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蜜のあわれ

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もう映画はこりごりだ、、、と想い、ほとんどゴロゴロ過ごす。
「蜜のあわれ」と「吉祥天女」というのをアマゾンプライムで観た。
添えられた解説をチョイと見て、これは借りたり買ったりするビデオには思えないが、、、
ただなら観るかも知れぬ。というところで、観てしまった(笑。
「しまった!」と思ったのは前者の方。ただなら観ても良いと思ったのが後者であった。


「蜜のあわれ」は、想念が濃密になると本当に心に描いた人間~存在(場合によっては金魚)が自立して実際に共生してしまうという噺と謂えよう?(人の認識の仕組みからすれば、そういう方向性は持ち得るが、ここは極端である)。
だが例えそういう事態があり得ても、作家はそれを作品として原稿に定着するものだ。
つまりそこに幻想を封印する(対象化する)ことで、自分の個人的日常は担保されるはず。
逆に謂えば、創造行為を安定して行うべき主体が幻想界に翻弄されている状況では到底作品など作れるはずがない。
大丈夫か?

何にしても、映画に出て来た女性や幽霊や金魚や金魚売が現実にはいないと受け取るべき。
(しかも幽霊は金魚が作家の書いた小説を読んで幽霊女性のイメージを仮想現実にアップロードしたらしい)。
作家を巡る錯綜イメージ共同体が生成されている。しかも金魚主導で。
作家は終始、金魚を中心にした幻想に囚われ彼女に振り回されている。
余程の金魚好きなのだ。
いちいち金魚に「お前以外に他に金魚はいない」などと断っている。
その金魚が二階堂ふみだからこちらも気持ちは察するが。
しかし笑えない。
笑えるところは、どこにもなく、金魚ダンスでも笑えなかった。
二階堂ふみが一生懸命頑張っていることだけは伝わってくる。
オマケにヌードにもなっているのだが、金魚だから微妙なのだ。
泣こうにも泣けない(爆。

最後に作家を呼ぶとても現実的な声がしたところで、死に逝く作家以外の登場人物が消えている。
本当は一人で地味~に暮らしていた老作家であったのだろう、、、。
少なくとも映画を観た範囲ではそんな感じ。
大杉漣の熱演であった。大泣きしたりしていたがとてもついてゆけない。
真木よう子は大人しい控え目な幽霊で、余り個性が活きていない気がする。

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カフカはかつて悲劇を書く時は、腹を抱えて大笑いしながら書いている、と語っていた。
それでなければ、その世界~ドラマを対象化して精緻に描けまい。
この作家、実質書けているようには見えなかった。

室生犀星の小説が原作だそうだ。全く知らなかった。これを観て読んでみたいとは微塵も思わない。
セリフは多かったとは言え、感銘はさして受けなかった。

2016年の映画である。
石井岳龍 監督
港岳彦 脚本

二階堂ふみ、、、金魚
大杉漣、、、作家
真木よう子、、、幽霊
永瀬正敏、、、金魚売

Mitsunoaware.jpg
バルチュスの絵画を想わせる。だが、それがなんであったか、、、?
芸術的デフォルメやエフェクト(叉は様式美?)は分かるがそれが昇華されているかはキビシイ。
感情移入などは論外、遠い距離感をもって空々しく観るしかない作品であった。


もう一つの「吉祥天女」は体調が思わしくないので、明日にしたい(笑。
季節の変わり目もあり大変疲れる。





続・深夜食堂

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2016年
松岡錠司 監督
安倍夜郎『深夜食堂』原作


小林薫、、、マスター
河井青葉、、、赤塚範子
佐藤浩市、、、石田
池松壮亮、、、高木清太
キムラ緑子、、、高木聖子
小島聖、、、木村さおり
渡辺美佐子、、、小川夕起子
井川比佐志、、、小川哲郎
多部未華子、、、みちる
余貴美子、、、千恵子
オダギリジョー、、、小暮

昨日の続編。
「おもいで」(鈴木常吉)という曲が生ギターと実に気負わない味のあるボーカルで唄われ沁みる。
夜の12時から朝の7時くらいまで営業する「めしや」という下町の食堂である。
豚汁定食だけメニューにあげているが、客が頼めばマスターは何でも「あいよ」と言って作ってくれる。
それがどれも美味しいらしい。
馴染み客でいつも席は一杯である(時折新しい客も混ざる)。
必ずその時に話題に上った誰かのこと~話題を客皆で語り合い心配し合う。
それも何とも言えない温度の触れ合いによる緩い共同体としてなのだ。
兎も角、よくTVでやるドラマのように小うるさくわざとらしくならないところが良い。
やはり中心に小林薫がいるからか。オダギリジョーの醸す飄々とした雰囲気も無くてはならない。

焼肉定食。焼きうどん。タコウインナー、とろろご飯、すきやき、、、等がこれまでマスターの出したメニューである。
(みちるの作った栗羊羹も美味しそうであった)。
それぞれの料理に対してひとつの物語が流れる~その章の題名にもなっているのは変わらない。
食べ物と話の内容が直接絡むものはないが、美味しい料理が優しく噺全体を包み込む。
マスターは肝心なことを告げる代わりに、「最後に食べたいもの何でも言って。作るから。」と言う。
そして「あいよ」と言って出し、客は一番食べたいものをそれは美味しく食べて名残惜しそうに帰って行く。
恐らくまた来たいときっと思うことだろう。
そんな「めしや」である。

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最初の佐藤浩市演じる石田と編集者赤塚範子の噺が面白かった。
仕事に行き詰まった範子が担当する作家のお通夜で出逢った男性と意気投合する。
「めしや」にも二人連れで来て彼女の好きな焼肉定食を食べてゆく。
男はとても良い間を置き「あなたは自分を疎かにしない人だと一目見て分かりました」と投げかけ。
彼女は、でもその為に行き詰って苦しんでいることを伝えると「生き方のフォームを崩さなければチャンスは必ずやって来るものですよ」なんて調子で、どんな会話にも即座に立て板に水のように答えてゆく。
地方の情報誌をWebと半々でやってますが、農家などは直接逢った方が相手に安心してもらえるんですよ、等と話していてその後も交際が続き、彼女も前向きになり仕事にまた精力的に取り組み始める。
このまま二人は上手くいくのだろうと思っていたら最後にどんでん返しの指名手配中の香典泥棒ときたものだ。
わたしは、完全に引っかかった。驚いて笑ってしまった。

回転の速さというより口だけが異様に滑らかに周る人間というものはいる。
ことばが何からも遊離していて、根のない状態で淀みなく流れ出るタイプ~ケースはわたしも見ている。
ただの純粋な「はなし」なのだ。
勿論、信用できない(笑。

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他にここでは「焼うどん」の好きな蕎麦屋の倅が15歳年上の彼女との結婚を母に何とか認めてもらおうとする噺。
二人で母親に正面から真摯に向かい合っていこうとするところ風鈴で締めくくる。最後までグダグダとやり過ぎないところが良い。

三つめは「豚汁定食」を頼むばあちゃんで、みちるとの濃密なやり取りで進んでゆく。
おばあちゃんは九州から東京に呼ばれ「来て来て詐欺」の被害に遭い、暫く留まらざる負えなくなる。
みちるは国に残して来た祖母の面影を見て、おばあちゃんの面倒を一手に引き受ける。
そこに小暮警官が絶妙に絡みシリアスに重くならずにコメディチックに展開する。
この噺はどうにも行く先は予定調和しかなく、これといって意外な点やおもがけない感動を呼ぶ類のものにはなり難い。
ただ小暮警官の動きが面白く、観易い。

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「深夜食堂」を続編まで観てみたが、小暮がいるかいないかで、大きく違う気がする。
無くてはならない存在である。
マスターが妙に出しゃばり過ぎないところも良い空気感を作っている。

続編より、最初の「深夜食堂」の方が噺としては面白い。
ヒロインみちるBeginsがこってり描かれていたのも大きい。

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アンコール!!」でアーサーが最後に歌うところにも似て「おもいで」(鈴木常吉)がとても後に残る。
良い邦画だと思う。






深夜食堂

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2015年
松岡錠司 監督
安倍夜郎『深夜食堂』原作

小林薫、、、マスター
高岡早紀、、、川島 たまこ
多部未華子、、、栗山 みちる
余貴美子、、、塙 千恵子
筒井道隆、、、大石 謙三
菊池亜希子、、、杉田 あけみ
田中裕子、、、塚口 街子
オダギリジョー、、、小暮警官

韓国版や中国版も製作されたそうだ。
相当売れたマンガらしい。

TVドラマとして放映されていたそうだ。全く知らなかった。
わたしは滅多にTVは観ない。特にニュースは大嫌いだし。もう随分の間、科学・音楽特番くらいしか観ていない。

映画として改めて撮っているにせよ、TVドラマの雰囲気や世界観を尊重してまとめて映画にしているようで、特に映画の為の大きな変更や話自体のスケールアップとかはないようだ。
マスターの出すことになる料理の名前=題で噺も個々に分かれている。オムニバス調で進む。それぞれの逸話を無理に繋げたり関連付けたりしていない。小暮警官や馴染みの客はどれにも出て来るし、栗山 みちるは以後の逸話の終わりに登場するにしても、、、。何やら録画しておいたTVドラマを流して観たような感じである。
最近は録っておいたドラマをまとめて見るようなこともないので、ちょっと新鮮な気分で観た。

基本、マスターの美味しい食事でホッとして良い酒を交わしてのこころ温まる人情噺の展開というところだが、マスターが客の心の弱さを受け止め、彼らが自らの意志で一歩を踏み出せるように、さり気無く背中を押してゆく感じで進む、、、。

その中で「ボランティア」の件は抉り方が深かった。
ファッション誌のカリスマ編集長もしている知的雰囲気を醸す菊池亜希子がボランティアあけみ役である。
菊池亜希子は淡々とした空気感のある邦画のヒロインで異彩を放つが「森崎書店の日々」が特に印象に残っている。


ボランティアとしての関わる者とその無償の行為を受け取る側との間に生まれる幻想が大きく食い違うと面倒なことになる場合がある。相手に抱く幻想は勿論、皆異なるのが当たり前(非対称)だが、面倒となる食い違い方がある。
それを自分に対する特別な好意と受け取る場合だ。一度そう受け取ったことでその幻想は拭いきれない反証の効かない感情的なものに高まることも多い。その男性~大石は故郷~被災して自らが頑張らなければならぬ地を離れて、あけみに求愛しにやって来てしまう。
考えるまでもなく、ボランティアで訪れた地で献身的に働くその直向きな姿に恋をした男性に言い寄られるというケースはあってもおかしくはない。

しかしボランティアで働きに来たと言ってもその動機と目的、心的状況はひと様々であろう。
もしかしたら現状が立ち行かなくなり遠くの地に逃避の為に来た被災者並みの心境のボランティアもいる可能性もある。
ボランティアであるからと言って、無償の行為に喜びを感じ、慈悲の念に充ちたこころの余裕を備えているとは限らない。
更に恋愛の情に応えられる場合はもっと可能性は低いはず(というか、これは別問題~異なる位相の幻想となる)。
あけみは自分がどういう気持ちで被災地に追いやられて行ったか、そしてわたしのボランティアである立場をあなたは利用したと言って大石に対し怒りをぶつける。
そうなのだ。われわれは余りに人をステレオタイプに見過ぎている。
この仕事に就いているならこういう人だろう、、、などという推測はほとんどの場合効かない。
現実はそんな単純で薄っぺらなものではない。
人は生きた情報の複雑な束なのだ。
大石は酔っぱらってそのまま寝込んでしまったあけみの姿を見て我に返る。
その姿はボランティアでも理想の女性像でもなく、悩み複雑な想いを宿した一個の人間(実存)がただ眠っているだけであった。
このセグメントは印象に残る秀逸なものであった。

他にも男女間の恋愛感情の非対称性の際立ちをさらっと騙るものとか、東北出身の一文無しとなった少女がマスターの元で一念発起する姿や、、、色々あったが面白味としては、オダギリジョーの小暮警官の一挙手一投足が受けた。存在だけでも癖になる面白さであり、こういう人が脇を固めると中弛みはしない。

全体として人情の機微を淡々と描くものであるが、そのなかでちょっと馴染まない噺もあった。
「骨壺」の件は、必要ないと思った。

田中裕子(塚口 街子)の絡む骨壺のエピソードは、どうも納得が出来ない。
骨壺がどう伏線を張って流れてゆくのかと思っていたら、ただがっかりするだけであった。
田中のあの大袈裟でワザとらしい演技が異様な雰囲気を醸すだけでおよそ意味がない。
わたしには突然現れた変なおばさんとしか映らなかった。

余貴美子は高級料亭の女将が実に似合うと思う。
小林薫のマスターはピッタリであり、絶妙な間が特に良い。
常連客達もそれぞれに良い味を出して溶け込んでいた。
全体的に見れば雰囲気の好い面白い邦画である。

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続編もあるらしい。TVで長くやって来たならまだ沢山のエピソードが残っているはずだ。
機会があれば観てみたい。





バットマン ビギンズ

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Batman Begins
2005年
アメリカ

クリストファー・ノーラン監督・脚本

クリスチャン・ベール、、、ブルース・ウェイン / バットマン(ウェイン・インダストリーズの取締役に戻る)
マイケル・ケイン、、、アルフレッド・ペニーワース(執事)
リーアム・ニーソン、、、ヘンリー・デュカード / ラーズ・アル・グール(影の同盟の長)
ケイティ・ホームズ、、、レイチェル・ドーズ(検事)
ゲイリー・オールドマン、、、ジェームズ・“ジム”・ゴードン市警
キリアン・マーフィー、、、ジョナサン・クレイン / スケアクロウ
トム・ウィルキンソン、、、カーマイン・ファルコーニ(マフィアのボス)
ルトガー・ハウアー、、、リチャード・アール(現ウェイン・インダストリーズ取締役会長)
渡辺謙、、、ラーズ・アル・グール(影武者)
モーガン・フリーマン、、、ルーシャス・フォックス(応用科学部役員、バットマンガジェット開発者)


3部作を2,3,1の順に観たことになる。
全てに謂えるのは、アメリカン・コミックをよくここまで重厚なドラマに再現したと思う。
とてもリアリティがあり、マスクをつけたコスプレヒーロー物の胡散臭さは全く感じられない。
これは「猿の惑星」と同等のリアリティの強度だ。

そしてゴッサムシティに何故、ブルースが立ち上がったのか、蝙蝠の出で立ちなのか、銃で敵を撃たないのか、母のネックレスに拘るのかがよく分かる”Begins”譚となっている。
彼の幼い時に邸宅の庭にある井戸に落ち、底で蝙蝠の群れに襲われる。
これが長く彼の外傷経験となり彼の運命を大きく変える経験ともなる。
井戸から救い出すとき彼の偉大な父は「人はなぜ落ちる?這い上がるためだ」と彼に語る。
シリーズ中もっともガジェットやタンブラーなど装置類の説明や制作過程が示されていて、地下洞窟の件もどうして屋敷に組み込まれたのかも理解できる。
この第一部は無くてはならない。
これをはじめに、ダークナイト、ダークナイト ライジングと観れば非常に自然に無理なくその世界観に入って行ける。
三部作はまとめて観るとよいと思われた。

Batman Begins004 Batman Begins005 Batman Begins006

さらに何と我らがルトガー・ハウアーが出ている。「ブレードランナー」からの歳月は嫌でも感じられるが、独特の個性は彼ならではだ。
キャストの贅沢さという点では、この第一部は群を抜いている。
渡辺謙の役はちょっと残念であったが、大司教のような後光はしっかり射していた。
パニック・フライト」で恐ろしいサイコパスを演じていたキリアン・マーフィーがここでも怖い役を、、、。
非常に繊細な音楽家か詩人のような容貌である為、尚更狂気を強く孕む。
ケイティ・ホームズは志をもった強い女性を充分に演じていた。第二部にも引き続き出るべきであった。
二部の悲劇が更に色濃くなったはず。

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そして長老トリオがそれぞれ圧倒的な存在感で物語を弛ませない。
特にここでは、終盤警部補に昇格したゴードンがバットマンのタンブラーを乗り回す活躍を見せる。
バットマンとの邂逅からの彼の変貌ぶりも見どころだ。
わたしだってタンブラー乗りたい。自動運転モードで走っていたが、それでも凄い乗り物だ。
カーチェイスやカーアクションも一番凄い。タンブラーであるから屋根の上を走りまくる。
(そのタンブラーを見た警官がそれを説明しようがないところが笑えた。名状しがたい奇妙奇天烈で凄い何者かなのだ)。


「人はなぜ落ちる?這い上がるためだ」大富豪のお坊ちゃまであるブルースが両親を貧者の凶弾により喪ってから、自ら身をやつし旅に出る。市場で盗みを働き刑務所にも入る経験も積む。一度落ちるところまで落ちたところで、彼はラーズ・アル・グールに邂逅し導かれる。

「恐れるな」父が目の前で殺される死に際にブルースに最後に語った言葉である。
この言葉は、彼が修行で訪れたヒマラヤの地で、ラーズ・アル・グールに徹底的に激しい修行を受けるなかで繰り返し言われることばでもある。
「恐れるな」、、、恐れを如何にみずからのものとしそれをコントロールするか。
彼に必要なのは、技や体力よりも精神であることを知る。
彼は只管修行を極めてゆく。そして恐怖を支配する術を悟る。それが蝙蝠の出で立ちにも表れてゆく。

「人間の本性は、行動で決まる」これはレイチェルがブルースに言った言葉であり、彼女がその後、バットマンに名を訪ねたときに帰って来た言葉である。
彼女はここで彼がブルースであることを悟るが、かえってその為にひとつの裂け目が彼らの間に入るところがリアルだ。
単純なアニメではこうはなるまい。「あなただったの~」とか言って抱き着いてハッピーな気分になったりするところがオチであろうが、レイチェルはゴッサムがこの先もずっと彼~バットマンを必要とし続けることも直覚する。彼に敬意を払い愛情は持ちつつも距離を置く。賢い女性なのだ。

Batman Begins002 Batman Begins007

ラーズ・アル・グールは過激な狂信的理想を掲げる組織を率いて、強力な幻覚剤を上水道に混入させ、水を気化させるマイクロ波を放射してゴッサム全ての人間を発狂させて殺そうと企み実行に移す。腐敗を極めた悪を一気に滅ぼすという思想なのだ。
確かにゴッサムは構造的腐敗で瀕死状態であった。
だがそのなかで、ほんの一握りの人間たちが奮闘していた。
ダークナイトはそのなかの何でもないひとりとして立ち上がることになる。
彼は亡き父が人々の為に作ったモノレールを破壊することで阻止するに及ぶ。

警察を敵に回しながらテロ組織から市民の生活を守ろうと孤独に過酷な闘いを繰り広げるダークナイトの姿は、華やかさはなく陰鬱で悲痛ですらある。


ダークナイトの基礎がしっかりと押さえられた導入編であった。
これを観ておかないと2部、3部だけではバットマンに感じる質量が違ってくると想われる。








ダークナイト ライジング

THE DARK KNIGHT RISES004

THE DARK KNIGHT RISES
2012年
アメリカ

クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作

クリスチャン・ベイル 、、、ブルース・ウェイン/ダークナイト=バットマン
マイケル・ケイン 、、、アルフレッド(ブルースの執事)
ゲイリー・オールドマン 、、、ジェームズ・ゴードン市警本部長
アン・ハサウェイ 、、、セリーナ・カイル(キャットウーマン)
トム・ハーディ 、、、ベイン
マリオン・コティヤール 、、、ミランダ・テイト
ジョセフ・ゴードン=レヴィット 、、、ジョン・ブレイク
モーガン・フリーマン 、、、ルーシャス・フォックス
マシュー・モディーン 、、、フォーリー市警副本部長
アロン・モニ・アブトゥブール 、、、パヴェル博士


ブルースの邸宅の凄い事。ピアノキーで書棚が開き、その向こうは滝の裏側にある湖みたいな空間。
そこからバットで出入りできるというのがまた素晴らしい。
あんな家に住みたい。
あんなメカに乗りたい。

THE DARK KNIGHT RISES001

アン・ハサウェイの乗りこなすバットポッドもかなりのものであった。
直覚にカーブするところがゾクッとさせる。
アン・ハサウェイ~キャットウーマンが圧倒的にカッコよかった。

空からバットマンの”バット”、陸からキャットウーマンの”バットポッド”による追跡はこの映画でも出色の出来である。
アクション面ではかなりの面白さが味わえた。
(欲を言えばもっと見たかったが)。

THE DARK KNIGHT RISES003

ベインを見ると「北斗の拳」を連想してしまう。
そのマスクと出で立ちからも。
しかしどう見てもラオウの腕力の強い手下のひとりくらいにしか見えないのだが。
確かに彼のお陰でアクション、ファイトは多くなり、重みが加わり派手にもなっている。
だが長く出ずっぱりとなると、このマスクスタイルでの演技はかなり難しさを感じて来る。
役者も苦労したのではないか。特に顔~表情の演技。
その強さは信念によるものだと分析されていたが、最後にミランダに対する愛であったことが分かる。
ラーズ・アル・グールの遺児であったミランダ・テイトを愛した男。愛はもっとも信念を強固なものにする。
(ラーズとは、世界を完璧なバランスに維持する事を目的とする国際的な犯罪の首謀者とされるが、ジョーカーは世界はコントロール出来ないと断じている)。
「愛の戦士」であったのだ。増々北斗の拳みたいである(セーラームーンでは行き過ぎであるか)。
何かを守る為の自己犠牲という点において、バットマンのゴッサム・シティに対するベインのミランダである。


ジェームズ・ゴードン市警本部長の八面六臂の活躍ぶりは前作を上回る。実に良い味を出している。
アルフレッドの人情味あふれる役柄は更に熱く濃くなっていた。
ルーシャス・フォックスは相変わらず飄々としていて肝心なところを抑えている。
そしてジョン・ブレイクは魅力の若手である。何といっても主要脇役が高齢のいぶし銀トリオであることから、この人はよく目立った。

THE DARK KNIGHT RISES002

一番意外であったのは、マリオン・コティヤール演じるミランダであった。
こちらもブルース・ウェインと一緒に騙され不意を突かれた。
ビックリした。では彼女は子供のころから飛び抜けた身体能力を備えていたのか。
システム設計に優れたクリーン・エネルギー推進を強力に推し進めていた起業家に思えていたのだが、それだけではなかった。
ルーツが凄かった。「希望を持たせて一気に壊滅させる」魂胆を胸に秘めたテロ首謀者であった。
何とも彼女が今回の黒幕であったという事か。

マリオン・コティヤールファンにとっては大変複雑な心境となろう、、、?
片やアン・ハサウェイは厭世的な大泥棒からバットマンへの協力者となってゆく。
これは思想を転向したというよりブルース・ウェインの頑固さ直向きさに打たれたというところか。

原爆の起爆プログラムもミランダによって書き換えられ、爆発は避けられないようにしてしまっていた。
だが、バットマン~ブルース・ウェインも”バット”のオートパイロット機能を有効に書き換えて対抗した。
どちらもプログラム書き換え作戦であったが、原爆をゴッサムからなるべく離れた海上で爆破して自身は姿を消すには、この死んだふり作戦は有効であった。
お陰で葬式をあげてもらい銅像も出来た。
一度は泥を被ったバットマンであったが、ジェームズ・ゴードン市警本部長の手記から名誉回復も図られる。
(最初はベインによって市民の混乱・扇動を意図し読まれたものではあるが)。


エンディングは夢のようで爽やかなものであった。
まさにアルフレッドが夢に描いていた願い通りのものではないか。
ネックレスは彼女~セリーナに渡したのか、、、それは自宅からは紛失している。
わたしも正直、このハッピーエンドには嬉しくなった(単純。
ジョン・ブレイクは本名はロビンであったというのも、、、これで相棒となるのか。
メモがブルースから渡されていた、、、。


まだ続きそうである。

わたしとしては、今回の方が面白かった。






ダークナイト

The Dark Knight002

The Dark Knight
2008年
アメリカ・イギリス

クリストファー・ノーラン監督・脚本・製作
ボブ・ケイン、ビル・フィンガー『バットマン』原作

クリスチャン・ベイル 、、、ブルース・ウェイン/バットマン
ヒース・レジャー 、、、ジョーカー
アーロン・エッカート 、、、ハービー・デント検事/トゥーフェイス
ゲイリー・オールドマン 、、、ゴードン警部補
マイケル・ケイン 、、、アルフレッド
マギー・ギレンホール 、、、レイチェル・ドーズ
モーガン・フリーマン 、、、、ルーシャス・フォックス


レイチェル・ドーズ役のケイティ・ホームズが降板してしまったことがとても残念であるが、ヒース・レジャーのジョーカーが誘惑の悪魔であるメフィストフェレスそのものといった感で愉しめた。
悪魔であるから、尋常な相手ではない。
この物語で唯一人間離れした超人であった。

この役は単なる悪党を遥かに超越しており大層難しいであろうが、ヒース・レジャー実に見事である。
規範~超自我で抑えられないカオスのリビドーを上手く操る。
(「人が善良なのは世の中がまともな時だけだ。倫理だ何だと言ってもそんなの悪い冗談にしかならない」「おれは何も企まない。企むのはそっちで、おれはそれに乗っかるだけさ。一歩先を行ってね。」いちいち的を得たことを要所要所で騙るジョーカー)。
ブルース・ウェインが一時、全幅の信頼を寄せたハービー・デント検事すら変貌させてしまう。
もっとも、彼には元々トゥーフェイスである危うさが秘められており、火傷で文字通りその顔となって、パーソナリティが明確に表れたとも謂える。清濁併せ呑むようなタイプではなく、コインの裏と表のようにスウィッチしてしまうひとなのだ。

これにはゴードン警部補も困りはらう。というより、危機的状況に追い込まれる。一番手に負えないタイプかも知れない。
しかし、このトゥーフェイス・メイクは凄いものであった。
一番、頑なな善人~正義漢がある意味、ジョーカーの操り人形になってしまう。
ゴッサムシティの救世主が、まさにトゥーフェイスというクリーチャーになってしまっていた。
兎も角、この物語はジョーカーがポイントである。
彼が(彼の役が)脆弱だともう噺も薄っぺらで軽いものになってしまうだろう。
ジョーカーの厚み次第であり、ヒース・レジャーに負うところは大きいと謂える。

他の役は皆、人間臭い。
特にバットマンは苦悩する普通の人間である。
スーパーマンみたいなあっけらかんとした人ではない、、、別に単純という訳ではない。
(こちらもクリストファー・ノーランが製作しているが)。
ゴードン警部補やアルフレッドやルーシャス・フォックスに支えられている部分が大きい。

それにしても、ゲイリー・オールドマンにマイケル・ケインにモーガン・フリーマンとよくもまあ、脇に大物を揃えたものである。
出ているだけで、風格があり作品の格も上がってしまう。
実際、そうした面は大きいと想われる。

それらの錚々たる俳優の作る絶妙なバランスの上にブルース・ウェインが上手く乗っかっていた感じだ。
しかし、ブルース・ウェインとハービー・デント検事両者の相手役でもあるレイチェル・ドーズ役のマギー・ギレンホールはかなりキビシイ。明らかにケイティ・ホームズが続投すべきであった。キャストの中で唯一疑問を抱くところである。これで観る気をなくしたファンもいるかも知れない。

わたしもゲイリー・オールドマンが出ているので最後まで観たという面はある。
であるから彼が途中で死んだときは、放り出そうかと思った。
でもヒース・レジャーの怪演が気になり見続けていたら、生き返ってきたのでそこが一番嬉しかった所かも知れない(笑。
策略上あそこで死んだふりする必要性があったのかどうか、いまひとつよく分からないのだが、、、。
兎も角、ジョーカーが非現実的な程、常に先を行くので(この辺は「グランド・イリュージョン」のお手軽さも感じてしまうところもあるのだが)何とか衝撃的な策を講じようという焦りも感じる。

ヒーローものに見られる超人アクションはない(これは故意に抑えている気はする)。
ガジェットやバットモービルも然程、圧倒的なものでもなく、そこそこスタイリッシュで実用的なものに留まっていた。

最後にバットマンがハービー・デント検事の名誉を守り彼の犯した罪を被り去って行くが、意味が分からない。
ゴードン警部補、その意味を教えてくれと内心訴えたものだが、よく分からなかった、、、。
続編で待つ、というところか、、、?


「この世界はコントロールできない」ジョーカーのこの言葉は至言である。
欧米が世界をコントロールしようとしたツケが至る所にまわっているところだ。
ジョーカーとは偏在するヴィデオドロームでもある。

The Dark Knight001


この映画自体ヒロイン以外に文句はないが、この監督作品としては「インターステラー」の方が遥かに良かった。
そして「インセプション」、「ダンケルク」、「メメント」の順で気に入っている。








打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

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1993年
岩井俊二 監督・脚本

山崎裕太 、、、ノリミチ
奥菜恵 、、、ナズナ
反田孝幸 、、、ユウスケ
小橋賢児 、、、ジュンイチ
ランディ・ヘブンス 、、、カズヒロ
石井苗子 、、、ナズナの母
麻木久仁子 、、、三浦先生


両親の離婚により、学校を去ることになるナズナは夏休み前に少し気のあるクラスの男子と思い出を作っておきたかったのか、、、。
いやそれ以上の何か、周りの枠や運命に対する身悶え~彼女なりの反逆を示したかったのか。
小学校という時期は(中学・高校までもそうだが)、何でも親や周囲の大人の都合で運ばれてゆく。
単に周りに流されるままにされるというだけでなく、自然に育まれていく想いも、突如外部からの理不尽な力でズタズタにされてしまう。
そこで自分の意思の問われるようなことはまずない。
(少なくともわたしはそうであった。そして多くは似たような仲間と徒党を組むか、内面化するか。わたしは後者であった)。
ある意味、一生の中でその後の精神の基調を形作るもっとも過酷な(人によってだが)時期であるとは謂えよう。

ナズナの家の具体的な事情や転校については担任の三浦先生と関係者しか知らない。

Uchiagehanabi003.jpg

ナズナはノリミチとユウスケの二人が自分の事を好きなのは、知っている。
二人がプールにいるのを見計らい何気なくやって来て、50m競争をたきつける。
そして勝った方と花火を見に行くことに決めていた。
(きっと自分の運命を占うような賭けであったかも知れない)。

勝ったのはユウスケであり、彼女は約束の5時に彼の家の前まで大きなトランクを下げて来た。
だが、ユウスケは約束をすっぽかす。急に面子を気にしだす。
(ノリミチはナズナからユウスケが誘いを受けたことは教えられて知っていた。何故だかナズナをノリミチに託すようなそぶりでもあった)。
ナズナはそこで母に見つかり、泣きわめきながらも強引に連れ戻されてゆく。
この様子を見てノリミチはユウスケを殴りつけて立ち去る。


ここで時間系の乗り換えとなり、プールではノリミチが勝ってナズナと花火の約束をすることになる。
やはり彼女は例の大きなトランクを引いて、浴衣姿で彼の家の前に5時に到着した。
ユウスケが勝手に上がり込んで遊んでいたため、彼の隙をついて二人で手を繋いで走って逃げる。
その後ろ姿をユウスケは見届け、悔しがる。

彼女は花火に行く気など全くなく、トランクの中は家出の品が一揃いであった。
ナズナは思わせ振りに浴衣からちょっと背伸びした服に着替え化粧もして「どう16に見える?」と挑発的に聞く。
どう見ても16は無理だが、ノリミチでは到底対応しかねる。
彼女は「駆け落ち」と言い、ノリミチを強引に誘ってバスに乗り込む。彼は駆け落ちの意味すらよく分かっていなかった。
あなた一人くらい面倒見てあげる等と騙り駅まで乗り、電車に乗って何処に行きたいかと問う。
「女は何をしても生きていけるのよ」などと何処で聴いたか知らないようなセリフまで繰り出す。
ノリミチは完全に巻き込まれ判断不能状態におり、そのままでは何でも彼女の言う通りに従ってしまう状態だ。

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自分たちは電車で遠くの何処かへ行ってしまうものとすでに思い込んでいるところ、彼女に促され最後のバスに乗って街に取って返す。
ノリミチにはその行動の意味が何なのかさっぱり分からない。
そして渋るノリミチをしり目に彼女に引っ張られ学校のプールに忍び込み、二人で服のまま水に入り泳いではしゃぐ、、、。
ひとしきり夜のプールの水~その神秘的なロマンを味わって遊び~彼女は最後に、「また2学期に会えるのが楽しみね」と言って突然、泳いで立ち去る。
何とも言えない郷愁と焦慮の念が立ち騒ぐ、、、。

これが彼らにとって最後なのだ、、、。

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花火は横から見ても下から見ても、基本的に球であろう。
特に題にするようなテーマとは思えぬが。
(テーマとして引っ張れるものとは思えぬ)。
ノリミチとナズナの物語に並行して悪友たちが灯台に登って花火を横から見てやると、花火は横から見ると「平ら派」と「丸い派」に分かれ喧嘩しながら長い道のりをとぼとぼ歩いてゆく。
自分の好きな女子の名を時折叫びながら、、、。
「ナズナ~」、「三浦先生~」、「観月ありさ~」、「セーラームーン~」
勝手にしなさい、である。
ただ、どんな角度から観てみたい、という趣向はヒトそれぞれにあると思う。


コンパクトに無駄なくまとまった危うく甘酸っぱい噺であった。
恐らく奥菜恵の最高傑作に当るのではないか。
彼女の他の出演作など観てはいないが、これを観ればもうこのような「気」を演じることなど不可能であることが分かる。
その意味で大変貴重な作品と謂えよう。
(時間は残酷である)。

夏休み明けの2学期に、ノリミチとユウスケのクラスの机が一つ空いている息を呑む光景をいやでも想像させる。
ここでノリミチは、あの日の意味をはじめて知ることととなるだろう。
それはとても静かで永遠の切なさを湛えている。
(自分もそんな想いをどこかで経験したことがあった気がする、、、)。



Amazon プライムビデオで鑑賞。
なお、アニメバージョンが発売中。広瀬すずが声。



フローズン・タイム

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Cashback
2006年
イギリス

ショーン・エリス監督・脚本・製作
ガイ・ファーレイ音楽
アンガス・ハドソン撮影

ショーン・ビガースタッフ 、、、ベン
エミリア・フォックス 、、、シャロン
ショーン・エヴァンス 、、、ショーン
ミシェル・ライアン 、、、スージー


不眠症が慢性的に続くと、幻覚を見る(場合があるらしい(笑)。
その幻覚は自分の周囲の「時」が止まったように感じられるという、、、。
時が止まればとても便利だろう、と想えるが巻き戻せるわけではない。
単に一旦止めるだけでは何ら事態を変えることなど出来ないことが分かる。
特にメリットはないのだ。
相手~対象の思考や認識、記憶にどうこう働きかけられる訳ではない。

ただ、画家の卵である主人公にとって、対象をじっくり眺めて描く時間はたっぷりとれる。
(見方を変えれば異様に加速した彼の意識~認識作用がそう知覚させたのかも知れない。あるいは単なる病的幻覚か)。
後は止まっている店長を台車に乗せてそのまま他の場所に運ぶなどというコミカルな場面はあったが、、、
ここでは止まっている対象に対し物質的に働きかけられる、という事情を示す。
止まっている女性にも働きかけをしてヌードを描いている場面もある。
そうなると単なる幻覚とは片付けられない個人の内面的な世界に留まらない噺となろうか。
何とも奇妙な居心地の悪い事態ではある。(時間の)止まった対象を自在に動かせるというのは、論理矛盾である。

時間を止める系の映画に(別に深く考える類のものではないのだが)自分だけが自在に動けるというものが多い。
時間が停止したと認識する主体があるから事態がそれと分かるのだが、このとき自分とはどこまで自分で周囲とはどこまでを指して周囲ー環界とみなすのかである。その問題は不可避的に発生する。
然も本質的に時空連続体としてわれわれ~世界が存在する以上、その織物に対し別の超越的な自分独自の時空間という系をどう絡めるのか。その別の時空系が他の系に作用を及ぼすとなれば如何なる事情~メカニズムによるものか。

単に自分の時間意識が狂って加速し、周囲が遅延して見えるということか。
(そのような病状は知らぬが、極限状態~アルタード・ステイツにおいて、一瞬のうちにこれまでの人生を俯瞰・圧縮してしまう等という事例報告は少なくない。)
時間意識~認識が狂うことは精神の変調(変性)によって起こる可能性はあるかも知れない。
しかし物質的に相手に働きかけられるとなると、もはや「時間」ではなく、生命活動の一時凍結により事態を動かす等といった次元に及ぶか。働きかけたという幻想に留まらない客観性がみられる場合(つまり店長の例、、、しかしこれも微妙であり、運んだ結果が背後の音で確認されただけである為、本人の幻想~幻聴にも受け取れる)。
確かに、モデルをヌードにして描いたとしても、それは想像で描いたものに過ぎないと受け取れる(その可能性の方が高い)。
美大生であれば、体格を服の上から見るだけで、ヌードデッサンを通して習得した骨格・筋肉の付き方は再現できる。

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しょうもない横道に逸れてしまった(笑。
「時間」に足を取られてはいけない。
この映画は端から時間など、大した要素ではないのだ。
ちょっとしたファンタジックな演出のひとつ、主人公の感性の一面くらいのものである。
出て来るキャストも皆、調子外れの連中揃いだ。
独自の世界を生きている。

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兎も角、主人公は不眠症の芸術家なのだ。
何があろうがそれ程、おかしくない、というノリでのラブファンタジーである。
ユーモアとウェットがあり、流れの緩急と全体的なテンポが小気味よい。
主人公が妙に真面目なのも笑える。
そう、この映画は独特の(外れた)調子をもった神秘的な静謐さも漂う、ラブコメディなのだ。
映像も音楽センスもかなり良い。
不思議の国のアリスの伝統を背景にもつイギリス映画である。


最後に新しく出逢った女性とキスをする~恋が実ったことで、しっかり熟睡できたというのは、とても分かるところだ。
良いことがあると、まさに芋づる式で、画廊のオーナーに認められ個展が開かれ大盛況、そこで出逢った大物パトロンにニューヨークでの個展の誘いも受ける。
そういうものなのかも知れない。
これはリアルな現実なのだと思う。
(もう時間が止まる必要もあるまい。その意識から解放されたのだ)。
なんせ、良く眠った後なのだから(爆。


ただ一言、相手役女性が今一つな感じが否めなかったのだが、、、。
ミア・ワシコウスカあたりがやったら申し分ないのだが、、、そんな気が観ているうちにして来た(あまり良い観客ではない(爆)。






アンコール!!

Song for Marion001

Song for Marion
2012年
イギリス

ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督・脚本

テレンス・スタンプ、、、 アーサー(72歳の男)
ヴァネッサ・レッドグレーヴ、、、 マリオン(アーサーの妻)
ジェマ・アータートン、、、 エリザベス(音楽教師、老人合唱団顧問)
クリストファー・エクルストン、、、、 ジェームズ(アーサーの息子)


72歳からでも、愛する伴侶を亡くしてからでも、人生はやり直せる。
愉しい生を求め前を向き、生きることが出来る。
何一つ遅すぎることなどない。
何事にも臆せず真摯に向かい合えさえすれば、新たな生はやってくる。
とても本質的でシリアスな内容をベタに表現するコメディであった。

一組の老夫婦と若い音楽教師の絆を中心にして夫婦愛と親子愛と友愛を描く。
個性的で愉快な合唱団などというコミュニティとの関わりは、わたしも苦手な感じがするが、偏屈な頑固者であるアーサーにとってはもっと億劫で鬱陶しいものであろう。
彼は妻にだけはこころを開き大切に慈しむが、他の人間に対してはとても気難しく融通も利かない。
実の息子とも常にすれ違い、意図的に遠ざけている有様だ。
社交的で明るい妻は、合唱団で歌う事を何よりの愉しみとしていた。
マリオンの送り迎えはアーサーにとって大切なルーチンでもあった。
性格はまるで違うのに本当に仲の良い夫婦なのだ。
しかしその妻は、癌の末期に来ていた。
マリオンは最期までアーサーに送り迎えを頼み、合唱を友人たちと思う存分愉しんで逝った。

時と共に彼は彼女がそこでどのように感じていたのか知りたくなってくる。
彼女の生がどのようなものであったのか、身をもって知りたいと思うのだ。
彼女の生の実質をその片鱗であろうと縋る様に受け止めたい。きっとそんな気持であっただろう。
毛嫌いしていた合唱団にマリオンの代わりに入り、共に歌を歌い始める。
予想以上の個性派揃いであったが、彼は次第にエリザベスとの固い信頼関係を築き、仲間との距離を詰めてゆく。

妻が存命中に合唱団で最後にソロで歌った曲はCyndi Lauper の”True Colors”でありアーサーに向けて歌ったものだ。
(シンディ・ローパー懐かしい。わたしもよく聴いていた)。

 わたしはあなたの本当の色を見ている。
 だからこそ、あなたを愛しているの。
 それを見せることを
 恐れないで
 あなたの本当の色を
 本当の色は美しいわ
 まるで虹のよう

彼はその気持ちを察しながらも、率直に受け止めきれず戸惑っていた。
しかし今は違う。
その返歌としてアーサーはBilly Joelの”Lullabye (Goodnight, My Angel)”を妻が愛した合唱団の全国大会の舞台で歌う。
大変な決意とともに。まさに”Song for Marion”なのだ。
素敵である。
会場の暗闇から孫娘が「がんばれ、おじいちゃん!」と声をかける。その隣には長年上手くいっていない息子が真剣に見つめていた。
アーサーがやっと歌い出すと、嘲笑を漏らしていた会場の空気が一変する。

 お休み 僕のエンジェル もう眠る時間だよ
 でもまだとても多くの事を僕は言いたい
 思い出して 君が僕のために歌った歌をみんな
 あの時僕らは船に乗りに行った エメラルド・ベイに

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いつの日か 僕らはみんないなくなるだろう
 でも子守唄は続く
 それは決して絶えない そんな風に君と僕も...


その声はとても優しく綺麗であった。
ずっと秘められていた優しさが解き放たれたかのよう。
優しさは時に過激な力を持つ。
人を深く動かす。
皆が自然に立ち上がって「アンコール」を求めていた。
それだけの歌であった。
(わたしも何度も聴きたくなる歌であった。ルー・リードを聴いたときの感覚に近い)。


この映画は昨日の映画と異なり、音楽そのものの凄さとそれを生むための苦悩など「音楽」で魅せるものではなく、音楽を拠り所にしてひととの繋がりを暖かく描こうとしている。
これも見事に成功している。
自然に胸に熱いものの込み上げてくる映画であった。


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パガニーニ  愛と狂気のヴァイオリニスト

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Der Teufelsgeiger
2013年
ドイツ

バーナード・ローズ監督・脚本・撮影
デイヴィッド・ギャレット、フランク・ファン・デル・ハイデン音楽


デイヴィッド・ギャレット、、、ニコロ・パガニーニ 、製作総指揮
ジャレッド・ハリス、、、ウルバーニ(パガニーニ のマネージャー)
アンドレア・デック、、、シャーロット・ワトソン(パガニーニ の愛した娘、オペラ歌手)
ジョエリー・リチャードソン、、、エセル・ランガム(ジャーナリスト)
クリスチャン・マッケイ、、、ジョン・ワトソン(イギリスの指揮者、シャーロットの父)
ヴェロニカ・フェレ、、、エリザベス・ウェルス(ジョンの内縁の妻、オペラ歌手)


パガニーニと謂えばフランツ・リストがピアノに編曲した”ラ・カンパネラ”と来てしまうが、ここでは他にも弾きまくっている。
”ラ・カンパネラ”はピアノになっても超絶であるが、元のバイオリンでも当然、超絶である(笑。

主演のデイヴィッド・ギャレットは、何と「ストラディバリウス」を超絶技巧を駆使して劇中で弾きまくっている。
5億円とか。いやデイヴィッド・ギャレット恐るべし。
この映画は何といってもデイヴィッド・ギャレットの弾くパガニーニの演奏を聴く~観るに尽きる。
いとも容易く、左手でピッツィカートをはじきつつ、右手で弓をあやつる技巧に聞惚れるが、その躍動感と情熱に圧倒されもする。
それだけで成り立つ映画。やはりヴァイオリニスト兼モデルが主演であるから音も絵も凄い。

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アンドレア・デックの瑞々しさも後に残る。
彼女は自分で唱っているのか?
彼女の歌とパガニーニの演奏で聴かせる、彼のシャーロットに捧げた”アリア”の美しいこと。
この曲は劇中何度も流される。まるでテーマ曲みたいに。

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噺は、パガニーニに彼が唯一本気で恋をしたシャーロットと彼をヨーロッパの覇者に祀り上げたウルバーニとの絡みで進展する。
途轍もない才能に恵まれていながら、舞台の合間に袖で誰も注目しないバイオリンの曲芸弾きをしていたうだつの上がらぬパガニーニに或る夜、ウルバーニという紳士が訪ねて来る。
「君をすぐに世界的ヴァイオリニストにしてみせよう」「代償は?」「何もない」怪しい、悪魔的な契約を想わせる。
「君は有り余る才能と技術を持っているが、物語が無い」まさにそれを作る人間が名プロジューサーであろう。
パガニーニは勧められるまま書類にサインをしてしまう。
ファウストと悪魔メフィストフェレスの雰囲気そのもの。

しかし直ぐにミラノ次いでパリで大ブレイクする。
その勢いでイギリスに招かれる。
(イギリスの港の景観は凄い。一目で絵と分かる見事なものであった(笑)。
何処に行こうと、稼いだ金は酒と女とギャンブルに全てつぎ込んでしまい、常に金欠状態にある。
このだらしなさは~いや蕩尽の欲求は、天才芸術家にはよく見られるものではある。
(画家もこのパタンは多い。酒、女ではモディリアーニも負けてはいない(笑。いや愛への拘りは、と謂うべきか)。
そこでウルバーニの提案が面白い。ギャンブルで負けたくなければカジノを自分のものにすればよい。
それで頑張った分けではなかろうが、パガニーニは次々とコンサートを成功させ、遂に自分のカジノを持つ。

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演奏シーンは全て見どころである。
まずは、パブでの演奏は狂気である。ここでの熱狂の噂からイギリスに彼の名が浸透して行く。
屋敷の家財まで売り払って彼をイギリスに呼んだジョン・ワトソンのコンサートには、オーケストラが演奏を始めても出て来ない。姿を眩ませたかと思ったら、後ろの出入り口から通路に現れ弾きまくる。まるで演劇の出みたいに。
そして技巧の限りを尽くした演奏を繰り広げる。
コンサート(クラシック)で若い女性の黄色い声援と失神する姿は、もう現代で謂えばカリスマロックアーチストのステージに見るものではないか。
まあ、モーツァルトもそのような感じであったし、その当時であれば彼らこそ進み過ぎたコンテンポラリーミュージックのアーティストに相違ない。失神しても不思議はないのだが。
そしてシャーロットの歌~アリア~も加わり大変な盛況で終わり彼と彼女の才能が高く評価される。
だが天国と地獄の浮き沈みの激しい運命の人である。

強烈な支持があれば、それに対するアンチも現れる。
そのパガニーニを素行~女性関係~の面から風紀を乱すと断罪しようとする女性団体というのもえげつない。
この辺は投獄されたことも含めエゴン・シーレに近いものを感じる。
何ともイギリスに着くなりの悪魔の崇拝者呼ばわりの排斥運動である。受け容れ側との極度の温度差。こういう圧力団体は怖い。
そこにジャーナリストも絡み二人の悪い噂が広がり、彼だけでなくシャーロットも深く傷つく。

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ただウルバーニが何故、あのような策略を弄してパガニーニからシャーロットを遠ざけたのか。
その辺がわたしには理解できない。
ウルバーニの言うように、パガニーニと親密になると彼女が堕落しただろうか。
シャーロットは非常に心がしっかりしており、そうなるとは思えないが。
エセルと言いウルバーニにしても他の感情が渦巻いているように見える。
パガニーニのことを純粋に考えたのなら、寧ろ彼女と共にいることが彼自身を変えたのではなかろうか、、、。
、、、何とも言えないが、、、(爆。
それっきりの、失意のパガニーニのまま終わって逝く、、、。
シャーロットが意外とあっさりしていたので少しがっかりした。
(でも、彼女のコンサートで例のアリアは欠かせない曲となっていたようである)。


兎も角、デイヴィッド・ギャレットの凄まじい演奏を観るだけでも充分価値のある映画である。

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オーケストラ!

Le Concert001

Le Concert
2009年
フランス

ラデュ・ミヘイレアニュ監督・脚本
アラン=ミシェル・ブラン、マシュー・ロビンス脚本
アルマン・アマール音楽
ヴァイオリン協奏曲 (チャイコフスキー)
その他クラシックの名曲がたくさん、、、。一杯あり過ぎて出て来ない、、、。

アレクセイ・グシュコブ、、、アンドレイ・フィリポフ(天才指揮者)
メラニー・ロラン、、、アンヌ=マリー・ジャケ(名バイオリニスト)
ドミトリー・ナザロフ、、、サーシャ・グロスマン(アンドレイの親友、チェロ奏者)
フランソワ・ベルレアン、、、オリヴィエ・デュプレシス(シャトレ座オーナー)
ミュウ=ミュウ、、、ギレーヌ・ドゥ・ラ・リヴィエール(アンヌ=マリーのマネージャー、育ての親)
ヴァレリー・バリノフ、、、イヴァン・ガヴリーロフ(共産主義者、臨時マネージャー)
アンナ・カメンコヴァ、、、イリーナ・フィリポフ(アンドレイの妻)


いろいろと想いの込み上げてくる映画であった。
チャイコフスキー自身がとてもマイノリティに対して理解の深い人物であった。
その為、この映画のテーマにチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」が据えられているのは納得である。
(わたしもチャイコフスキーは大好きだ。「弦楽セレナード」はよく聴いた。「猫の民子」のCMでも泣いたものだ(爆)。


ロシア・ボリショイ交響楽団で主席指揮者を務めていたアンドレイ・フィリポフは30年前、ブレジネフ政権下ユダヤ人演奏家の排斥に従わなかった為解雇され、ボリショイ劇場の清掃員になって呑んだくれになっていた。他の楽団員たちも音楽の生活から追われて散り散りになってしまう。
或る時アンドレイは偶然にサンフランシスコ交響楽団が演奏をキャンセルした為、パリのシャトレ座で代わりの楽団を探している情報をファックスを盗み読みして知ることとなる。

そこで彼は奇想天外な策略を思いつく。
昔の仲間を探し出して楽団を再結成し、パリにボリショイ成済まし楽団として乗り込み、奇跡の復活を狙うというのだ。
それを奥さんが大乗り気で後押ししてれたのも、実に心強い。良い奥さんで感動した。

因縁のチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」の演奏によって蘇るのだ!
かつてコンサートでその曲の演奏中に政府の横槍が入り中断され(タクトが折られ)、ユダヤ人の名演奏家はシベリアに送られ命を落とす事にもなった。
彼はその曲に徹底的に拘り、その演奏で復活を遂げることを決意する。
更に彼にはある女性とパリで運命的な(29年越しの)再会を果たす目的があった。
ソリストに招いたスター女性バイオリニスト、アンヌ=マリー・ジャケである。

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だがいざ実行に移すにも30年のブランクにより、問題は山積であった。
まず散らばった仲間を見つけるのが大変なのだ。
これは「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」でもそうであった。(ライ・クーダが苦労していた)。
マネージャーを頼んだ男はかつてアンドレイの楽団を潰した共産党の張本人であったが、パリと聞いた途端やる気を漲らせる。
(フランスの共産党に接触を図る魂胆があった)。
マネージメントの腕は良いが、団員たちとの折り合いは悪い(当然ではあるが。KGBと言って彼を嫌う)。
ドタバタ騒ぎの連続であり、コメディタッチで所々で笑わせながら展開する。

かつての名演奏家達は皆、音楽を離れた生活を送っており、楽器すら手放した者もいた。
楽器が足りない。
金もない。
旅券を持っていない者も多い。
金を余計に支払って別ルートで旅券を60人分作る。
兎も角、資金問題が大変で、マフィアのような富豪の「ガス王」にも縋りつく。

やっとの思いでかき集めた全員をパリに連れてゆくが、解放感からかホテルに着くなりお金を貰って皆何処かに遊びに行ってしまう(笑。
この締まりのなさは、ロシア的なのか?
なかには、商売を始めてしまう父子もいる(この2人はコンサート本番にちょっと遅れて舞台に滑り込む)。
そして強面の急遽スポンサーになったロシアガス王が強引にコンサートの独占放映権を主張してくる。
放映権を巡ってまたイザコザである。これもロシア的か?
それをフランス陣営(シャトレ座)は、電波が大規模衛星により他の国に拾われてしまうこともあります。
それで音や画像が共有されても構いませんよね、で丸め込む。
放浪して全然戻ってこない団員に業を煮やしてデュプレシスは契約破棄をチラつかせて脅かすが、ロバのようなロシア人はこうして動かす、などと充分心得ている。こんなやり取りが続く。
しかもマネージャーの設定したレストラン(トゥル・ノルマン)のディナーに誰も姿を見せないというありさま。

あげくにリハーサルの日も参加する者がおらず、リハなしの、いきなり本番という運びとなる。
これにはパリのスター演奏家であるアンヌ=マリーは呆れ返り演奏に参加することを躊躇う。
彼女は夜のディナーでアンドレイから30年前のいきさつを途中まで聴く。
彼はレアというバイオリンの天才ソリストを見出し、チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」に究極のハーモニーを見出したことを告げる。しかし彼女がKGBに捕まったことまででその先は話さず仕舞いであった。
アンヌ=マリーは、わたしはレアの身代わりはできない。過去には誰も戻れないと言い、出演を断って去って行く。
アンドレイには、その先を語ることは出来なかった。

Le Concert002

アンドレイの親友グロスマンはギレーヌの家を探し、フランス語が苦手だが、何とか説得に務める。
彼女は、彼が思わず口にした演奏することで、最後に両親のことが分かると漏らしたその言葉に強く拘る。
しかし、それをグロスマンは彼女につぶさに語ることが出来ない。
ただ「言葉は裏切るが、音楽は今も美しい」とフランス語で語ってその場を立ち去る。

この映画は邦画によくある(アメリカ映画にもその気はある)、スポ根音楽映画(一生懸命練習して優勝をもぎ取る類のもの)とは全く次元の異なるものであることが分かる。

Le Concert005

育ての親で彼女の出生の秘密を知っているギレーヌに促され、アンヌ=マリーはコンサートに出演することにする。
両親の事が分かるという希も託して。

30年前、アンドレイたちのコンサートをぶち壊し、彼らから音楽を奪ったガヴリーロフがコンサート直前に会場にタクシーを飛ばしてやって来た(休暇でパリを訪れていた)現ボリショイ交響楽団オーナーを見つけ、他のビルに彼を誘導して閉じ込め、二度目のコンサートの中止を阻む。この功績は大きい(爆。
そしてガヴリーロフは、出だしに調子の乗らない演奏を聴いて、神がいるなら助けてくれと祈る。すると「神は確かにいた」というくらいに素晴らしい演奏になってゆく。
アンヌ=マリーのソロに絡み全ての音が美しく調和して昇まってゆくのだった、、、、。
楽団の誰もが彼女にかつてのレアを観ていた。目を潤ませて。
この終盤20分は圧巻の演奏であった。

アンドレイが指揮の最中に彼女にこころのなかで語り掛ける。
「あの話の続きをしよう。レアには6カ月の赤ん坊がいた。子供は何としても収容所に渡したくない為、彼らはその娘をギレーヌに託したのだ。」
最後に楽団のメンバーの彼女を見つめる目を通し彼女は全てを察知していた(いや直覚した、か)。
この重層的な流れが音楽の調和と共に大変感動的であった。

Le Concert004

結局、ここがチャンスとみたら、無謀なチャレンジと思える事でも、やってしまった方がよい、、、というメッセージにも受け取れる。
そういうものかもしれない(笑。

コミカルでギクシャクした流れから後半のハーモニーへと一気に駆けあがって行く手際は素晴らしかった。

キャストも皆、とても個性的でマイノリティたちの民族的な雰囲気もよく出ていた。
アレクセイ・グシュコブは天才指揮者(芸術家)の孤独と威厳を漂わせていて、このような役にピッタリの人に思える。
相棒のドミトリー・ナザロフも人間的な魅力に溢れた雰囲気をよく表現していた。

メラニー・ロランは有名女優であり監督でもあり歌手でもありモデルもやっていたことを知った(笑。
わたしが知らなかっただけであるが、これまでに恐らくどこかで(映画やメディアで)見てきたはずだ。
何となく覚えている。
だがそのなかでもこの役は極めて素敵な役であったと思う。
素晴らしかった。







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グランド・イリュージョン

Now You See Me001

Now You See Me
2013年
アメリカ

ルイ・ルテリエ監督

ジェシー・アイゼンバーグ 、、、J・ダニエル・アトラス(マジシャン“フォー・ホースメン”のリーダー)
マーク・ラファロ 、、、ディラン・ローズ( FBIの特別捜査官“フォー・ホースメン”を追う)
ウディ・ハレルソン 、、、メリット・マッキニー(メンタリスト“フォー・ホースメン”の一員)
メラニー・ロラン 、、、アルマ・ドレイ( ICPOのフランス人捜査官ローズと共に“フォー・ホースメン”を追う)
アイラ・フィッシャー 、、、ヘンリー・リーブス(マジシャン“フォー・ホースメン”の一員)
デイヴ・フランコ 、、、ジャック・ワイルダー(若手マジシャン“フォー・ホースメン”の一員)
コモン 、、、エバンス(FBIの特別捜査官。ローズの上司)
マイケル・ケイン 、、、アーサー・トレスラー(世界的な大富豪“フォー・ホースメン”のパトロン)
モーガン・フリーマン 、、、サディアス・ブラッドリー(マジックの種明かしを行うことで有名な老マジシャン)


トランスポーター』の監督ということで、カーチェイスはまさにそれを想起するものであった(笑。

最初の出だしのインパクトは凄い。
とんでもないマジシャンが何かを仕出かすぞという煽りは充分であった。
派手でスタイリッシュでまさにトリッキーな映画であろう、、、。
正直惹き込まれた。

だが、印象は次第に変わって行く。

この映画はスケールの大きい鮮やかなトリックで度肝を抜くシーンを楽しむものである。
確かにそうなのだが、具体的にどうやって準備~実行に漕ぎつけたのか?
また、それら~金の巻き上げをやる意図もよく分からない。

その大掛かりなイリュージョンの仕掛けを彼ら“フォー・ホースメン”が如何にして発想・計画・準備・作成を実際に行っていったのか、個々が実際にどう手分けして動いたのか、外注を出したにしてもそれはどのパートなのか、どうやってその大きな仕掛けを秘密裡に仕込み隠蔽できたのか、その辺がすっぽり抜け落ちていて、ただ映画として舞台をCGを駆使したVFXで繋いでいる為、今一つ入り込めるリアリティがない。
あれだけの大掛かりな仕掛けをするには、相当な仕事が必要なのは言うまでもない。
謂わば、彼らの舞台裏~種が見たいのだが、われわれも映画の中の観客と同様に本番舞台しか観れないというのもどんなものか、、、。ブラッドリーが推理する部分は一部出てくるが、実際どうなのか全くのブラックボックスなのだ。
あのリーダー格のアトラスの上滑りの軽薄さが余計に際立ってしまうではないか。
ホントにこんなことの出来る連中なのか、、、という気持ちが次第に強まり距離感が生まれて来る。
パリから来た男性に、メンバーが次々にイメージを植え付けてゆく過程があったが、少なくともあれくらいの説明がイリュージョン実行までの流れに対して欲しい。
(出来る連中とこちらにしっかり思い込ませるプロットが抜けている。結果だけを単にCGで見せるだけでは、そこで演じる彼らがとても嘘くさく見えてくる)。

Now You See Me004

ということで、最初の異様にスタイリッシュな煽りに惹き込まれ大いに期待して行くが、途中のお得意のカーチェイスなどで気を引くものの、どうにもペラペラな展開にシラケが強くなり、、、何だったんだという虚しさが残る。
こういう映画だからこそ、地にしっかり足を付けている人物が必要ではないか?
皆、抽象的な存在なのだ。
特に“フォー・ホースメン”が誰も、いけ好かない。
黒幕であったローズが何年もかけて周到な計画を練ったとドレイに漏らすが、もしそうだとしても“フォー・ホースメン”とそれこそ周到な打ち合わせをしなければ実現できまい。彼らはそんな立場にない(ローズの意図も正体も知らない)し、暇も余裕もない。
更に、計画を緻密に立てた割に命からがら必死に走って逃げる場面が多すぎはしないか?
カーチェイスでワイルダーを死んだと見せつけるあんな手の込んだトリックをする必要があったのか?

そして極め付けが、FBIの捜査官でありながら、詐欺師集団“フォー・ホースメン”を結成させ、自分の父親の仇を討たせるとは、一体いかがなものか?この姿こそイリュージョンなのかい?
それを最後に聞かされたインターポールのやり手女性捜査官が、「それは知らなかったことにしましょ」とか言って落着である。
あんなに必死で任務遂行に賭けていたはずなのに、この腰砕けは何なのだ?ちょっと親しくなったくらいで、矜持というものがないのか?

Now You See Me002

この女性の存在も半ば謎のままであった、、、ただ極めて綺麗な捜査官ではあった、、、それも怪しい。一体何者だ!
更に余裕綽々の大物2人の扱いである。スポンサーの有力者で大富豪のトレスラーと如何にも引き出しを沢山持っている感じのその道の大家ブラッドリーが、あっけなくハメられて、それまで、というのもどうなのか、、、(大御所に失礼ではないか(爆)。

そして最後の最後に4人に送られたカードを合わせて木の幹に当てるとメリーゴーランドが回り出し、その中にいたローズに「おめでとう、君たちを『ザ・アイ』のメンバーに迎えよう」と言われ4人は「あなただったのか!」と感激する。どうやら4人は『ザ・アイ』(本物の魔術師集団)に入るのが目的で一連の金の巻き上げ(入会の為の試練?)をしていたのか、、、マッキニーは金さえ入ればもう知らないみたいなことを言ってはいたが。
ローズに導かれ皆笑顔で達成感に浸っている、、、あれだけドタバタと犯人を追って来て、このローズのマッチポンプぶり一体何なんだという感じである(怒。
『ザ・アイ』を出すからには続編があるのだろうが、ちょっとねえ、、、。

Now You See Me003

登場人物たちにこれ程、違和感を抱く映画は無かったと思う。


物語、役柄自体が非現実的なのだ。
まさに全てがイリュージョン、、、根も葉もない。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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