。


The Godfather002
洗礼を受ける男の子として乳児であるがソフィア・コッポラがここでも出演している。
特に笑えるシーンではなかった。というよりその存在が緊張の最高度に高まる場面の演出になっていた。
赤ん坊が洗礼を教会で受けているときに、敵対するマフィアのボスたちを次々に虐殺してゆくこの生と死の極まり。
これほどフラジャイルで緊迫する生と死のドラマを見たことがない。
いやこれこそが洗礼なのか!そうなのだ。全ての魔を振り払う、、、。
無意識とは言え役者として彼女の最高の演技であったはず。(それ以降を見れば皮肉にも間違いなく、、、)。


それでも恋するバルセロナ

Vicky Cristina Barcelona001

Vicky Cristina Barcelona
2008年
アメリカ・スペイン

ウディ・アレン監督・脚本

ハビエル・バルデム、、、フアン・アントニオ
レベッカ・ホール、、、ヴィッキー
ペネロペ・クルス、、、マリア・エレーナ
スカーレット・ヨハンソン、、、クリスティーナ


スペインの太陽とガウディの建築があれば、こういう気分になるものだろう。
それは正しい。
「成就しない恋愛こそロマンチックだ」とは実にめでたい。
きっとこの気候と景色がよいのだ。

展開は小気味よい。
ちょうど良い時期にナレーションが入り、歌が入ってくる。
この辺のウディ・アレンのセンスは好きだ。
「ミッドナイト・イン・パリ」もこのセンスが光っていた。ただジョークは向こうの方が上で、もっと面白かったが。

ともかく、重くしないでオシャレに運ぶ。
扱っている恋愛沙汰自体はそれこそ、かなりシンドくてドロドロしたものだが。
アメリカの一般的な結婚生活~価値観にはウンザリというところはよくにじみ出ている。
(彼らの場合、アメリカのセレブであるが)。
ただ、こちらに来れば何かが変わり、自分にピッタリのもの~生活スタイルが見つかるかというと、、、
そうもいかない。
(アメリカを離れてここで経験したことは、意味はあったが、やはり強烈すぎたか?)
Vicky Cristina Barcelona003


そもそもふたりは安定~確信(発見)を求めてきたのか?
そうではない。
だいたい、自分探しの旅だなんて、、、探し当てた先の自分などという幻想は存在し得ない。
元々ないもの探すこと自体が甘ちょろい。というよりその身振り自体が甘い。
ただの気晴らしのレベルに過ぎない。

マリア・エレーナがクリスティーナに対して吐いていたことば「あなたは慢性的な欲求不満よ!」
その通りで、どうあっても、人は今に充足できない。
恵まれてるとか幸せとか関係なく、今在るところのものからはみ出ていくのが存在形式として必然なのだ。
現状を解体して~破壊して違うものを構築し続ける。
この構築し続ける運動こそが生であり性であろう。
そこに自分とか何とかは関係しない。
ひたすら運動する~生きるという事実があるだけだ。
ガウディの建築そのものである。
Vicky Cristina Barcelona002

本来、人間には中心がなく、永遠に日々のディテールを記述しながら未完の長編を構築し続けてゆくしかないのだ。
それがガウディであり、カフカが鋭利に示した世界なのだ。

フアン・アントニオとマリア・エレーナの関係はもっとも創造的で破壊的な、ある意味理想的な方向性をもったものであるが、安定とは無縁でひとつ間違えれば死に直結してしまう。
それに中途半端に憧れるクリスティーナとヴィッキーは、その事態を垣間見て経験はするが、やはり観光客としてアメリカに戻ってゆく。
特にヴィッキーは、最後のフアン・アントニオとマリア・エレーナの拳銃沙汰で外傷経験をもってはいないか。
これで懲りてしまうと、行く前より典型的なアメリカ(セレブ)型に収まってしまう。
大概はそのパタンではなかろうか、、、。

今の生活を、諦観で染めない、、、そこに尽きる。


わたしにとってここに出てくる人物など誰も皆、基本的にどうでもよく、この群像劇を見ていて感じたことが以上のことである。


ランブルフィッシュ

Rumble Fish001

Rumble Fish
1983年
アメリカ

フランシス・フォード・コッポラ監督
S・E・ヒントン原作
スチュワート・コープランド音楽 言わずと知れた”ポリス”のドラマーである。

マット・ディロン、、、ラスティ・ジェームズ
ミッキー・ローク、、、モーターサイクルボーイ(兄)
ダイアン・レイン、、、パティ(彼女、、、元か)
デニス・ホッパー、、、父
ニコラス・ケイジ、、、スモーキー(ラスティを裏切る)
ヴィンセント・スパーノ、、、スティーヴ(ラスティの親友)
トム・ウェイツ、、、ベニー(カフェバー店主)

とても贅沢なキャストだ。
トム・ウェイツは、俳優としてもかなりのキャリアを積み重ねていることを改めて知った。
ミュージシャンで俳優をやっている人は確かにいるが、、、どちらも極めている。


荒涼とした夜の迷路をあてどなく彷徨うモーターサイクルボーイとラスティ・ジェームズ。
そうここは完全な迷路だ。
この不安と不穏の響き渡る夜の街で、頼りとしている背が、ふっと兄の姿が視界から消えるときの寄る辺なさ、、、すごく共振した。
いみじくも彼らの父が呑んだくれてラスティ・ジェームズに言ったことがとても実感できる。
「鋭い知覚認知を持っているからといってそれは異常ではない。ただ間違った時代に間違った場所で生を受けてしまったんだ。彼は自分が何も望むことがないのに気づいてしまったんだ、、、。」
Rumble Fish002


道理で、カフカの小説をあからさまに原作とした映画より遥かにカフカ的であった。
また、シュールレアリスムに通底する。
だから街のディテールは冴え渡っているではないか!
タルコフスキーの詩情も感じる。
感触は「去年マリエンバートで」に近かった。
アメリカ映画界は時折、飛んでもない作品を生み出す。
フランシス・フォード・コッポラは、と言うべきか、、、。
確かに「コッポラ胡蝶の夢」も圧巻であったが。

闘魚だけが美しい赤と青であった。
モーターサイクルボーイにはそう見えていたのだ。
他の表象は音量を絞った白黒テレビに過ぎなくとも。
だからその魚だけは海に繋がった川に解放したかったのか、、、。
(自由は幻想に過ぎなくともせめて、外に向けて解き放ちたかったのだ)。
「お前はおれのバイクで川に沿って走り海に出てくれ。」
これが兄の遺言であることを無邪気なラスティ・ジェームズも悟る。
しかし何故、こうなってしまうのかは分からない。だが彼は涙ぐみつつ覚悟は決めている。
確か兄は、カリフォルニアに行っていたのに、海には出れずに足止めを食っていたという。
海を目指したのに海に出られなかった闘魚なのだ。

何も意味がない。
意味~色のない音も微かな世界~表象にモーターサイクルボーイは生きていた。
しかし、それで生に対する感覚が研ぎ澄まされることもある。
喧嘩~スリルに逃げていたが結局何も見い出せなかった。
ほとんどの連中は、楽しんでさえいなかった。
誰もが兄貴を慕ってついてゆく、と言っても彼は答える。
「人を率いるなら行く先が必要だ」と。(「ハーメルンの笛吹き男」に例えて話をする)。
しかしその答え~行く先はない。
(そのままだと、みんな海に落ちることになる。その為、スモーキーはラスティを裏切った)。
カフカの主人公たちも、とりあえずの行く先は名目上あるにはあるが、常に途上での細々した出来事に不可避的に関わり迷路に深く囚われ死んでゆくのだ。

モーターサイクルボーイにとっても、ただ外へ出る以外に道がない。
しかし、彼も今1歩の所で何かに阻まれる。
それは母に遭ったことか。
兄は諦観漂う飄々とした表情で還ってくる。

「おれは5歳で子供をやめた。」
「おれはいつ子供をやめられるかな。」
「一生ない。」
兄と弟の対話である。
弟は単純で無邪気だが、この兄の孤独は計り知れないものがある。
あの不気味なほどの穏やかで繊細な語り口、というより感情を捨てたような表情と語りは、もう街に戻ってきたときからすでに最期を見据えていた。


弟は兄に託され、、、何も分からないまま、ただバイクを走らせる。
海に、、、夜明けに向けて、、、

Rumble Fish003

ラスティ・ジェームズはカモメの鳴く明け方の海にバイクで降り立つ。


音楽がとてもマッチしていた。
エンドロールの音楽もよかったがこれは、ポリスである(笑。
コッポラが兄に捧げている作品である。
分かる気がする、、、。

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ペネロピ

Penelope001.jpg

Penelope
2006年
アメリカ

マーク・パランスキー監督

クリスティナ・リッチ 、、、ペネロピ
ジェームズ・マカヴォイ 、、、マックス
キャサリン・オハラ 、、、ジェシカ・ウィルハーン(母)
ピーター・ディンクレイジ 、、、レモン(記者)
リチャード・E・グラント 、、、フランクリン・ウィルハーン(父)
サイモン・ウッズ 、、、エドワード・ヴァンダーマン Jr.

「アダムス・ファミリー」、「スリーピー・ホロウ」「ブラック・スネーク・モーン」「アフターライフ」のクリスティナ・リッチがここでも魅惑的な女性を演じている。
この中では、「アフターライフ」が見応えが一番あったが、「アダムス・ファミリー」でのキレのある活躍も素敵であった。

Penelope005.jpg
クリスティナ・リッチが豚の鼻をもつ上流階級のご令嬢で主演。
何代か前のご先祖の過ち(因縁)から、魔法使いによる呪いがかけられ彼女の鼻は豚なのだ。
子孫の女の子にだけそれは現れる。それが彼女だった。
彼女にかけられた呪いは、彼女を愛するやはり名家出身の男性が現れることで、解かれるという。
その為彼女は人目に触れないように、母親によって邸宅のなかで密かに(死んだことにされ)育てられてきた。
英才教育を受け贅沢に育てられては来たが、限られた家の者たち以外に人間との接触はない生活に閉塞感は募る。
適齢期となり、いよいよ呪いを解くべく王子様との出逢い(お見合い)がセッティングされるのだが、すべてうまくいかない。
王子たちはみんな彼女の豚の鼻を見るやいなや、窓ガラスを突き破って逃げてしまうのだ。
彼女は、外の世界に出たい。自分をそのまま認めてくれる人に出逢い愛されたい。
という当然の望みをもつ。(当初は受身の姿勢である)。

さてそのような王子様が果たして現れるのか、、、?
という御伽噺の始まり、、、である。
このペネロピ嬢結構、ヤンチャな感じである。それも加味して考えれば自ずと先は読める。
話はどうなるのか、、、は最初から分かりきっているし、それでハラハラする類の映画ではない。
ただ予定調和に行き着くまでの流れを楽しむものであろう。

豚鼻を付けてはいても、クリスティナ・リッチである。
何も窓ガラスを突き破って逃げるほどの顔には見えないが、、、これでもかなり可愛い(マスクした美女の場合に似ている)。
母親は、これに対抗して窓ガラスを強化ガラスにする。どういう対応だ?
兎も角、相手が見つからず、呪いの解ける目処が立たない。

折角、彼女の内面に触れる感覚をもったマックス青年は、自分がそのような身分でないために身を引いてしまう。
彼は平民の出なのだ。それを機に彼女も自立への踏ん切りがつく。
結局、ペネロピは自分の力~自己肯定力で解決してしまう。
「鼻」を克服する。

意を決してこれまで出たことのなかった邸宅を独りで飛び出し、自分の力で何とか生活をしてみるのだ。
しかしお金は母親のクレジットカードで支払う(笑。
これは致し方ない。就職などしていないのだし。
彼女にとってはそれでもかなりの冒険である。
そしてひた隠しに隠していた素顔を自らレモンを通して公表してしまう。
彼女はそれで逆に世間の人気者になる。もう逃げ隠れする必要はない。
(それに肖ろうとするかつて彼女から逃げた御曹司などが逆に結婚を申し込んで来たりもする。勿論断る)。

彼女は「わたしは、今の自分が好き」とこころから思ったことで、呪いから解けてしまう。
案外、ほとんどの心的障害などは、この肯定感で快癒をみてしまうのではなかろうか。
実際にすっきり、鼻が美しい形に治っているのだ(笑。鼻というのはある意味、象徴的である。
周囲には戸惑う者もいるが、彼女はもう何であっても自分を信じて進んでゆく。
彼女の障害に依存して生きてきた母親だけは、生きる目的を失ったかのようにショックを受け混乱する。
親とは面倒なものだ。
マックスとは、もう何の問題もなく一緒になれる。

Penelope002.jpgPenelope003.jpg

御伽話風な設定が特に凝っており部屋など徹底していた。
ペネロピの服なども可愛かった。
女性が見れば詳しく分かるところだろう。
何れにせよ、ハッピーエンド調の映画であったし、恋人が現れ鼻も綺麗に治ることは予想がついているにしても、最後にそうなるとホッとするものだ(笑。精神的にだけでなく物理的に変化するところが御伽噺のスッキリしたところだ。

しかしわたしにとって、何とも微妙な映画である。
自分の不全感、蟠り、外傷経験、実際の肉体的障害などに対し正面から向き合い、それを解体し乗り越えてゆくポジティブでアクティブな姿勢と行動が大切であることは、その通りだ。
それを通して自分を認める境地に達することは、出来る。
確かに自己肯定(感)が何程、精神~身体に与える影響が大きいかは、つくづく思うところであり、今自分も自己肯定のための生活を推し進めているようなものである。
その為に障害となるものは完膚なきまでに叩き潰す所存である。
が、それはそれとして、このように理想的に収まりすぎるのも何とも、、、物足りないわけではないが。
こうならなくてもよかったかな、、、とは思うのだが。
だが、クリスティナ・リッチが豚の鼻のままでは、物語は終えられない。


正しいエンディングだと思う。
Penelope004.jpg

ブラック・レイン

Black Rain001

Black Rain
1989年
アメリカ

リドリー・スコット監督
クレイグ・ボロティン、ウォーレン・ルイス脚本

マイケル・ダグラス 、、、ニック・コンクリン(ニューヨーク市警刑事)
高倉健 、、、松本正博(府刑事)
アンディ・ガルシア 、、、チャーリー・ヴィンセント(ニックの相棒)
松田優作 、、、佐藤浩史(節操のない次世代ヤクザ)
ケイト・キャプショー 、、、ジョイス(高級クラブのホステス)
若山富三郎 、、、菅井(親分)
内田裕也 、、、梨田(佐藤の手下)
國村隼 、、、吉本(佐藤の手下)
安岡力也 、、、菅井の子分
神山繁 、、、大橋(府警刑事部長の警視)
小野みゆき 、、、みゆき(佐藤の手下)
島木譲二 、、、菅井の子分
ガッツ石松 、、、片山(佐藤の手下)


松田優作の遺作となった作品。
二日ばかり、詰まらぬ(間の抜けた)映画を見てしまったので、今日はリドリー・スコット監督に戻って、、、。
高倉健と若山富三郎が出ているし、、、内田裕也がやたらと若い(笑。
マイケル・ダグラスもアンディ・ガルシアも良い感じであった。
Black Rain003

かつて映画といえば機関車であったところが、ここではバイクである。
徹底してバイクで事態が展開、急変、加速する。
NYから来た野獣のようなタフな警官、ニック・コンクリン。そして真面目な組織人間である日本の警官、松本正博。
そこにニックの相棒、チャーリー・ヴィンセント。次世代ヤクザの佐藤浩史が絡む。そう親分、菅井の風格も凄い。
何故か型破りの刑事は、ほとんどが離婚していたりその調停中で、養育費の請求などをされているシチュエーションばかりなのが気になる。つまり私生活がボロボロなのだ。しかも汚職警官である。麻薬取引の犯人から押収した金を盗んでいた。
ニック曰く、NY自体が巨大なグレーの都市なんだ。それに対し、白か黒しかない、と応える松本。
そして、ここは一体どこなんだ、、、どうやらレンブラント光線で何処とも云えぬ抽象的な空間と化した「オオサカ」で、悪夢の闘いが繰り広げられる。
「偽札の原版」を巡って親分衆を敵に回し佐藤を旗頭としたヤクザ新興勢力との闘いにニックや松本が飛び込んでゆく。

ここは未だに黒い雨の降り注ぐ地のようだ。
Black Rain004
若山富三郎~菅井組長の記憶はB-29「エノラ・ゲイ」に直結している。
アメリカは黒い雨を降らせ、表に出てみると街は消えており、あとに自分たちの価値観を押し付けた。
日本の文化は破壊され、佐藤浩史のような者で溢れかえった。
奴はアメリカ人と同じで、信じるものは金だけだ。
仁義が廃れてしまった。
その復讐はしなければならない、、、。ドルの偽造。経済の混乱、、、
菅井親分の立ち位置である。
そのドルの原版を盗み、好き勝手にハワイを拠点として暴れまくりたいのが佐藤であった。
チャーリーの仇を打ちたいと懇願するニックに菅井は明日、杯を交わす事を教えショットガンを渡す。
そこには、ニックを心配したもはやフリーの身の松本も密かにやって来ていた。

Black Rain002
高倉健の幅の広さを感じる映画でもあった。
レイ・チャールズの『ファット・アイ・セイ』をピアノ伴奏でアンディ・ガルシアと歌ってしまうのだ。
それも如何にも真面目な刑事という感じでギクシャクしながらもなかなかイケてる、その辺の芸達者ぶりがグイグイ引き込んでゆくところだ。
チャーリーとの友情が生まれるが、その後佐藤に刀で切り殺されてしまう。
佐藤を俺たちで捕まえよう。
ニックと松本が結局、手を組む。
ニックは最初は、組織ばかりに拘っている松本を「スーツ組」と言って揶揄していたが、両者ともに協力せざるを得なくなりやがて互いに歩み寄るようになってゆく。
何であっても盗むことは、名誉に傷をつけることになる。自分にもチャーリーにもわたしにも、と諭す言葉にニックは悟る。
松本はニックたちと事件に深入りしすぎたため免職処分されてしまったため、もうニックとともに思う存分闘うしかなかった。
過酷な仕事と犠牲も出して、ニック・コンクリンも松本正博も共に器が広がっている。
Black Rain005
何といっても、この映画は、松田優作である。
と言うより、高倉健と松田優作の共演であろう。
しかし彼らが実際、会う場面はほとんどない。
ちょっと勿体無い。まさに稀有な機会であったのに、、、。
松田優作はこの頃すでに病状は悪化していて、演技もその分鬼気迫るものを感じさせた。
余りに壮絶な遺作である。(また、誠に惜しい)。
始まりと同様、バイクによる壮絶なチェイスがあり、最後の死闘となるが、わたしが大分以前見たものでは佐藤は尖った杭に胸を射抜かれ絶命していた。
だが、今出回っている正規版では、寸前に止め、ニックは殺さず復讐者ではなく、逮捕する刑事の立場をとる。
大塚から、ニック、松本両名とも感謝状を授与された。無事大手柄で復帰となる。

お辞儀をして飛行機に乗ろうとするニックに、握手を求めるマサ。
(どうもアメリカ人がマサと呼ぶと、トランプとSoftBankの孫氏を思い浮かべてしまう。しきりにマサ、マサといっていたものだ)。
ドルの原版をニックはどこのタイミングで手にしたのか分からなかったが、よくマサ(松本)に渡したものだ。
別れの時のプレゼントにワイシャツの下に入れておいたのだ。
ニックは最初の頃から見ると、随分変わったものだ。

そのときの両者の晴れやかな笑顔は印象的だ。
でも実際、真の友情とはこうしたものだと思う。

これは紛れもないリドリー・スコット監督の映画だ。


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ノートパソコンのキータッチ インターフェイスの恍惚

sakura005.jpg

以前、わたしは14台ほぼ同時に家でパソコンを稼働させていた時期がある。
サーバーも入れてだが、、、。
それぞれ役割が違うのだ。名前も違うが、、、。
ディスクトップのタワー型に独立して接続しているキーボードのキータッチはストロークが長く深い確実な入力感の恍惚を味わうことが出来る。構造はラバードームでキートップを支えるものでメンブレンと呼ばれるものだ。
一方ノートは、パンタグラフ方式のため、軽くて浅いキータッチである。キーの中心を叩かなくても垂直に力を伝える。
だが、わたしはこのノートのキータッチには、これはこれで良いと思うものと、どうにも心もとなくチープで悲しくなってしまうものがある。

実はパソコンに期待するものは仕事に合ったスペック等いろいろあるのだが、全般においてキータッチが思いのほか大きい。
昨日、修理からかえり、交換部品はメモリーであった。16GB(8GB×2)積んでいるが、これがいかれていたらしい。
まだ正常に動くかどうかはあす試してみるつもりだ。メモリー不具合は結構あることだ。
ブルーレイ映画2時間強のものをドライブがしっかり再生しきれれば、取り敢えず問題ないとする。
いつも再生が終わってからは、キーボードのフル活動という番になる。
戻ってきたノートのキータッチというのが、実にふにゃふにゃ感が強い。
タッチしてゆく感覚が心もとない。
それはそこで~パソコン上で書く事柄にも何となく現れてしまう。

パソコンというと、基本スペックを文字記号の上で調べて購入を決めてしまうことが多い。
あまり実際に店頭でキーを打った感触で決めて買ってくることは少ない。
だが家に持ってきて実際に使うときは、もうキーを打ちまくる以外にないのだ。
例え問題症状が治っていたとしても、チャッチイキーの感触にどことない情けなさを感じ続けるのだろう。
この文はそのパソコンから今打っているところ。

昨夜心配したルーター繋げは問題なく済んだ。
今後も軽めでも3Dの制作はせずに3Dを動かす程度のことは、やるはずだ。
いざ作るとなるとアプリケーションはグラボを選ぶ。
まず、DirectX系ではなくOpenGL系となるし、MAYAをやるならGforceでなくELZAを選ぶことになる。
そこまではやらない。わたしは寧ろ動画を滑らかに再生するための動画再生支援機能のあるグラボ(今は普通についている)が大切だ。今回のトラブルもノートでブルーレイのタイトルを見ている最中におっこちたのだ。そして再起動戻ったらまた最初、では一向に先に進まない。これは致命的でどうにもならない。初期化程度でなんとかなるものではなかった。
だが、そんなことを色々しながらもキーは打ち続けているのだ。
このキータッチはインターフェイスの基本中の基本要素である。
疎かにできないものだ。
今回、スペックだけでノートパソコンを選んでしまい、その部分が考慮に入れていなかった。


何かを決める~押すときのその意思に対する外界~対象の抵抗の心地よさ、、、
これが大切で基本である。


レタッチ/裸の微笑

UNCOVERED.jpg
DVDジャケット
UNCOVERED
1994年
アメリカ

ジム・マクブライド監督

ケイト・ベッキンセイル、、、ジュリア(美術修復師)
ジョン・ウッド、、、セザール(ジュリアの養父、ドンの弟)
シニード・キューザック 、、、メンチュ(画商)
ポージ・ベーハン 、、、ドミニク(チェスの達人)
ピーター・ウィングフィールド、、、 マックス(ローラの夫)
ヘレン・マックロリー、、、ローラ(ドン・マヌエルの姪)
マイケル・ガフ、、、ドン・マヌエル(城主、絵の持ち主)
アート・マリック、、、アルバロ(美術史教授、ジュリアの元恋人)


これまた酷い邦題である。
体調から言って、重い作品は体に悪そうなので、昨日のケイト繋がりで観てみることにした。
正確には二度目である。(以前観た印象はほとんど残っていない)。


話は、犯人は序盤から分かってしまうし、ハラハラドキドキ感も薄い。
そもそも何で人が殺されるのか自体に説得力がない。
(殺人をする上での切迫感と必然性がない)。
絵の謎についても今一つしっくりこないし、何故、誰が上塗りして文字を消したのかも不明だ。(セザールか?)
ともかく絵に謎が隠されていることは全く珍しいことではないし、フェルメールの時代の絵などは寓意が篭められていて絵は読まれるものでもあった。
だが、その絵の謎と、つまりここではドミニクが絵の中に描かれているチェスの動きを再現しながら「その当時」の人間関係と事件について解き明かしてゆき、それ自体は面白いのだが、何故それが今現在の彼らに結び付けられるのか?
これが突飛過ぎる。
設定に無理がある。

原作があるらしいが小説として成り立っているのか?
それともこの映画の問題か?

しかもジュリアの家のドアの前にわざわざ次の駒(次の犠牲者)を置いてゆくのはどういうつもりなのか?
犯人のセザールはジュリアを偏愛していて殺人も彼女に城と絵の財産を継がせるためだったはず。
わざわざ彼女を巻き込み不安がらせる必要があるのか?
(巻き込むのを企んだのがそもそもセザールである。絵は彼の所有に移っていたし、おそらくメンチュを通してジュリアに修復を依頼させたのだろう)。
彼女のためを思うになら、他に方法は幾らでもあったはずである。
やはり変だ。一種のサイコだ。自分の死期が迫っていることとこれは別問題だ。
その絵のチェスから当時の事件の真相を追わせ、それを強引に今の彼らの現状に当て嵌めさせる意味がそもそも掴めない。
セザールは結局、何をしたかったのか、、、


ケイト・ベッキンセイル21歳当時のフレッシュな容姿が見れるというファンにはありがたいフィルムとなろう。
透明感があり瑞々しく美しい。
今からは想像できないショートヘアで凛とした専門家の女の子というカッコよい役だ。
演技は上手いと思う。
ケイト・ベッキンセイルのPV的位置にあるものか、、、確かこれは劇場未公開の作品だ。
劇場で上演して人が集まるだろうか?

何にしろ、もうほとんど脳裏には残っていない映画である。
何を見たか忘れぬうちに書いておこうと思ったのだが、書くほどのものは何もなかった。
かえって書くのに苦慮した(笑。


この手の作品はいつも借りてから、よかったら改めて購入していたのだが、いきなり持っていたことが、わたしにとって一番の謎である。



sakura.jpg

朝から雨で桜が心もとない。
今は真っ暗で花びらも見えない。
冷たい。花冷えであろうか。風はふいているのか、、、

風邪を引き込みなかなか治れない。
時折、起きてはパソコンを打つ。
わたしにとってパソコンに向かうのがもっとも自然な姿勢なのだ。
外の雨も冷たさもさくらの花弁の舞い散り具合もわからない
キーを打つ不確かな音だけが夜気に、夜の明かりに、響く。

特に調子が悪くなく、やることもないときは、平均12時間はパソコンの前にいる。
以前は、パソコンは音~音楽を作ったり、3Dや動画を制作するためのツールとして使っていた。
だが最近は、ネットで調べ物をしたり、ブログを書いたりし、時折うたたねをする以外に使うことはなくなってきた。
だから、昔のようにハイエンドパソコンをなにも購入する必然性はなくなった。
特にわたしは3Dゲームはしない。グラボは外付けすることはない。
よく映画を見るため動画再生支援機能はあれば、とてもよい。

ブルーレイを見ている途中で落ちてしまっては、どうにもならない。
今日それで直しに出したノートが帰ってきた。
余りの疲労と睡魔のため、セットはできない。
特にルーターのパスワードを失念している。そこから先には進めまい、、、。
睡眠導入剤を30分前に飲んでいるため、視界も朦朧としてきた。
頭の方も理論的な向きには働かない。
さしずめ自動筆記みたいな感じになっている。
ダリの演出映画を見たためか、視界はやたらとシュールである。
色々なところが剥がれ捲れて見える。

ここでどんな筋書きを考えたにしても、思考力が一歩先にも届かない。
もうわたしの3分の2は眠っている。
真っ暗な雨の窓に外部の何かや音は全く透過しない。

恐らくわたしの神経機関に届かないのだ。
もうヒッチコックは何も見せてはくれない。
ならば、、、
ハンニバルと一緒にあのオペラを、会場の前の方の椅子で観たい。
おおこの曲だ、、、。
この曲だけは聞こえてくる、、、。

「堪能しましたか?」
「ええ、眠ってこのまま続きを聴きます。」
「では、おやすみなさい。」


リーガル・マインド 〜裏切りの法廷〜

The Trials of Cate McCall

The Trials of Cate McCall
2013年
アメリカ
ドラマ映画

リーガル・マインドは『柔軟、的確な判断』をいうが、原題は『ケイト・マッコールの試練(裁判)』というシンプルなものである。
邦題は内容を吟味した上での題であろう。言いえていると思う。

カレン・モンクリーフ監督・脚本

ケイト・ベッキンセイル、、、ケイト・マッコール(弁護士)
ニック・ノルティ、、、ブリッジズ(弁護士)
ジェームズ・クロムウェル、、、サンプター裁判長
マーク・ペルグリノ、、、ウェルチ刑事
アナ・アニシモーワ、、、レイシー(殺人犯)

ケイト・ベッキンセイルは「レタッチ」で見ていたが、もう女の子をもつ母親役であった。
随分大人になっていたが、確かにあちらは1994年のものだ。こちらはそれから19年後だ。あたりまえか。
明日辺り、「レタッチ」もう一度見直してみようか、、、。

それから「ホワイトアウト」なども、、、観始めて止めていた物がある。


さて、この話だが。
殺人事件で有罪判決(終身刑)を受けた女性レイシーの弁護を、アルコール依存症と闘う女性弁護士ケイト・マッコールが請け負うところから始まる。
彼女はアルコール依存症のため、幼い愛娘の親権すら失って自身が保護観察処分中なのだ。
しかも親権を勝ち取った元夫は、遠くに引っ越してしまう。
会うに会えないが、これまでも裁判、弁護の激務のためほとんど娘に会う時間がなかった。
(ある意味、自分の野心のためでもある)。
アルコール依存症もそのストレスから来ている。
悪循環である。キャリア・ウーマンにとって誰もが少なからず抱える深刻な悩みではないか、、、。

そんな身の上だが、彼女の信じる正義のためブレずに戦ってきた矜持が支えであった。
これまで多くを犠牲にして、敏腕弁護士として名を売ってきたのだ。
しかし、元夫や恩師の弁護士に言わせると、単に勝つことが目的であったり自己中心主義であると批評される。

今回引き受けたレイシーの弁護はすでに大変不利な状況で固められており難しい仕事になった。
しかし初めから事件を洗い直すことで警察・検察側の証拠や証言の捏造などが見つかり一つ一つ覆してゆく。
ケイトは苦戦するも逆転無罪を勝ち取る。
だが無罪放免となって喜んでいたレイシーの実態を知って驚愕する。
涙を流し、しおらしい表情で冤罪を訴えていた彼女とはまるで別人であった。

そして何よりレイシーは冤罪などではなく、彼女こそが真犯人であったのだ。
自分が確認した証拠に見落としがあったことに気づく。
軽蔑し反目していた相手と自分が同レヴェルであったことを思い知らされる。
検察・警官側の腹黒さにばかり目が向き、もっとも肝心な部分に洞察が行き届かず、先入観にも邪魔されていた。

全体の「風の向きは変えられないとしても、船の帆は調節できる」のだ。
かつての過ちを侘び、敵であった相手と和解し、味方のように振る舞い利用しようとする相手とは決別する。
ここで彼女は自己解体し、一回り大きく再編成する。
見守ってくれる良き恩師~アドヴァイザーがいたことも良かった。
本当の味方の言葉に耳を向けることが肝心である。

彼女は戻ってきたレイシーの弁護につくが、名誉の敗戦にもってゆく。
レイシー有罪の決定的物証を検察側に渡していた。
折角上手く無罪を勝ち取ったと思い有頂天でいた彼女は法定で激しく暴れて取り乱す。
彼女の本性を見た時である。

事の真実は大変見え難いし、観る者の立ち位置によって変わる。
これらの真偽を確かめそれらのピースをパズルとして組み合わせなければならない。
元々人の罪を測るなど人の目~能力でどれだけ可能なのか。
どれほど法を整備しても、人の施行することである。それが前提だ。
人を法に掛けて審判する人も等しく生身の生活を送っており、その現状はときに大変険しい生をいきているものだ。
しかし極めて高い見識の元、行われなければならない仕事であるしそれを要求されるはず。
実際はそうでもないようだが、、、。
今回の事件でもっとも成長できたのは、ほかならぬケイト・マッコールに思える。


これから先、彼女は娘に受け入れられるのか、、、。
すべて彼女自身にかかっているだろう。


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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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