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ヒロシマモナムール 

HIROSHIMA, MON AMOUR003


イロシマモナムールか。「24時間の情事」でもある。
HIROSHIMA, MON AMOUR
1959年
フランス、日本

アラン・レネ 監督
マルグリット・デュラス 原作・脚本
ジョヴァンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー 音楽
サッシャ・ヴィエルニ、高橋通夫 撮影

エマニュエル・リヴァ 、、、女
岡田英次 、、、男
ベルナール・フレッソン 、、、ドイツ兵


モノローグ的な対話、、、「去年マリエンバートで」と同質の。
すれ違いながらも繋がる。いや繋がりながらも距離を確認する。
映像もやはり耽美的だ。
特に後半、ヒロシマとヌベールが交互に映し出されてゆくシーン。
原爆投下から13年後のヒロシマでのフランス女性と日本の男性との24時間の逢瀬。


女はパリ(その前はヌベール)からきた女優であり戦争映画をイロシマに撮りにやって来た。
男はヒロシマ原爆投下時には、戦地におり不在であったが家族は犠牲となる。

「癒されぬ記憶を持ちたかった」
「影と石の記憶を」
女がいう。
忘却を深く恐れながらも、恐れるがゆえに忘却を望む。

HIROSHIMA, MON AMOUR004


まさに24時間の情事のなかで、女は「わたしはイロシマの全てを見た」と言い、男は「いや君はヒロシマの何も見ていない」と完全に否定する。
「病院を見た」「資料館を見た」「この広場が太陽と同じ温度になった」痕跡を見た、と女は言う。
そしてわれわれは「映画を観た」(彼女は女優でイロシマに映画出演にやって来た)。

しかし、例えその現場~渦中にいても何を見たといえるのか?
ひとは限られたその場所で自分の知ることのみを知る。
いや、恐らくそれ以上の情報を浴びせられ何らかの衝撃~外傷を刻んだにせよ、それについては他者に伝えることばはあるまい。

前半は女が観たというものを男はことごとく否定する。
「よく眺めれば学べる」のか、、、。
確かに学べるだろう。
だが、知るとは何か?
ただ、原爆投下後、間も無く焦土から幾種類もの花が咲き始める。
「灰の中から蘇る生命が花にこそある」ことに驚くところは、わたしにとっても驚きであった、、、。
やはり、場所である、、、。

彼女は明日、撮影が終わり帰国するという。
一日限りの情事。行きずりの恋であるという。
今度は男が少しでも彼女の事を知りたくなる。
何も知らないのだ。
ならば、彼女の居た場所について知りたい。故郷ヌベールにいた当時の彼女を。

HIROSHIMA, MON AMOUR002


後半男はヌベールでの彼女の事を訊ねる。
そしてカフェで彼女はその壮絶な過去について男に打ち明ける。
彼女は故郷でドイツ軍兵士と恋に落ちるも、彼は殺され自分は地元民から制裁を受け髪を刈られ地下室に幽閉されたという。
父の薬屋もその為に閉めることになるが、終戦を境に地下から出ることが許され、その夜彼女は自転車でパリに向う。
パリで彼女はイロシマのことを知ることとなった。

男はその話から女を知ろうとするが、聞けば聞くほどイメージも結ばない。
そのため、彼はもどかしさと焦燥から彼女に纏わりついて離れない。
最初の頃に見せていた余裕の表情は消え失せている。
女は男が追いすがって来ても、身をかわし続ける。

女の何度も出入りするホテル。
夜のヒロシマの街が妙に艶めかしい。
「どおむ」看板、高級クラブ?のガラス張り天井、コンクリートの街並みの陰影と武骨ででかい外車にタクシー、、、。
ノスタルジックなのだが、この世に実際にあったところには想えない。
そんな場所で、男女の姿も一瞬の幻にも見えてくる。

Hiroshima Mon Amour001

最後、別れを前に、「場所」同士でお互いを呼び合う。
ヒロシマとヌベールの街が交錯する。
太田川とロアール川も、別々に流れる。
それぞれの猫。
この切り替えしは見事な絵である。

結局
ヒロシマ、、、何も知らない。
ヌベール、、、何も分からない。
忘却したい、、、出来ない。
忘れたくない、、、忘れるしかない
そして音楽~現代音楽がこの映像に時代を超絶した普遍性~永遠性を与えている。



冒頭の芸術的な絡みのアングルから始まる光景に暫くの間、わたしは女が独りでイロシマの幻想相手に~例えば資料館で観た兵士をサンプルにした像と~語り合っている(自問自答している)のかと思っていたのだが、最後もまたそんな孤絶した存在を感じた。

基本、モノローグなのである。

見る・知ることの不可能性いや不毛性をただ木霊のように問うている、、、。
そして「忘却」の恐怖を。


スイッチ・オフ

Into the Forest

Into the Forest
2017年
カナダ
パトリシア・ロゼマ 監督
『森へ 少女ネルの日記』ジーン・ヘグランド 原作


エレン・ペイジ、、、ネル(ネットで受講している学生)、製作
エヴァン・レイチェル・ウッド、、、エヴァ(ネルの姉、ダンサー志望)
マックス・ミンゲラ、、、イーライ(ネルのボーイフレンド)
カラム・キース・レニー、、、ロバート(姉妹の父)

邦題が紛らわしい。ちょっとサスペンス色を感じてしまう。
”Into the Forest”を描く映画であったはずだ。
製作の方針でこうなったか、映画自体も肝心な部分が伝えられていない。
最後に家を燃やす必然性があの流れでは理解は困難だ。
家が黴臭くて子供の成育に良くないとかいうレベルのはなしではなかろう。
大事な部分の描写が雑だ。または抜けている。


この姉妹は森に住んでいるが、基本わたしが普通(平地)の街に住んでいるのと変わらぬ生活を送っていた。
それが発電所のダウンで送電されなくなったことで、電気文明以前の生活に引き戻される。
(こういう事態に見舞われることは、自然災害を一度受ければ誰にも可能性はある)。
スマフォもTVもパソコン(ネットワーク)も全て不通となり、太陽光コンバータも注文したものが届かない。
最初の頃は、危機感も無く、姉妹共々、ダンスのレッスンや宿題や志望校のことで頭をなやましている。
ろうそくとメトロノームでダンスの練習をし本を読む生活が始まる。

すぐにガソリンの供給も無くなり、人心は乱れ、不安と緊張感が漂ってくる。
街に買い出しに行ってもモノはほとんどない状態になっていたが、ガソリンの目途も立たないため移動も実質不可能となる。
更に、ソーラー電池のラジオまで何も流れなくなる。
情報がどこからも入ってこない。
われわれにとって一番恐ろしいことだ。
新しい信頼のおける情報が入らず、噂話が蔓延って来る。
(実際、わたしの身近な環境においても情報は捻じ曲げられ改竄されて沈殿している)。
中央の情報が入らなくなるということは、すでに尋常ではない事態が起きていると受け取るしかあるまい。
これは完全に全体的な(少なくとも国単位の)崩壊を意味しないか。
その辺、その仄めかしも含めほとんど描写はないのだが。

然も、母に次いで父も亡くしてしまい、大きな後ろ盾が失せてしまう。
姉妹間では不安とストレスから諍いや亀裂が生じ、妹はガセネタを運んできたボーイフレンドと8か月かけてヒッチハイクで送電が回復したという東部に逃げることにする。
結局、離れてみて姉妹の絆を感じ取り、妹は姉独りで残る家に走って戻り、そこで共に暮らすことにする。
二人が同調して力を合わせ森での自給自足の厳しい暮らしが何とか軌道に乗ったかにみえた。

国や文明が崩壊しようが、生活は続く。
元々、この親娘、森に入って普通の生活を送っていたわけだが、いよいよ電気が断たれガソリン(移動手段)も無くなり、森の生活に深く溶け込むことを余儀なくされる。
車で街で買い出しに行っていた頃は、全く意識していなかった野草について研究を始める。
そもそもその環境にいて野草を利用しない手はあるまい。

そんな折に、ならず者に姉が暴行され妊娠までしてしまう。おまけに車まで盗まれる。
この辺からの緊張度はかなり高まってゆく。
「もう何も失いたくはない」と謂い、姉はその不義の子を産む決心を固める。
出産の危機もあり必要に迫られ、イノシシを狩って動物性のたんぱく質を摂る(特にB12)。
恐らく、全てはこういうものだと思う。
しかし大雨の続く中、家屋自体が徐々に倒壊する気配を見せていた。
こうなったときに、われわれにはどのような道が見出せるのか。


森へと、彼女らは完全に入って行くことを選択したのだ。



セールスマン

THE SALESMAN001

FORUSHANDE/THE SALESMAN
2016年
イラン・フランス合作
アスガー・ファルハディ 監督・脚本

シャハブ・ホセイニ、、、エマッド・エテサミ(国語教師、劇団員)
タラネ・アリシュスティ、、、ラナ・エテサミ(劇団員、エマッドの妻)
ババク・カリミ、、、ババク(エテサミ夫妻の友人、劇団員)
ファリド・サッジャディホセイニ、、、男(ラナを襲ったとされる)
ミナ・サダティ、、、サナム


如何にも市井の人々の日常感覚を描写しているというディテールと空気感のある稠密な映像であった。
しかし、全く読めないアラビア語や都市計画はどうなっているのかと思わせる唐突な人の住むマンション隣での倒壊工事などは新鮮な出だしでのっけから期待値を上げてくれる。
日常の中の非日常から始まるがこれが鍵でもある。
そして久々に重厚な(重層的な)リアリティ溢れる「映画」を観たという感覚に浸った。

タラネ・アリドゥスティは、ドナルド・トランプが発令したイスラム国家7ヵ国入国制限に抗議し、アカデミー賞授賞式へのボイコットを(トランプ流に)Twitterで表明した女優だ。なかなかやるなと思ったものだ。
映画でも意思は強いが深い思いを抱いた女性を好演している。
シャハブ・ホセイニは、その立場となった夫の生き様を少し武骨だが迫真の演技で描く。

「セールスマンの死」(アーサー・ミラー)の劇中劇(その練習風景と舞台裏も含み)と実際の彼らの生活がパラレルに展開する上手く計算された脚本だ。
主人公の夫妻は、劇団員でその舞台劇の主要演者であるとともに、夫は高校の国語教師であり、妻は劇団看板女優を務める。
相互浸透しながらに進むどちらの空間もお互いの感情・意思のズレてゆく様を微細に描き進み、その先に救いはない。


イランの人々の生活や老若男女の姿がわれわれとほとんど同じであることに少し拍子抜けはした。
舞台の都市が、テヘランであるからか。
もっと伝統的な習慣・因習など描かれてもよいと感じた。特に宗教的な、、、。
若者たちなど、アメリカや日本などよりは幾分か純朴で素直な気はしたが。

事件は本当に何気ない無意識的な行為~生活の隙に唐突に発生する非日常性とも謂える。
だから事件なのだが(トートロジックであるか、しかしつくづく)そういうものだと思う。
彼らが新たに借りたアパートの前の住人が娼婦であったことが、事件を呼び込むきっかけとなった。
二人は前の住人のことなど何も知らされていない。

夫の留守中に妻が浴室で何者かに襲われ重傷を受ける。幸い命には別状なくすぐに退院はした。
妻はドアベルを夫と勘違いして相手を確認せずに何気なく開けてしまったのだ。
そして、その時を境に、二人の日頃の些細なズレが大きな裂け目となり、その溝は拡がり深まってゆく。
平穏無事な時には露呈しないズレの連動が悲惨な場を(不可避的に)引き寄せてしまう。

妻にとっては、それはあくまでも精神的な傷であり、周囲には知られたくない(警察沙汰にはしたくない)事件であり、ひたすらその傷の癒しを求めようとする。
夫にとっては、あまりに不透明な(不信な)犯行と犯人への憎しみ(さらに自身のプライド)からも、真相を暴き白黒つけることに拘り続ける。
(近所の人間が倒れていた妻を発見したことから、すでに噂話は世間では勝手に広がっていてそれにも苛立つ)。

どちらもその立場から、理解できる心情だ。
かえって分かり過ぎる点が、こうした問題の普遍性を思い知るところか。
少なくとも現代の都市社会において、何処の国でもいつでも起こり得る光景なのだ。
ただ、「事件」が(恐らく些細な出来事であったとしても)起きることで、尋常でない後戻りの効かない事態に行き着く可能性が誰の身にも待ち受けていることの恐ろしさをここに実感する。


主人公の夫は、自らの手で手がかりを頼りに犯人を探り出す。
そして厳しく問い詰め、罪を贖いさせようとするのだが、、、。
善と悪~罪と罰、などでスッキリ仕切れるほど、世界は単純で浅はかなものではなかった。
(これは警察沙汰にしても変わらない事だ)。

妻と夫のその犯人に対する意志・心情は最後には大きく割れてしまった。
呼び出した病弱な初老の男をもう許し家に戻そうとする妻に対し夫は断固として決着を付けようとする。
その男は前の住人の家だと勘違いし浴室に入ってしまったことは確かなようであったが、そこで何があったかは未だに判然とはしない。何があったか、実際のことは有耶無耶なままなのだ。妻も口を固く閉ざす。夫の苛立ちはそこからも来ている。妻はその事件そのものをなかったことにしたいのだ。そして事件そのものがあったのかどうか、、、。男はどの時点でどれだけの金を置いていったのか、若しくは金など置かなかったのか、、、。夫の考える事件そのものの輪郭があやふやに崩れそうになって行き、夫は更に激高する。

ともかく、何かが起きたことだけは確かなのだ。
だが、それが何であったのか?
何であったのか?
男も何があったのか、誤魔化しではなく、次第にはっきりしなくなってゆく、、、。
(多くの波打つ関係の総体として今‐現存在がある)。
だがそれに(自分の納得出来る内容~因果で)形をはっきりともたせたい夫がいる。

犯人は娘の婚姻を間近に控えた身であったが、夫にとってはもうすでにいい加減な手打ちでは済まなくなっており、引っ込みもつかない。
彼は男の家族全員に今回のことを全て知らせると告げる。夫の考える物語を。
その直後から男の病状(持病)がストレスによって悪化する。
娘と婿、そしてやはり心臓の悪い老いた妻も駆け付け救急車を呼ぶが、階段に倒れたその男の意識は戻らない。
その「事件」そのものを宙吊りにする事態に及んで、夫も妻の気持ちに最終的に沿う形で決着~妥協を図るも、悲惨な結末に物語は収束する。

彼ら夫婦がその後の日常において、お互いの間に生まれた距離を埋めることが出来るのかは、舞台の支度中の彼らのエンディングにとる顔~表情から察しが付く。


ではどうすればよかったのか、、、答えなど、あろうはずもない。

THE SALESMAN002

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エイリアン: コヴェナント

AlienCovenant001.jpg

AlienCovenant
2017年
アメリカ
リドリー・スコット 監督

マイケル・ファスベンダー、、、デヴィッド(プロメテウス号の管理者)/ウォルター(コヴェナント号の管理者)
キャサリン・ウォーターストン、、、ダニエルズ(テラフォーミングの専門家)

「ラインの黄金」:ヴァルハラ城への神々の入場(ワーグナー) これは最初と最後に流される。


「プロメテウス」は大分以前に観ている。
自分の書いたものを読みかえし、大まかな流れは思い出す。
この「エイリアン: コヴェナント」は、「エイリアン」前日譚「プロメテウス」の続編に当たる。
制作年月は離れていてもあまりに両者は緊密な関わりを持っている為、先に「プロメテウス」を観た後にこれを観ないと恐らくほとんど内容は掴めないはず。

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リドリー・スコットは「ブレードランナー」のときからずっと、レプリカント~アンドロイドの存在を通して、人の実存を逆照射して来た。製作総指揮にまわった「ブレードランナー2049」ではそれが極めて色濃く反映されているが、今作(「プロメテウス」とともに)では「人は何処から来たのか」~その古くからの問い~神学的問いをあからさまに提示している。
そして事もあろうに何とそれを具体的に明かしてしまった。
「2001年宇宙の旅」もそうであったが。(そちらは多分に隠喩的表現であった)。
もうこれでは元も子もない。
神も仏もない。文字通り。

しかし、つくづく思い知るのが、西洋人の一神教支配の精神的根深さだ。
こういう問いを追求した作品が日本人から生まれるだろうか?
わたしはその根底における同調が出来ないため、物語の稠密さその神学的な雰囲気に呑まれるばかりで、テーマそのものからちょっと距離を感じつつもアイロニカルな衝撃的(絶望的)な結末にニンマリしてしまった。まだ続くのだという、、、。
エイリアン自体の恐怖もあるが、感染に対する恐怖にも充ちている。そしてアンドロイドの恐ろしさに。


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しかし宇宙探索をしているうちに、人類を作った存在に行き当ってしまえば、彼に話を聴きたくなるのは人情である。
神には関心ないわたしだって顔くらい拝んでみたい。
まずはショー博士(プロメテウス)は強い疑問(異議)を発する。
「何のために地球に行ったのか」
「なぜ、人間を見捨てたのか」「何故、滅ぼそうとするのか」「一体何が悪かったの?」である。
さらに宇宙船オーナーからは「人類を作ったのなら救う事が出来るはずだ」
「このわたしを死から救ってくれ、、、」、、、このごうくつばりめが!
~「プロメテウス」の世界である。

そして「エイリアン: コヴェナント」では、デヴィッドが造物主となっていたことが分かる。
デヴィッドの罠にはまり、コヴェナント号は予定の惑星「オリガエ6」の遥か手前の星(これこそプロメテウス号の11年前に着陸した地)に引寄せられたのだ。

人にとっての神は見えない~信仰の対象でしかないが、アンドロイドの創造者はいつも間近にいる。
(その上、自分と比べてみて、大したこともない連中ばかりだ)。
そして人間は死ぬがわたしは死なない(つまり誕生だけで死は神には握られていない)。
やはり、デヴィッドにとってみれば、自分の作者なんぞに特別な観念(感情?)など抱きようもない(優越性がある)。
「誰もが親の死を望みます」と臆面もなく言い放つ。人に素直に仕える気などない男だ。
(この型のアンドロイド以降、もっと単純な思考経路のモノに変更されたというが、確かにウォルターの方が安全だ)。
創造性をもつことの危険性である。

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結局、彼は究極の生物を作り上げ、自らが造物主となる。
自分にも作れることを証明したかったのか。
(「何故人間はわたしを作ったのですか?」に対し、「作れたから」と博士は答えていた(プロメテウス))。
そして究極の生物は作られた。アンドロイドの手によって。
彼によって(恩人のような)ショー博士も実験の犠牲にされていたことが分かる。
デヴィッドの、完全に親を越えたという自負心に充ちた冷酷な顔~表情。
そして植民船の胎芽の貯蔵庫にその超生物の胎芽も彼によって並べられる。
(2千人の入植者も眠っているが。そして船員は15人中2人しか生き残っていない)。
ダニエルズ博士が最後に冷凍休眠に入る直前に(彼がウォルターではなくデヴィッドであることに)気付くが時すでに遅し。
これが前日譚か。
そしてエイリアン~究極生物が増殖・拡散してゆく。

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デヴィッドの創造した生物が次々に人間を容赦なく殺戮してゆく。
勿論、自らが人類を完全に凌駕するため。

この作品は、続編は必ず作られるはずだ。
コヴェナント号は当初の予定通り入植地オリガエ6に向かう。
もう恐らく、エイリアンがどうのというより、タルコフスキーの神学的問いに答えるかのような作品になるしかあるまい。
肝心のエイリアンが出てくるかどうかが心配だ。

「ブレードランナー2049」の続編も「エイリアン: コヴェナント」の続編も人類の劣勢から始まるしかない。


サマーウォーズ

SUMMER WARS

SUMMER WARS
2009年

細田守 監督
奥寺佐渡子 脚本
山下達郎 『僕らの夏の夢』主題歌

(声:
神木隆之介、、、小磯 健二 (高校2年生、数学が得意)
桜庭ななみ、、、篠原 夏希 (高校3年生、マドンナ的存在)


「サマーウォーズ」の感想をほったらかしていたことに気付いた。
これまでに観た細田監督の作品、『時をかける少女』『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』は、どれもが深く印象に残る傑作であった。
特に場所~取り巻く環界に魅了される。
『バケモノの子』で「渋谷」に重なって活気に溢れる「渋天街」が開けているのにはニンマリしたが、他の映画もそうである。
場所が記憶に残っている。

この『サマーウォーズ』の舞台は篠原 夏希のおばあちゃんの家~本家で、これまた大変様々な人のいる賑やかな場所である。
格式は高く先祖に拘る家柄~陣内家ではあるが、村社会的な押し付けや堅苦しさは然程感じられない。
大きなテーブルを囲んでの、和やかな食事場面が印象的である。
メンバーもそれぞれ頼りがいのある面白い個性の集りである。
牧歌的な環境を拠点に「仮想空間OZ」上でのゲーム対戦を夏希を中心に家族で力を合わせ繰り広げる。
とても楽しくも毒のあるポップでアーティフィシャルな仮想空間で皆の気持ちと頭脳が思い切り弾ける。
その決戦ゲームが「花札」なのだ。
「花札」を知らないわたしは、世界中の支援者のひとりといった立場か。
(これがもしチェスや将棋・囲碁であれば、これまでの膨大な蓄積データから、どんな人間が挑んでも勝ち目はないだろうが、「花札」というのは、うまいチョイスであった)。
「あなたのアバター~アカウントを貸してください」と謂われて世界中の人たちが篠原 夏希を応援する。
その数は膨大なものとなってゆく、、、。
陣内家とIT空間と宇宙・地球(諸外国)が端末上でシームレスに繋がる。
スケールはともかく、わたしの場所にもそっくりでもある。

SUMMER WARS002

「仮想空間OZ」とは、ウェブ上で世界中の人々が、「ショッピングやゲームだけでなく、納税や行政手続きなどの様々なサービス」が利用できる身近な日常空間であり、セキュリティも極めて高く安全に管理されていた。
そのシステムの保守点検のバイトに就ていたのが、(もうひとりの)主人公、小磯 健二である。
数学が趣味で得意でもある、高校生で夏希の一年下の後輩である。
ちなみに夏希は学園のマドンナ的存在の人気者。誰もが憧れる存在である。
ひょんなことから、 健二は夏希に頼まれたバイトで、彼女の田舎に一緒に出向き彼氏として紹介され、おばあちゃんを安心させるという役を引き受ける。ここはまさに萌え系少女漫画世界の導入だ。ちなみに、おばあちゃん90歳の誕生パーティへの出席となる。

そんな折、OZ空間に「ラブマシーン」というAIが侵入し、OZが乗っ取られてしまう。
丁度、健二が陣内家に泊まる晩に彼の携帯に数字の羅列が送られてきて、その得意分野の問題を解いて送り返す。
彼はそれを何かのクイズだと思っていたのだが、実はその答えがOZ空間の管理権限のコードであった。
乗っ取ったAIの暴走の影響で世界中のインフラが大混乱に陥る。
人々の生活が脅かされる深刻な事態を呼んだのだ(彼の他にも十数名が問題を解いていたそうだが)。

SUMMER WARS003
晩年にこんな境地になっていれたら、それは素敵であるが、、、。

陣内家のおばあちゃんは、政治経済界の実力者と懇意であり、そのパイプを生かして電話を通し大混乱を鎮める舵取り(陣頭指揮)をする。
あり得ないスーパー指導者だ。しかし実際の効力が現れて来た矢先に突然亡くなってしまう。
後を託された陣内家の面々が夏希を中心にまとまり、それぞれの専門分野の力を集結して、AIとの頭脳戦が開始される。ここで数学の得意な健二が大きな活躍の場を与えられ、「キングカズマ」という格闘ゲームチャンピオンのアバターを持つ夏希の又従兄弟の佳主馬とタッグを組み激しい攻防を見せる。
これによってビジュアル的にド派手でコミカルな戦闘がIT空間上で繰り広げられてゆく。
無数のアバターを取り込み巨大化する悪魔的姿の敵など、まるでプリキュアの闘いを見ているような気にもさせられる。
これまでのアニメの戦闘場面の様々な要素が散りばめられたかのごとく華やかで多彩なバトル光景だ。

しかし話は実際、尋常ではない危機を迎える。巨大な力を得たラブマシーンは、小惑星探査機・「あらわし」を世界に散らばる核施設の何処かに落とす計略を練っていることが判明する。その阻止の為、夏希は決死の花札勝負に出る!
これは何というか陣内家の家芸(家学というのは聞くが)のようなものらしい。
「花札」によるアカウントの奪い合いの勝負は、一時は劣勢になるも、世界中からの多くの支援アカウント(アバター参戦)により勢いをつけ、「こいこい」の声援の下、ついに夏希が「ラブマシーン」を打ち倒し、一件落着にみえた。これってかなり運による勝負なんだな、、、。

しかしその矢先、ラブマシーンは「あらわし」を陣内家に落下させる最後の仕返しに出た。
ここで、一進一退の攻防が続くが、鼻血と共に健二の計算能力が炸裂し、すんでのところで落下軌道を逸らすことに成功する。
陣内家は半壊しかなりのダメージを受けたが、邸敷地内の落下場所から源泉が噴き出しメデタシとなる。
おばあちゃんの葬儀が和やかに行われる中、、、
大活躍でみんなを救った健二は、夏希の方から愛を告白され、再び鼻血は吹き出るがお熱いカップルに。
一族からの祝福を受けてのエンドロール。

と、こう書くと他愛もないラブコメみたいであるが、これが実にこれでもかという程にスリリングでカラフルで面白いのだ。
つまりCG~絵の勝利でもある。それこそアニメーションならではの醍醐味と謂えよう。
しかもSNSなどを日々自らの身体性に繰り込んで生活しているわれわれにとって、ほぼ地続きの噺~環界でもある。
アニメならもっとリアルだが、、、。

SUMMER WARS004


やはり日本は、アニメーションがいける。


東京喰種トーキョーグール

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2017年
萩原健太郎 監督
石田スイ 原作(コミック)

窪田正孝、、、カネキ(人間の大学生であったが「半喰種」となる)
清水富美加、、、トーカ(喰種、普段は女子高生で喫茶店店員)
蒼井優、、、リゼ(大食い喰種、重傷のカネキへの臓器移植に使われる)
鈴木伸之、、、亜門(喰種対策局捜査官)
大泉洋、、、真戸(ベテラン喰種対策局捜査官)
村井國夫、、、芳村(「あんていく」喰種店長)
桜田ひより、、、笛口雛実(リョーコの娘、文学好き)
相田翔子、、、笛口リョーコ(雛実の母、夫を喰種対策局に殺害されている)


コミック(原作)は見ていない。
何か「寄生獣」に似た感じであるが、向こうの方が遥かによく出来ていた(ちなみに向こうは原作も見た。映画共々秀逸であった)。

直ぐに大きな違和感を抱いたのだが、知性と感情を人と同様に持った生命体と何故人類は共存が図れないのか、、、?
(人類、、、まさか日本だけの現象ではないな、、、しかし外国では、という場面はまるでなかった)。
だが相手は、謂わばカニバリズムの文化圏の外国人レベルではないか?
彼ら喰種が人肉しか食べられないのなら、すでにヒトゲノムの完全解析の済んで久しいこの時代、クローン生産して食料用に提供すれば済むことではないか。人体そのものでは気持ち悪ければ、その栄養素のみ完全にコピーして(食べ易く食感の工夫などして)サプリメント供給するとか。食糧問題だけで片付くことなのだから。
一体何のための政治であり科学であるのか?おまけに倫理(宗教)があるのか?
双方の代表による会議の場などで詰められなかったのか。
(彼らの多くがヒトを食べることに対し罪悪感を抱いていることからも、両者は対等の関係にある。何の特別な感情もなく捕食・管理しているのなら人と魚の関係に等しく、一方的な関係として完結するが)。

何故、これだけの大問題が喰種対策局などという一方的で殺戮的な単なる局レベルでの対応どまりなのか?
国民に一切秘密裡に地下解決を図っている極秘プロジェクトならともかく、テレビで普通に放送されて怪し気な喰種評論家まで出てニュースになっている日常茶飯の事案でもあるようだ。その割に人々が実に呑気で無関心な振舞いなのはどうしてなのか?
実際にあちこちで頻繁に殺害・捕食されているのに、世間の余裕がそもそも異様で間抜けである。
政府が事件被害者を行方不明者として一切国民に隠しているのならともかく、、、。
喰われていて、知っているのだ。その状況がどうやら政治・科学的に現実的に放置されているらしい。
そして特殊な局~お仲間で事件に対処している。その辺の前提がまずもって、判然としない。
これって一体どういう状況なのか、、、。

基本とても狭い特殊な範囲~空間において憎悪・復讐の連鎖で展開してゆく。
この特異領域における二項対立に、その間を(一方寄りだが)揺れ動く主人公という構図の物語。
原作を見れば、その辺のことが少しでも腑に落ちるように描かれているのか?


その前提状況を不問に付して、この枠内で観てみると、、、。
幸福の科学の清水富美加のキャラ、トーカがやたらカッコよい。

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この人は声優でもいけるし、かなりのポテンシャルをもっているなといつも感心する。
「人狼ゲーム ラヴァーズ」主演の古畑星夏も清水富美加の親友役でワンシーンだけ出てくるが、この人ももっと出てきてもらいたい人だ。強い個性を放たない透明感がよい。
何故か、終わり間際で佐々木希も出てくる。
どうせこのあたりの人を出すなら、もっと出番を多くしなさいよと言いたい。
あれ、もしかしてこの物語は続きがあるのか?
笛口雛実も終盤に力を開花したところだし、充分この次に繋げる要素が詰まっている。
そこで、またこの人々出てくるのか、、、それなら分からないでもない。
それから、リゼという洗練されたレディの蒼井優は大人になったなあ~と、感心する。

その蒼井優-リゼに人間である窪田正孝-カネキが今にも喰われそうになる絶体絶命のピンチに陥ったとき、明らかに何者かの仕業と受け取れる、鉄骨の束が彼らの上に落とされる。
カネキは重傷を負うが、襲ってきたリゼの臓器を提供されたことで命は救われた。
独断でこの手術を執刀した医者も怪しいし、何らかの企みの一環として行われたことを匂わせる。
結果、カネキ自身も人肉を食うことでしか生きられない「半喰種」と化してしまう。コーヒーも大丈夫ということだが、それ以外の食物は口にすると吐いてしまう。
(その後は人肉を喰わずに、何とか「あんていく」でコーヒーを飲むことで繋いでゆくが)。
以降、カネキは人間~喰種両者間において空腹も含め苦悩する立場となる。
時折、同化した喰種リゼの力~作用が大きくなってほぼ喰種そのものともなる。左目が赤い喰種の目となる。

人間側の代表として、大泉洋-真戸が何かに憑かれた人みたいな形相で登場する。見た目も怖い。
どんな役でも熟す人だ。
ここでは復讐に燃えた執念の捜査官だが、狂気がかなり入って行くところまで行ってしまっている。
鈴木伸之-亜門という熱血漢の肉体派捜査官も正義(人間の正義)のために敢然と喰種殺戮に情熱を燃やす。
真戸捜査官とタッグを組んでいる。

半面、喰種側は大人しく控え目な人が登場する。
出来れば人など喰いたくないが、喰わないと死んでしまうので、自殺者の死体などを食している。
普段は、水とコーヒーなら飲めるので、「あんていく」でブレンドを飲んでいる。
それが物静かで優しいお母さんと文学好きの娘だったりする。見た目は皆穏やかで普通の人にしか見えない。
ちなみにカネキも文学好きでその娘、笛口雛実ととても気が合う。
しかし栄養補給しないと生物は生きてゆけない。
これは困難な生き方~設定だと分かるし、こんな生活の破綻は時間の問題ではないか。
「安定区」は保てはしないだろう。
暴動やテロでどうにかなるわけではないし、村井國夫がアラファト議長にでもなるしかないか、、、。

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スリルやアクション・バトルは「寄生獣」というより「寄生獣 完結編」のバトルに近い。窪田正孝と鈴木伸之がかなりのバードアクションを頑張っている。
清水富美加もとてもシャープな切れ味を見せ素敵である。
大泉の捜査官はもうほとんどサイコな怪物状態であるが、二人のダークでヘビーな格闘風景は亜門対カネキに負けない絵になっている。
最後に内向的な笛口雛実の覚醒があり、モンスター捜査官は意外にも彼女に致命傷を与えられる。
この展開はなかなかよかった。
この映画やはり、清水vs大泉と窪田vs鈴木の決戦が一番の見せ所だ。
窪田~カネキは喰種側に付かざるを得ない立場である。
積極的に加担するというのではないが、(トーカと雛実の為にも)彼女らの生命を守らなければならない。

捜査官側の使う武器が今一つ、劇中では説明がなく、よく分からない。
得体の知れない面白い武器だ。
喰種の体から抽出したもので作っているのか。
また捜査官の人物描写やその背景説明もほとんどなく、彼らの仕事への執念の拠り所が掴めない。
原作アニメでは、はっきり分かるものなのか?
少なくとも映画では、中途半端だ。

「あんていく」に喰種の幹部?達に混じり、カネキも店員としてしっかりおさまっているが、その眼はもう赤くはない。
そしてやけに充実した確信を得たようなニンマリ顔なのだ。
外部から来た人なのに、彼らのメンバーとして認知されたことも分かる。
さて、これからどうするのか。


どうも物語の構造が、少女漫画の世界を想わせる。
閉じられたお友達空間の中でキャラを自在に動かして楽しむ特権的な場。
お友達が新たに入りました。これか。


これも、続編だろう、、、。


君の膵臓をたべたい

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2017年
同名のライトノベルが原作。
月川翔 監督
住野よる 原作

浜辺美波、、、山内桜良
北村匠海(高校時代)、小栗旬(現在、教師)、、、僕
大友花恋(高校時代)、北川景子(現在、花屋さん)、、、恭子(桜良の親友)


この映画を観る前にわたしは原作本を買っていた。
ライトノベル自体初めて買ったが、本棚のコーナーもかなり大きく場を占め、客層も違って浮いてしまう。
その膨大な冊数から、、、この分野の需要の高さは実感する。
主にそこ居合わせた中高生対象であろうが、彼らはまだ本を読むのか、、、というのも新鮮であった。
(いや読む人は読むはずだが)。

次女が、話題だからそのうち読みたいと言っていたので手元に置いておいたものだ。
(女子会でも話のネタにするつもりだったか)。
が、未だに読む気配はない。
暇なときはパソコンゲームに興じており、本の事はすでに忘れている感もある。
わたしも最初の方を読んでみたが、漢字の読みをいちいち訊ねられるのも厄介なため、余り家にあることを宣伝していない。
(それでは意味がないのだが)。

なんでも「キミスイ」と言って女子の間では(巷では)ひところ話題の種であったそうな。
もうブームは去ったのか?この系の更新速度はかなり速そうであるし。


その原作による映画実写版を観てみた。
ドラマタッチで、観易くリリカルな雰囲気もあるが、やはりどうにも距離感は覚える。
しかし主演の浜辺美波の圧倒的存在感と演技力(元々の資質からくるものか)で一気に乗せてしまう作品ではあった。
この女優は、小松菜奈と共にこれからの活躍・可能性が楽しみだ。
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まず前提として「思春期もの」である。
それ特有の(ある意味制度的)文体でライトに流されていることは否めない。
とは言え、間近に迫りくる「死」という絶対的な観念の下、生という関係性について不安と恐怖のなか、考えることを強いられた高校生の男女の健気な精一杯が描かれている。

山内桜良は余命一年を宣告された膵臓病の、謂わば薄命の美少女である。
しかしそのことは家族以外の誰にもひた隠し、学校では明るく朗らかに振舞う誰からも愛される人気者で通っていた。
それは死の恐怖に怯える気持ちと裏腹のものでもある。
そんな気持ちの共有など、特に親友の恭子とは考えられないヘビーなものであり、「共病文庫」を独り綴ることで完結しようとしていたのだが、病院の待合室に置き忘れたことで「僕」にその内容~不治の病を知られてしまう。
誰からも距離を置き、自分の時間を確保し読書に没頭していた他の人たちとはちがう身体性の「僕」に、彼女は半ば無理やりその後の自らの日常を託す。

その後は、「僕」は一方的に何かと関わって来る美少女に翻弄されっぱなしとなるが、重大で切迫した秘密の共有から彼女と時間を共に過ごすことが拒否できない事態に巻き込まれてゆく。この辺の展開はラブコメ少女コミック臭が立ち込め、かなりわたしにはキツイものだが。
そして「僕」は彼女に心を開くことで生きることの実感を徐々に瑞々しく深めてゆき、彼女への思いが深まる自分を知る。
彼女も自分にない強さを「僕」に認め、自分の選択の正しさを実感する。
「君がくれる日常がわたしにとっての宝物なんだ。」

「真実か、挑戦か」などのカード勝負でお互いに通常では聞けない思いを聴きとろうとする(関係を濃密にしようとする)ところなど如何にも高校生っぽく、一生懸命だがスケールは小さい。
学園空間モノに留まる(九州旅行をしたにせよ)。
だが存在~関係についての認識を僅かな持ち札で研ぎ澄ましてゆこうとする過程には、とても共感する。


その直向きに懸命に生きようとする彼女らの姿に、ライトだがしらじらしさやわざとらしさや安っぽさは感じられない。
しかしこの女優でなかったら、かなりコケていた可能性はある。
そうそう相手役の男子もそれなりに良い味を出していた。
主演キャストは良かった。

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君の膵臓を食べたい、、、表現では無くこの感覚に辿り着くまでの高まりはなかった。
これは相当な強度の愛がなければまず無理だろう。
「僕は君になれるだろうか?」という自問はあったが。

しかしそれが単なる親愛の情の表現レベルであったら趣味は悪い。
食べてくれた人の中で生き続けたい、、、しかしそれはある意味エイリアンに身体に入り込まれた不気味さと等しい。
桜良は、僕や親友に死後にいろいろと気付く仕掛けをしていたが、自分の死後も相手を拘束することが本意なのであろうか。
ちょっと余計なことに思える。

周囲の人間(遺族)にとっては、死は意識の上では、葬儀・お焼香において区切りをつけることになろう。
(「僕」もお焼香に行ってから、大泣きして区切りをつけている)。
そこで、「死者」としてその魂をこの世の生活空間~「此岸」から切断することが順当に思える。
またそれが如何に肝心なことかは、これまで葬儀の儀式のない文明は存在したことのない例からも分かる。
死者は忘れられなければならない。

しかし桜良の語る「自分の意思が全てを選択している」
このくだりの、偶然などないという関係の絶対性は、かの高名な哲学者の言説を思い起こす。
わたしはこの場面では泣けた。
そして相互補完的に桜良と「僕」がお互いの存在の重みを知る。
それがふたりの生をより豊かにしてゆく。
そう、いつ中断されるか分からぬ生を、今を、如何に豊かに生きるか、、、を噛みしめる。

それを現在、桜良の一言で教師となった僕の視点から振り返って行く。
実際、桜良は膵臓病により生が潰えたのではなく、通り魔に刺されて亡くなってしまう。
(この中断は皮肉であるが、われわれ存在の在り方として物語~寓意的には秀逸な設定であった)。


概ね肯定的に観ようとしてみてきたのだが、、、
桜良が綴って来た「共病文庫」は、当初から(友人でも恋人でもない僕たちふたりの共通の秘密であり)とても重要なアイテムで、物語の流れに潜在しつつ彼女の深い思いが死の直前まで書きつくされているはずのモノである。
そして彼女の死後、「僕」だけに読む(明かされる)ことの許された手記であって、そこからドラマチックで秘められた大きな展開がまた生み出されると思っていたのに、それがほとんどなく~とても小さく、図書室に埋もれた「星の王子様」の本に挟まれた手紙であのように大袈裟に締めくくられてゆくというのはどういうことか?
手紙の内容も全く大したものではない。いまさらなんだというレベルのモノだ。これが果たせなかったサクラを見に行こうという旅行の約束~「サクラの花の芽のサプライズ」に当たるというのか?余計なこじつけではないか?
かなり期待外れのコケる部分である。しかももっとも肝心なところではないか?
ここはストーリーの根幹に関わる大きな疑問箇所ではある。
他の部分には目をつぶるとして。

ミスチルは好きな方だが、この曲でエンディングはいただけない。
静かなオーケストラで終わりにしたい。岩井俊二ならベストチョイスするはず。

最後にクラス委員長であるが、終始可憐で穏やかな浜辺美波から、しつこいとあれほど毛嫌いされ拒絶されてしまっては、「僕」よりも立ち直りが困難であろうに、、、(南無~。
この映画でもっとも教訓的メッセージであったのは、「しつこいのは嫌われる」か!

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浜辺美波、恐るべし。小松菜奈と共にこれからの活躍・可能性が楽しみだってさっき書いた気がする。
どうか国外の映画界にもどんどん進出して行って欲しい。
(日本映画はどうもアニメ以外は今一つなのだ)。


レッドタートル ある島の物語

The Red Turtle
The Red Turtle
2016年
日本・フランス・ベルギー

マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット 監督・脚本・原作
高畑勲 アーティスティックプロデューサー
スタジオジブリ制作


昨日の映画にも謂えるが、人間性とか思想以前の「いのち」の水準で描かれた作品として受け取れた。
どこかNHKやBBCでよくやる動物の生態を長年丹念に追ったドキュメンタリーフィルムを観る思いもした。
そう、思いに溢れた生命を見守る目か。
その主人公は、人類一般を代表するようなとても禁欲的な、個性を抑えたキャラクターである。
アカウミガメの方がずっと鮮やかで際立ち、脇のカニたちの方がユーモアや愛嬌を備えている。
(カニが如何にもスタジオジブリである。まっくろくろすけみたいな存在だ)。


嵐で無人島に漂着し、そこから何とか脱出を試みるも、創る筏をことごとく壊されどうしても島から離れられない独りの男。
人間的なサバイバルドラマの範疇で暫く続くが、どうやらその妨害をしていたと目される(投げ込まれた水中で目が遭った)アカウミガメに海辺でしっかり出逢う。
男は逆上し、仕返しとばかりにカメの頭を棒でたたき、おまけに甲羅を裏返しにして放置し、陽に干してしまう(うちのカメなら数秒で飛び起きるが、ウミガメはひっくり返ったらそれでおしまいのようだ)。
しかしさすがに男はカメに申し訳なくなり、もう一遍ひっくり返そうとするも重くて動かせず、水をかけたり草で覆い直射日光を避ける措置はとってみるが、あえなくカメはそのまま死んでしまう。

しかし、その夜カメの甲羅には罅が入り、中には何と女性(人間)が横たわっているではないか!
ここから事態は一変する。
サバイバル・リアリズムから寓話の世界に唐突に接続した。
いや、これもより精妙なひとつのリアリズムと謂えるかも知れない。
カフカの「変身」にみるような(その意味で寓話的とは呼べる。が、それに拘る必要もない)。

女性は目覚め、自分の甲羅を海に打ち流して捨てる。
これを機に男も島を離れることを諦めた。

この映画にはセリフは一切ない。
だが(淡々とした情感と自然の)描写は饒舌である。
深く惹き込む静謐さが終始物語を支配する。
絵本で読んでも(観ても)充分に鑑賞に堪え得るものだろう。

やがて二人は恋に落ち、こどもも誕生し家族としての生活が島で営まれる。
簡単な道具と火は使われているが、極めて必要最低限のものにとどめた生活だ。
ここに至っても、絵~図形によるコミュニケーションはみられるが、音声言語はない。
であるから、名前というものも登場しない(通俗映画ならきっとすぐにこれが出る)。
自分の名を書いて知らせたり、相手の名を確認したり、自分の息子に名を付けたり、その書き言葉(音声言語は書き言葉を基本として成立する)を破棄している。そのため、(有機的に)分節化した発声や文法は生じない。
筏による帰還を断念した時点で、文化を破棄したのだ。
その水準の生活をきっと男は死守しようとしたのだ。
ただ相手の安否を確かめる叫び声は必要に迫られ発せられる。

実は暫く、この映像を男の孤立感と寂莫感から生まれた幻想(幻覚)として捉える気持ちになったり、女性(ウミガメであったとしても)と二人の間にできたこどもの3者の実在する空間における物語として味わうものか戸惑う(疑う)時間が続く。
つまりそのままの全体を受け容れることに躊躇する気持ちも残しつつの鑑賞となっていた。
(これは特に映画の作りにおいての問題ではない。こちらが視点を上手く固定できない点にある)。

だが、「いのち」~生命の出逢いという観点でとらえると、とても切なく尊く美しい光景に湛えられていることに気づく。
息子は、或る日幼い時に拾った、漂着した文明の欠片~瓶に再び出逢い興味を示し、二人の元を旅立って行く。
親友のウミガメたちに連れられて、、、。そう、もういつでも帰ろうと思えば帰れる状況ではあったのだ。
しかし、ふたりはずっと離れない。男は出逢いの時に既に覚悟していたのだ。
愛し合っているからである。

そして、この物語がそのままの(ありのままの)世界を描いたものであることが最後に明瞭に分かる。
海辺で白髪の男が息絶える。
傍らの女がとても慎ましく嘆き哀しみ、夫に添えた手がウミガメの手へと変わり、彼女は独り寂しく夜の海に帰って行く、、、。


この物語はいのち~生命の奇跡の邂逅(しかしだれの出逢いだってそうだ)をもっとも純粋な形で描写しようとしたものかも知れなかった。
(これは昨日の映画にも感じられたものだ)。

The Red Turtle002

この世界の片隅に

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In This Corner of the World
2016年
監督・脚本 片渕須直
原作 こうの史代
音楽 コトリンゴ


主人公のすずの声~喋り方がとてもよかった。
これまでにみたヒロインの中でもっとも親近感をもった。
意味(役柄)の上ではなくその身体性において。
実写よりも現実感を感じた。余りない体験である。
(もし実写でやるなら、有村架純であろうか?)
実写はやらない方がよいが、、、。


戦時中の市井のひとに焦点を当てた(そのひとの視点で描いた)映画は幾つか観ているが、そのなかでも特に生活の臨場感が響いた。
おっとりした絵の上手なすずの人柄。
買い物から始まる料理場面のきめ細やかな描写。
(わたしも毎日料理は作っている為、一番目がいった)。
すずを取り巻くひとたちの自然な息遣い。
様々な感情の活き活きした交錯。
ディテールまで稠密に描き込まれた日常~広島の光景。饒舌な自然の情景。
そこに交じって行くすずの奔放に踊る絵筆が美しい穏やかな(永遠の強度をもった)世界を生成する。

きっとこうなのだ。
どんな過酷な社会状況にあろうと、このような詩情が現実に溶け込み、、、
ではなく、彼女の心象風景の拡がりがこのような日常~表象を形作っていたのだと想える。
すぐ隣に、次の一瞬に、死が控えていても、禍々しい恐怖も不条理な悲劇も、同時にたまらなく愛おしく美しい絵でしかないのだ。

未来派の絵の幾つかを想い浮かべるが、それらのあくの強さはなく、印象派的な柔らかな光に充ちている。
それでいてすずの身体性を通して社会の過酷さ無情さ生きることの困難さは充分に語られてしまっている。
(呆気なく失う絵を描く右腕、、、)。
そのため、特有の緊張感が常に漂う。

そしてわたしの今いるこの世界に地続きに接続している感覚が強いのだ。
この点において、ポスト宮崎駿と評される映画(監督)らしいが、すでにそれを超える作品に成り得ていると思う。



コトリンゴの曲、ヴォーカル、ピアノも世界観の表現において秀逸であった。




聲の形

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2016年
監督  山田尚子
脚本 吉田玲子
原作 大今良時


基本的に観たまんまのアニメーション映画である。
随分、遅い時間に観始めてしまった為、要点のみ書くつもり。
終盤、かなり端折った展開でちょっと説明(尺)不足な感じは強いが(恐らく原作を見ているアニメファンからは文句も出ているのでは?わたしは知らぬが)共感できる作品ではあった。


音声によるコミュニケーションは、非常にベーシックなものだが、勿論不全なものである。
これは仕方ない。
制度的に表象と対応関係が結ばれているとはいえ、それは多義的であらざるを得ない。

サインではなくコミュニケーションなのだ。
関係とはそういうもの。
個別性(歴史)と内面を持つ社会的動物でもある人にとって不可避的にコミュニケーションはズレである。
その差異そのものが、個~他者であり不透明性~存在となる。

その音声言語が基本的に使えない相手とは、外人相手に等しいであろうか?
それが単に外人であれば、それ相応な対応があるだろう。
(東京オリンピックに向けての外人対応にみるように)。
しかし、それが障害による不全であれば、どうなるか?
共に日本人で言語自体は操れるのであるから、文字を紙に書いて伝え合えば取り敢えずの事は済むであろうが。

それが全く済まないのである。
ただのコミュニケーション(不全)の問題ではないからだ。
聴覚障害者に対する向かい方の問題が大きく覆いかぶさっている。
これは障害~病に付与される隠喩を介する場合とも異なり、一種異様な他者に対する生々しい感覚と、その当の対象が極めて内向化しており所謂コミュニケーションを切断し諂い笑いと共にすぐに謝罪しその場をすり抜けようとする態度にもよってくる。
聴覚障害者である硝子は自分がそこに入ることで、みんなが迷惑をするという想いに過剰に囚われてしまっている為、他者の不快感や攻撃をかわすための自己防衛本能と自己否定(罪悪感)の感情が綯交ぜとなり、そのような態度を身に付けてしまったようだ。
合唱コンの練習時などに特に際立つ、自分が普通に発声出来ないもどかしさ等からのネガティブな自己イメージからの内面化は、相当に深いものだと映る。

しかし、小学生(6年)においてその対象に対する周囲の対応関係の直截さと粗暴な過激さは程度を知らない。
特に主人公の将也は硝子に対する違和感をストレートに暴力~いじめで晴らす。
補聴器を立て続けに外して壊す。筆談用のノートへの落書きなども日常茶飯事となる。
植野という活発な女子も、硝子の虐められても怒りを発せず自らが相手に謝るその態度が許せない(癇に障る)。
確かにその姿勢では対称性の保持できる友人関係は創れない。
しかしそうなってしまった必然性~歴史があることへの思慮がない。
そもそも、他者に対する想像力が育ってはいないのだ(大人になっても全く無い馬鹿もいるが)。
その想像力は、加害者にも被害者にも同等に育まれていない。
お互いに余裕もないと謂えようか。
そんな状況がよく伝わって来る。

高校3年の現在、思いの外人は変わっていなかった。
それはそうだ。
人は変わらない、というのがわたしの実感としてもはっきりとある。
だから分かる人は最初から分かるが、分かり合えない者とは絶対的に分かり合えない。
これは確かだ。

ただ、主人公の将也だけは、小6のときの硝子虐めの全責任を独り押し付けられて、今度は周囲の虐めを一身に受ける立場となり、硝子の転校後ずっと罪悪感に圧し潰されながら孤独で孤立した生活を送って来た。
母親に借りた硝子の補聴器代をバイトで稼ぎ渡してから死のうと試みるが、その前に硝子に一言謝ってからにしようと思うところから、何と謂うかぎこちなくシビアでリアリティもある青春ラブストーリーに発展してゆく。
手話というコミュニケーション方法による伝達のちょっとした勢いから付き合いが始まる。
そう、この物語はそのコミュニケーションのズレがよく意識されている。

硝子の自殺を何とか阻止し自分が重傷を負って入院するが、学園復帰と共に、わだかまりは解けないままだが、友人が無事に帰って来た将也を温かく迎え容れ、周囲に対する親和性を感じつつ終わるのは定石であっても、エンディングはこうあって欲しい。

何か正しい解決や解消などあるわけもなく、ただ外界に対するイメージが少しでも心地よいものになること。
和解(理解)ではなくても受け容れる心の広がりが感じられること。
彼らがそのようなイメージに解放されつつある場が学園祭というのが何とも言えぬが、各校に散らばったかつてのクラスメイトの集合場所としては妥当であろう。

テーマからも、爽快ではないが、共感は出来る丁寧に作られたアニメーションであった。

始まりと終わりの物語へ

blue sky
4日間やらないでいたが、、、

BLOGやFacebook、Twitterをやっていると、ただひたすら流すという方向に乗るだけとなる。
このWeb上においては、ホストレス環境で、パッケージ化もない。
あるのはひたすら(毎日の)更新のみ。

しかも妙な(気色悪い)直接性にヒリツクこともある。
ひと同士の邂逅とは明らかに違う。
身体性がない。
抽象的でエンドレスな(しかも始まりもない)流れ。
その流れがどこまでも巨大で均一化して見えてくる。
しかもその背景が(こういったシステムの特性上からか)、不気味な背景が時折、意識される。

それはGoogleとかプリズムとかいうものではなく、(事実Googleはある意味すでに神格化されているが)何か無意識的な不安が立ち上がる感覚だ。
実体ではなく何かの転倒した意識~言葉からくるものであろうが。

所謂、本であればこんなことはない。
絵であっても音楽であっても映画であっても、、、
ファイナルカットはある。
「作品」であれば。
または、リアルな実生活上であるならば。



しかし、この始まりと終わりのない恐怖。
更に、こんなことを強いられる苦痛を生活~生そのものにも感じる今日この頃。



雪でLinkを作る

Link.jpg

何と謂うか、腰の痛い一日であった。
午前中に、雪が庭に溜まっているのでリンク(ゼルダ伝説主人公)でも作ろう?と何故か思い立ち胸像を作ってみた。
娘たちに見せたいという心理は強い。

シャベルがあるのだが、移植ごてでチビチビ綺麗な雪を選び、粘土の量を押し付けるようにはいかないがどうにか形にしてゆく。
雪は摘まみ難いし付けるのも容易ではない。
冷たいがでも素手でやる。スムーズに行かない細かい作業になるからだ。

そして何とか昼前に仕上がった。
出来た、ホッとしたというところで、昼食をとり始めると、母が散歩に出かけた。
(わたしはちょっと遅いお昼となっていた)。
休憩をゆっくりとり、彫像を娘たちに見せる前に写真に撮っておこうと外に出て、ショック!
それは見事に倒れて粉砕していたのだ(悲。
もう跡かたなく、粉々に、、、やはり、雪だ。


確かにある程度縦に長い造形ではあったが、そんなに短時間で簡単にバランスが保てなくなるようなものではない。
怪しいのは、言わずもがな、、、母親である。
散歩がてら買い物をして手荷物を持って帰宅していた。
袋で引っかけて倒すが気付かないというコテコテのコントのような光景が目に浮かぶ。
本人にそれとなく確認したが、きっと溶けて倒れたのだろうという。
キッパリ諦め、気持ちをリセットし午後にまた作ることにした。

しかし時間もない。娘も程なく帰って来る。
やめてただの雪だるまにしようかと思ったが、リンクの頭像にした。
やはり、リンクに拘る。
しかし改めて頭像にするならちょっとアレンジしたい。いや異化したい。
塑像と言えば、無心で作って仏像の雰囲気を纏わせたものにしたいのだ。
そしてしげしげ観させる(笑。

気持ちの安らぐものにしたいのだ。
やり直しの良い機会となる。
先のモノは単に似せて作ろうとしただけのモノだった。
とは言え、今度のモノがメッセージ性を含んだ(加えた)ものという訳ではない。
元のモノよりもメッセージ性を差し引いたモノにしようと思う。


結果、ちょっと仏像っぽい感じのリンクになったか。
リンクでも何でもないが、何かを思い起こさせて、リンクにも見えるという感じならよしとする。
写真は娘も入ってしまっているので割愛するが、それとなく見に来てくれた人もいた。
(知らないヒトとも話をした)。
明日一杯リンクの方は、持てばよいと思う。


ほぼ一日、寒い屋外で屈みこんで仕事をしていたため、腰が痛い。
入浴後の今もまだ違和感が残る。
良く寝よう。
一日中、雪だるま遊びに興じてしまったのだから仕方ないが。







プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

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