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魔女の宅急便 アニメ

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Kiki's Delivery Service
宮崎駿 監督・脚本
角野栄子 『魔女の宅急便』原作

荒井由実『ルージュの伝言』、『やさしさに包まれたなら』主題歌
久石譲 音楽 『風の丘』など、、、

キキ
ウルスラ(画家の少女)
ジジ(キキの飼う黒猫)
おソノさん(パン屋の女将)
トンボ(キキの友達の少年)
老婦人
バーサ(老女中)
マキ(デザイナー)

この『魔女の宅急便』アニメ版も内部リンクを張ろうとしたら無いのに気づき、焦ったもの。
ここで、一言書いておきたい(このパタンまだありそう。探して見る必要あり)。
「トトロ」に並ぶ傑作である。
本作も随分前に観ているのだが、、、魔女と謂ってもとても普通の世界が描かれていた印象が強い。

声優はプロの声優のようだ。安定していて身を入れて観ることが出来た。
キキとウルスラが同じ声優さんなのだ。やはり専門家は違う。
久石譲の曲も優しく馴染んでとても良い。
特に『風の丘』はうちの娘がよく弾いていた好きな曲のひとつ。
綺麗なだけでなく哀愁が溢れていて、この映画の世界観にとてもよく溶け込んでいる。


まず、この物語はかなりストイックなものだ。
13歳でキキは修行の為、家を出るというところから始まる。
まるでかつての徒弟制度やルネサンス期のレオナルドがベロッキオ工房に送られたのもこの年頃か、、、。
だが、どこかの街の魔法学校に入るとかではなく、住む街を探して自活しながら人生を学ぶみたいなのだ。
ちゃんと働いてお金も稼がないと食べてゆけないという下部構造もしっかり描かれる。
よくある子供向けアニメの、修行を重ね次々に新たな魔法を習得して、悪者に立ち向かうような抽象的な方向性はとらない。
ここでいう魔女というのは、どのような存在なのか。
もうすでに過去の存在になっている(極、希少な存在のようだ)。
キキの姿を目にし、バーサがまさにひいおばあちゃんから聞いた魔女そっくり、みたいなことを言っている。
街でもとても浮いた個性的な存在である。実際に街中を箒に乗って飛んでいるのだ。
しかし、人々はおやっと空を仰ぎ見るが、過剰に驚き恐れるような人はいない。強い好奇心を持つ人はトンボ独りであった。
そんな特にいてもいなくてもよいような存在である。

日常的にも見る、自分とは明らかに違う人種を、優しく無関心に受け容れる状況に似ているが、、、。
宅急便の仕事を考え、始めるとそれなりの需要者が付き、街の人との関係も現実的に出来てゆく。
やりがいを感じ充実感を味わうばかりでなく、とても虚しく落胆に沈み急な豪雨に逢って風邪をひいてしまったりもする。
確かにこうして人は(誰のものでもない)自分の生きた経験を糧に成長してゆくのだ。
ただ現実にありそうな差別や謂れのない暴力などは起きない適度な無関心さに救われているように思う。
彼女が選んだ街は、特に豊かかどうかは知らぬが殺伐とした感じがない良い街であった。
所謂、普通の学校にはそのうち故郷に帰ってから戻るのか、その辺は知らないが、、、。
これは教科学習では賄えぬとても素敵な学びの場になっていると感じる。

特にシャガール風の絵を描く少女ウルスラとの邂逅は貴重なものだ。
ウルスラは魔女ではないが、キキと同様に若いが求道者である。
キキが飛べなくなった悩みを相談すると彼女も描けない時の苦しみを語る。
その苦境をどう乗り切ったかも話してくれるちょっと先を行く親友だ。
こういう得難い友を得ただけでもこの街(の森)に来た甲斐はある。
かなりのピンチでの偶然の大きな贈り物でもあった。
映画の中でこのパタンが幾つもあり、実際チャンスはそういう場で掴むものであろう。


キキを御贔屓の老婦人もおソノさん同様キキの精神的支えとして心強い存在だ。
そして前向きで上向きなトンボ少年である。
やはり同年代の異性はとても大切な存在である。
空を自由に飛び回れるキキを素直に尊敬しているところも良い。
良い話し相手になるに違いない。

最後にこのトンボ少年の危機をキキがとっても危なっかしくもドラマチックに救ったところで、二人の関係もとても自然になったが、その情景をその場やTVを通して観た多くの街の人々がキキに好感を抱いたのも間違いない。
これから商売も繁盛するだろうし、トンボとの将来や、ウルスラとも更に創造的に、、、など明るい未来に続く感覚で終わる。
黒猫ジジとは、この先どうなるんだろう、、、とちょっと思ったが。
絵と音楽が違和感なく融合して、この絶妙な世界を彩っていた。

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どこにも破れ目や不自然さのないとても静かな説得力に充ちた作品であった。
実際に箒に乗って低空飛行しているような感じで自分も暮らしていることは確かで、そういった面からも親近感を抱く映画である。







シェルブールの雨傘

Les Parapluies de Cherbourg001

Les Parapluies de Cherbourg
1964年
フランス

ジャック・ドゥミ監督・脚本
ミシェル・ルグラン音楽

カトリーヌ・ドヌーヴ 、、ジュヌヴィエーヴ・エムリ
ニーノ・カステルヌオーヴォ 、、、ギィ・フーシェ
マルク・ミシェル 、、、ローラン・カサール
エレン・ファルナー 、、、マドレーヌ
アンヌ・ヴェルノン 、、、エムリ夫人
ミレーユ・ペレー 、、、エリーズ(ギィの叔母)


真昼の用心棒」の時、「シェルブールの雨傘」に内部リンクを張ろうとしたら記事がないのに気付き、焦る。
もう随分前に観て大感動したもので、感想だけは書いておきたい。
なお、「ロシュフォールの恋人たち」(1967)と同じくジャック・ドゥミ監督・脚本でもある。
こちらの映画では、カトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアックという史上最強姉妹が主演と来ている。
音楽もミシェル・ルグランで素晴らしいものであったが、形式的には通常のミュージカル映画となっていた。


第一部 旅立ち 1957年11月
第二部 不在 1958年1月
第三部 帰還 1959年3月
エピローグ 1963年12月
で構成され、音楽のみで地のセリフの無い唯一無二の形式を誇る藝術作品である。

その実験的(革命的)試みが完璧に成功している。
”I Will Wait For You”が鳴るたびにきまって号泣だ。
もうこれは仕方ない。
恋愛ドラマをこのレベルまで持って行った映画を他に知らない。
音楽の力は勿論だが、まだ瑞々しいカトリーヌ・ドヌーヴとニーノ・カステルヌオーヴォも素晴らしい。
更にマルク・ミシェルの紳士振りも言う事なし。
歌は全てプロの吹き替えだが、当然だろう。
でなければ、この完成度は不可能だ。
(敢えて謂えば、エムリ夫人が少しばかり煩すぎ)。

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しきりにお母さんが、あなたはまだ若すぎるからと言って、結婚を思いとどまらせるが、確かに17歳では早い。
だがそう言われている彼女が、大人の顔立ちである為、どうも感性的に謂って子供には見えない。
この時カトリーヌ・ドヌーヴは21歳で、そんなに歳の離れた役ではないが、若過ぎるに説得力が感じられなかった。
乃木坂のいくちゃんが21になったそうだが、彼女なら17は楽勝である。違和感なし。
(ミュージカルにつられてこちらに流れてしまった。勿論ファンという事もあるが(笑)。

戦争で恋人ギィ・フーシェ不在中に宝石商ローラン・カサールから結婚を申し込まれたジュヌヴィエーヴであるが、彼女は大いに悩む。
ギィ・フーシェと将来の展望はないにせよ、愛し合っており、彼の帰還をひたすら待っているのだが、その間手紙もろくに来ない。
写真を見なければギィの顔も思い出せなくなってきた焦りもある。
母はギィとの結婚には一貫して反対で、裕福なカサールとの結婚を望んでいる。
しかし、ここに大きな問題が立ち塞がっていた。
すでにジュヌヴィエーヴはギィとの子供を宿していたのだ。
女の子なら”フランソワーズ”と彼と一緒に名まで決めた子だ。

そこで、彼女はもし妊娠している自分を受け容れてくれないなら、カサールに然程の誠意はない。
でも、そんな自分を受け止めてくれるというなら、それを断るなんて誠意を裏切ることになる、、、。
こういった理屈に走った悩み方は、もうすでに彼女の中でギィより宝石キラキラ紳士のカサールに傾いていることが窺える。
予想通りすんなり彼はお腹もプックリなジュヌヴィエーヴを受け容れ、一緒にその子を育てようと言ってくれた。
もう結婚しかない。大きな宝石の指輪である。

絵としては、カトリーヌ・ドヌーヴの美しさは圧倒的である。
ウエディングドレスを着たマネキンたちの中に彼女がベールを纏って混ざって立っているところは、シュルレアリスティカルな美でありハッとさせられた。
こういった美しい演出も盛り込まれたところが素晴らしい。

二部の最後のところで、ギィの叔母の世話をしていたマドレーヌがこの結婚をしかと見届けていることをわれわれに知らせている。

三部で、ギィは脚に怪我を追って帰還するが、彼女らの「シェルブールの雨傘店」は人手に渡っていた。
ことの次第を知って自暴自棄になるギィ。
酒と娼婦にうつつをぬかし、朝帰りするとマドレーヌから昨夜叔母が亡くなったと聞かされる。
彼女は行く当てはないが、そのアパートに留まる理由もない為、出てゆこうとするが、ギィに一緒に住もうと懇願され留まることにする。
そして叔母の遺産もあり、以前からの夢でもあった白い事務所付のガソリンスタンドを作り、その前向きなギィの姿にマドレーヌも心を開き彼のプロポーズを受け容れ結婚する。
この辺の流れは余りに予想がつき易いが、もうこれ以外の展開はあり得ない。

Les Parapluies de Cherbourg002

そして当然、予定通りの邂逅による最後の結びとなろう。
息を呑む切なさである。
クリスマスの夜。雪積もるさなか、結婚後初めて里帰りしてやって来たジュヌヴィエーヴ。
丁度、ギィが独りになったばかりのタイミングに彼女が偶然車で入って来た。
給油の間、白い事務所でほんの一時、ぎこちなく語り合う。
お互いの幸せを、ことばで虚しく確認する、、、。
ギィは車の助手席に見つけた女の子の名前を聞く。
「フランソワーズよ、、、あなたにとても似ている、、、」
「もう、行った方がいい」
彼女が車で出てゆくのと入れ違いにマドレーヌと幼い息子のフランソワが戻って来る。
カメラが急速に引いてゆく箱庭のような光景の中に、ギィが息子相手に雪遊びをする姿とそれを見守る妻がいるが、すでにギィの表情は掴めない。

”I Will Wait For You”のもっとも哀しいアレンジが鳴り響く、、、。



メアリと魔女の花

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Mary and The Witch's Flower
2017年

米林宏昌 監督・脚本
メアリー・スチュアート原作『The Little Broomstick』

声:
杉咲花 、、、メアリ・スミス(11歳、赤毛、青い瞳、そばかす少女)
神木隆之介 、、、ピーター(12歳、赤い館村で新聞配達する少年)
天海祐希 、、、マダム・マンブルチューク(エンドア大学の校長)
小日向文世 、、、ドクター・デイ(エンドア大学の魔法科学者)
満島ひかり 、、、赤毛の魔女(エンドア大学の昔の生徒)
佐藤二朗 、、、フラナガン(エンドア大学にある箒小屋の番人)
遠藤憲一 、、、ゼベディ(赤い館の庭師)
渡辺えり 、、、バンクス(赤い館に勤める家政婦)
大竹しのぶ 、、、シャーロット(赤い館の主人で、メアリの大叔母)


TVで観た。CM入りまくりのカットもある映画であった為、それを差し引いてみる。
カットされてよいはずはない。ほんの僅かな風景の描写であっても重要な役目をもつ。
だが、それでもその映画の良さは分かる範囲で確認~鑑賞は出来ると思う。

米林宏昌監督と言えば、「借りぐらしのアリエッティ」、「思い出のマーニー」であり、両方ともとても好きな作品だ。
それで、観てみた。
何と謂うか、、、前二作は監督が思うように作った、ジブリブランドを意識しない作品ではなかったか、、、
とても繊細で文学的で素敵な世界観に浸れたものだ。
しかし、この作品はどうだ、、、。
今になってジブリ意識し過ぎなのか、どうなのか、この監督ならではの作風というものを感じない。
忌野清志郎ではないが、「♪~どうしたんだ~♪」と聞きたくなる。

作品を製作する環境は、とても重要なものなのだと思う。
彼はスタジオジブリのスタッフに支えられた上で自分の世界を表現することが上手く出来ていたのかも知れない。
新しく立ち上げた「スタジオポノック」というのもジブリで働いていた人が多数を占めるそうだが、やはり違うのだろう。
この過剰にジブリ色の強い演出と軸となる流れは、原子力エネルギーやクローン技術などを象徴しているかに想える、どうしても制御出来ないヒトの文明の方向性に対する危惧であろうか、、、。


しかし、あまりこの監督の持ち出すテーマとは思えないが、、、
もっと私小説的な個としての存在を問うテーマが真骨頂にも思えるのだが。

今回はやたらとキャラが空を飛び回るのだが、空滑りをしているだけの印象である。
しかも「魔女」である。
これはやらない方がよかった。
だって、あの傑作「魔女の宅急便」があるではないか。この時点で圧倒的に分が悪い。
勿論、強力な基本コンセプトが暖められており、独自表現が用意されているのなら、それで行くべきだが。
実際のところ、それ程はっきりしたコンセプトを詰めておらず、表面的な繋ぎ合わせとこれまでの経験で作ってしまった感がある。
自分の作るべきものではない何かを、プロジューサーか誰かに強いられたのか、、、その辺の経緯は知らないし、探る気もない。
やるのは、自分である。

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わたしは、魔法大学の校長が水の中から現れた時、思わず「うっへ~」と唸ってしまった。
余りに、これまでのジブリ作品のピースをあからさまに使い過ぎてはいないか。
これをやるには、余程基本構造がしっかりしていないと、ただのつぎはぎになってしまうだろう。
結果的に、なってしまった。

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全てのキャラが弱い。
出て来る動物たちも、不自然。
猫は中では、頑張っていた方だが、、、。
ヒロインのキャラに高潔な魅力があまり感じられない。(ジブリにはその魅力がある)。
その為、ストーリーがとても単純で大雑把になってしまった。
共感を覚えるところが少ない。
わたしとしては、メアリが大学に招かれ、校長に褒めちぎられて気をよくしてゆくところなどは、よく分かるし面白かったが。
その程度の少女が一晩ほど魔法が使え、その力で自分のせいで捕らえられている生意気な男の子を助けに行くという、ほとんどどうでもよいような話である。大袈裟な感じで動き回るが登場人物もごく少なく少女を軸にした世界観は小さい。
男の子と一緒に戻ろうという幼い動機のレベルである。
噺全体(校長~魔法科学者)からみても上記の思想的観点があったとしても脚本・演出が粗雑に思える。

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「夜間飛行」が7年に一度咲く花と言っていたが、7年後にはまた反復する話なのか、、、もうその花が存在することは知れている。
7年後の想定の続編を今度は満を持して作っても良いかと、、、渾身の力を込めて。

でもこの作品の続編ときたら、見ようとはしないだろうな、、、。
だが、米林宏昌監督の次回作には期待したい。

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真昼の用心棒

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Massacre Time/Le colt cantarono la morte e fu... tempo di massacre
1966年
イタリア

ルチオ・フルチ監督
フェルナンド・ディ・レオ脚本

フランコ・ネロ 、、、トム・コーベット
ジュゼッペ・アドバッティ 、、、ジェフ・コーベット(トムの義兄)
ニーノ・カステルヌオーヴォ 、、、スコット・ジュニア(トムの実弟)
ジョン・マクダグラス 、、、スコット(悪党の資産家、トムの実の父)
リナ・フランチェッティ 、、、メルセデス(コーベット家の伯母)
チャン・ユー 、、、葬儀屋
ジョン・バーサ 、、、キャラダイン


フランコ・ネロというマカロニガンマンのスターを観ておきたいので、これを今回のシリーズ?の取り敢えずの最後にしたい。
実際に観てみると、一番面白かった。
フランコ・ネロはクリント・イーストウッドをさらに渋くした感じか。彼もやや詰めは甘いが。
ヴァイオレンスシーンがかなりあるハードなタッチで物語の見応えはあった。
どうやらマカロニウエスタン(西部劇もそうか?)は、悪党の資産家が街全体を制圧してしまい、保安官から銀行家などその全てを手中に収め、皆が搾取され疲弊しているところを、孤高のガンマンが立ち上がり街を解放するという構図が基本となるようだ。
当然、その悪党はしたい放題で多くの人を無慈悲に殺している為、復讐劇も絡む。さらにここでは、愛に飢えた狂気の執念みたいなのも絡み、女、子供も平気で惨殺される。鞭でこてんぱに打ちのめしたり、、、酒を浴びるほど呑んだくれたり、、、そして早撃ちで多人数を一瞬のうちに鮮やかに葬る(馬の横乗りもある)、ある意味、マカロニウエスタンらしさの針が振れ切っているところでもある。


ただ、「用心棒」とかって何なの?ここでは砂金を取る仕事ではないのか?
呼び戻され帰ってきたら家を悪党に奪われていて、伯母が殺され(育ての父も殺されていて)、その復讐をしたものだ。
へんてこな邦題つけないでよ、、、どういう意味?特に「真昼」ってことでもないし。
”虐殺の時”といのも捻りはないけど、ストレートで分かり易い。

ストーリーはこれまで観たマカロニよりも凝っている上に説得力があった。
屈折した(首も終始傾けている)スコット・ジュニアの迷走ぶりの訳も分かるし、その取り巻きのひとりインディアンの男の複雑な立場も伝わる。ニーノ・カステルヌオーヴォ、表情など少し役作りし過ぎな感じもするが、、、独特な異常さは良く出ていた。
結局、トム・コーベットの実の父が、コーベット家のみならず街全体の宿敵であるスコットなのであった。
これが物語の肝となる。この血の因縁が悲劇を呼んだという、何やら横溝正史の物語にも共振するところが感じられる。
確かに前半のシーンで悪党どもがトムに対して抜いて来ないので変だと思ったらそういうことであったのだ。
特に、幹部の如何にも凄腕風のインディアンの男がやけにトムに対して微妙な間を取っていつも監視しているのが気になったが、彼は狂って暴走するジュニアに限界を感じており、同様に彼を排除したい父スコット側に付いて動いていたようだった(その為に終盤、ジュニアに殺される)。

ジュニアは父が自分を見限って、実の息子(ジュニアの実兄)であるトムを探して会いたがっており、父の遺産相続権についてもだが、愛も奪われる事に対して強く反発し、歪んだ精神による残虐な狂態を繰り返していたのだ。
その合間にパーティでオルガン演奏に興じ、余興に鞭で人をひっぱたきまくり、闘犬に人を襲わせるなどして愉しんでいた。
父スコットがトム・コーベットを探しに出る度(逢おうとする度)、その周辺の人物がジュニア配下の者に殺される。
それもあってか、しきりに乳母のメルセデスやジェフがトムを街から追い出そうとしていた。
だが街の名士、キャラダインに呼び戻されたトムはその理由をどうしても知りたかった。
(探る中で、キャラダインもジュニアの配下に、妻と幼い娘たち共々撃ち殺される)。
そしてその血の関係を知るに至り、トムはこれまでに起こった惨劇の訳を認識する。

Massacre Time003

結局、再会をずっと望んで来た父と一対一で逢い、父の本心をトムが聴いたところで、その父も撃ち殺される。
やはりそれもジュニアの仕業であった。
トムはジュニア~実の弟を倒しに行くことに決める。
義理の兄であるジェフは、「家族のことは自分で片付けろ」と言ってその場を立ち去る。
(この兄は銃と馬の横乗りテクニックは超絶的だが、そのパタンばかりである。)

しかし今回ばかりは相手が多勢すぎる。
やっぱり見物するぜと言って舞い戻り、フルに手助けすることになる。
つまり神業ガンマンが二人で大人数の悪党ガンマンを次々に様々なパタンで打倒してゆく。
この面白さ~醍醐味である。


葬儀屋の中国人が、何かと言えば孔子がこう言ったとかいって、結局金せびりをしていたが、特に物語に深く関わることなくお飾り程度であった。
バーでピアノも弾き多彩なので、もっと情報屋的な働きでもするのかと思った。
トムは彼に金を払い過ぎである。
インディアンも含め、もうすこし突っ込んでも良いが、テンポが悪くなっても困る。
これくらいの触れ方が丁度良いかも知れない。

全て事が済んだ後、ジェフが飛ぶ鳩を撃ちそうになるところを、トムがそっと手を置きそれを制する場面は粋であった。
ディテールまでよく行き届いた作品だと思う。
キャストも皆、なり切っていた。
特に、狂気の殺人鬼ニーノ・カステルヌオーヴォは「シェルブールの雨傘」のギィ・フーシェではないか、、、。
切ない(笑。
場面の転換と流れがよく、編集がとても功を奏していると感じる。
最後のマカロニが良かったのできりのよい締めとなった。



明日はアニメでも観たい。




続・荒野の1ドル銀貨

The Return of Ringo001

Il ritorno di Ringo/The Return of Ringo
1965年
イタリア、スペイン

ドゥッチョ・テッサリ監督・脚本
エンニオ・モリコーネ音楽


モンゴメリー・ウッド(ジュリアーノ・ジェンマ) 、、、モンゴメリー・ブラウン(リンゴ)
ジョージ・マーティン 、、、パコ・フエンテス (メキシコの悪党)
ロレッラ・デ・ルーカ 、、、ハリー・ブラウン(妻)
アントニオ・カザス 、、、保安官
フェルナンド・サンチョ 、、、エステバン・フエンテス (メキシコの悪党)
マヌエル・ムニス 、、、花屋


リンゴは故郷へと帰ってきたって、、、昨日の「荒野の1ドル銀貨」とは何にも関係ないではないか!
紛らわしい、と謂うより出鱈目な邦題付けるな!
1ドル銀貨など何処にも出て来ない。
噺は全く別物。
ジュリアーノ・ジェンマが出てくれば、どれも続編にする気か?
この節操のなさには、ホント呆れる。


街には干し草がずっと舞っている(マカロニのロケ地はスペインが多いという)。
この雰囲気は不穏な感じがする。
髭面のジェンマがメキシコ人に成り済ましポンチョを着て歩く姿は、その街の風に合ってた。
時折、神経症的に顔面を引きつらせ、ハードボイルド感も匂わせる?

彼は南北戦争で活躍した、北軍大尉のモンゴメリー・ブラウンであるが、戻った故郷ではすでに戦死者とされており、彼の留守中、砂金に目を付けたメキシコ人フエンテス兄弟に街は乗っ取られてしまっていた。
おまけに彼の美しい妻ハリーはパコの愛人に収まっている始末。
このままには、しておけない。だがたった独りではどうにもできない、、、

The Return of Ringo002

という設定で、妻と街を奪還すべくモンゴメリー・ブラウンが奮闘をするという噺である。

彼は周りが敵ばかりの環境で不用意な動きや不注意が目に付く。
何かに気を取られると夢中になって周囲が見えなくなるタイプなのか。
だがそれでは戦争には向かない気がする。
どうにも甘く優しい雰囲気の人である。
自分の家で想い出の品に現を抜かしている内に泥棒にされ、利き腕をナイフで刺されるところは、こちらも痛い!
(行動を見てると結構、痛い人にも思える)。

エステバンの愛人で占い師の美女に何度も誘われるが、全く動かない、その点での隙は全く無い。
中盤から髭を剃り、青い北軍の制服を着て出てきてしまうと、品行方正なガンマンにしか見えなくなる。
あまり、西部劇に対抗して出て来たマカロニウエスタンのアウトローでニヒルなガンマンという感じからは遠く、独自路線のマカロニスタイルを作っているのか、、、。

The Return of Ringo003

だが、拳銃の腕は凄いのだ。
利き腕は潰されてしまっているが、逆の腕で百発百中の早撃ちである。
恐らくそれまでにも二丁拳銃などで、両腕で撃って来たのではないか、と想像できる。
フエンテス兄弟の沢山の手下を次々と撃ち殺してゆく。
(おっつけ刃で、この実践は無理であろう)。

ダイナマイトを鉢植えに仕込むが、それがまともに利用されたのはほぼ一回で、もう少し有効に使えば良いのに、とは思われた。
街の男たちを奮い立たせての最後の決戦に、ダイナマイト以外で、どういう作戦を立てたのかと思ったが、これと言って目立ったものが見られなかった、、、。ただ百姓一揆みたいに街の男が正面から攻めてマシンガンの餌食になっていたが。
相手もマシンガンの威力は凄そうであったが、それを封じれば何とかなりそうに思えるものであった。
何故かインディアンも来ていてリンゴたちに加勢していた。彼は薬草を無料でリンゴの為に提供してくれた人であったが、どういう絡みか?

占いの女がリンゴ~花屋を裏切り、折角捕らえたエステバンを牢屋から脱獄させ、立ち直って勇敢に悪に立ち向かおうとしていた保安官が彼に撃たれてしまう。
保安官の死体を見て皆が愕然としているところで「わたしのせいなの」と女が言うと、何とこともあろうにリンゴは笑顔で「誰にも間違いはある」と明るく言い放ちその場を後にする。これは単なる間違いではないことは歴然としている。
ここに来て、このマカロニガンマンは、ソフトイメージだが、かなり特異な感性~感覚の持ち主であることが分かる。



占い女はいつも、にやっと笑みを浮かべ、ここでも余裕綽々にサッサと馬に乗って何処かに去って行く。
ミステリアスな美女という設定なのだろうが、妙な美女にしか見えない。
ヒロイン(奥さん)も際立って綺麗な人ではあったが、固くて平板な印象である。

結局、所々間延びしながら、テンポも然程よくなく、何とか相手をやっつけるが、、、
必要以上に手古摺ってダラダラ乱闘を引き延ばしたり、闘いの最中に娘とかなりの時間をゆったりと過ごしていたり、、、
何か緊張感が続かない演出~本なのだ。このジェンマの表情にも起因している。ソフトなスマイルとは、ちょっと違うものだ。
結局、奥さんと幼い娘との幸せを取り戻したという光景でしめる。

全般に人物描写が大雑把で、闘いの流れも今ひとつしっくりこないし高揚もない。
感情移入など無理である。別に必要ないが。

The Return of Ringo004

今日のマカロニは、面白いというところまでは、いかない作品であった。
もうこのジャンルは、いいかな、、、。
飽きて来た。


荒野の1ドル銀貨



Un dollaro bucato/One Silver Dollar

イタリア/フランス
1965年

ジョルジオ・フェローニ監督・脚本

ジュリアーノ・ジェンマ、、、ゲイリー・オハラ
イヴリン・スチュワート、、、ジュディ・オハラ
ピーター・クロス、、、マッコリー(悪の銀行家)
ジョン・マクダグラス、、、ドナルドソン (マッコリ―に対立する農場主)
フランク・ファレル、、、アンダーソン保安官


イタリア/フランス作のマカロニウエスタンである。
昨日の映画(荒野の用心棒)のようにヨーロッパの多国籍俳優が出演している時は、「ユーロウエスタン」とも呼ぶらしい。
ドイツは確かに西部劇が盛んであったと聞く。イタリアだけではない。フランスでもフィルムノワール風ウエスタンが出来ていたという。ちょっと見てみたい感じもする。
「子連れ狼」や「木枯し紋次郎」もマカロニウエスタンの影響から生まれ出たらしい。成る程、という気はする、、、。
「用心棒」が「荒野の用心棒」を生んだように、西部劇と日本時代劇はかなり相互変換が効きそうだ。

One Silver Dollar003

この映画も終始、目は離せない。
緊張感が途切れて中弛みするようなことはない。
あれっと想うところは多いが、不思議な雰囲気と魅力(意外さ)で最後までもってゆく。
アメリカものに比べ主人公は、アウトロー的なペルソナが多いというが、この主人公はかなり高潔な部類である。
南北戦争で敗れ、西部で身を立て直そうという前向きな男だ。
しかし非情さを売り物?にするというマカロニウエスタンの枠にはしっかり入っていた。
いきなり弟を失う悲劇から始まる。
信用して絡む相手(ドナルドソン 以外)がことごとく悪であり、主人公の奥さんも巻き込まれてゆく。
しかもドナルドソンも裏をかいたつもりが、悪辣な保安官に殺される。
その辺の殺伐さから、ずっとハラハラさせられる始末(笑。


拳銃というものは銃身を短く切られていると、あれ程狙いが定まらないものなのか。
確かに最初の場面で、凄腕ガンマンでもこの銃身では小さな的に当たり難いというのは、よく分かった。
だが、最期のシーンあれだけの至近距離で、人を的にしているのに全然当たらない、というのもどうか。
マッコリーはお尋ね者のかなりの悪のはずであるが、腕はイマイチなのか。
わたしは、また鉄板でも胸に仕込んだか、何かの手品(イリュージョン)かとも思ってしまった(笑。
ゲイリーはランタン持ってニヤッとしているだけだし、不思議なシーンでもあった。

胸に忍ばせた銀貨のお陰で命を拾う、というのはこの作品が初めてだろうか。
このオリジナルアイデアはかなり使われたものだ。
なかなか粋でもある。
コインが違うものになったりはしていたが。
ヒーローものは、運も大切である。
このコインは、弟の柱時計に隠されていたものであり、終盤このコインの転がって行った先の柱時計には、弟が見つけたマッコリーの悪事を暴く書類が隠されてあった。(結局書類も何も関係なく悪漢は民衆に始末されるが。この映画は、それが基本パタンともなっている)。

One Silver Dollar004

ここでは気丈なヒロイン(妻)も活躍するが、主人公と彼女との再会がまた凄いタイミングである。
主人公は、捕まってボコボコにされる(相手の詰めの甘さから決して殺されない)。これはお約束か。
ゲーリーが口に塩まで詰められ縛り付けられているところに丁度囚われて妻もその場にやって来る、、、。
それを知ったゲーリーは、靴の拍車で縄を切る。そこは分かった。腕はどうやって切ったのか、そのシーンがない為、わたしはヨガのポーズとか想いうかべてしまったではないか、、、余計なことか、、、マイケル・ジャクソンの身体能力なら楽勝かも知れぬ。
この辺はよい。
だが、悪党の銀行家のボスが、少し前に逢ったばかりのゲイリー・オハラ の顔を全く覚えていないで、また手下に雇うというのは、ちょっとあんまりではないか、とは思った。
そんな細かい所はあるが、まだほとんど気になるレベルではない。
問題は、この土地の最後の良心とも謂えるドナルドソン まで殺される。
保安官がマッコリー一味であったことが誤算であったにせよ。
まんまと新銀行を建てて対抗するための金塊まで奪われてしまう。
これではゲイリー・オハラ は何の役に立ったというのか、という気もして来る。
(弟の隠したお尋ね者の情報を見つけるのが遅かったと謂えばそこまでだが)。

確かに早撃ちの腕は魅せるが、次々に撃ち殺して暴れまわる程ではない。
そこそこの爽快さであり、まあ何とかマッコリー一味は倒したし、それでよいか、というところだ。
ワイルド・バンチを先に観てしまっていることはやはり大きい)。
だが面白い映画とは謂える。

One Silver Dollar002

特に整合性が無くても面白いものは面白いのだ。




荒野の用心棒

A Fistful of Dollars001

A Fistful of Dollars / Per un pugno di dollari
イタリア/スペイン/西ドイツ
1965年

セルジオ・レオーネ監督・脚本
黒澤明、菊島隆三 原作
エンニオ・モリコーネ音楽


クリント・イーストウッド 、、、名前のないよそ者(ジョー)
ジャン・マリア・ヴォロンテ 、、、ラモン・ロホス(ミゲルの弟の早撃ちガンマン)
アントニオ・プリエート 、、、 ドン・ミゲル・ベニート・ロホス(街を牛耳る無法組織のボス)
ホセ・カルヴォ 、、、シルバニト(バーのマスター、ジョーの協力者)
マリアンネ・コッホ 、、、マリソル(ラモンに拉致された女性)
ヨゼフ・エッガー 、、、ピリペロ(棺桶屋)
ブルーノ・カロテヌート 、、、 アントニオ・バクスター(保安官、ロホスの対立勢力のボス)
マルガリータ・ロサーノ 、、、ドナ・コンスエラ・バクスター(バクスター夫人)


暫く、わたしのほとんど観て来なかった西部劇を中心に観てみたいと思う。
(余計なことを考えず「映画」という娯楽に浸るには良いかと思われる)。
「用心棒」原作の方はまだ観ていない(いや、実は幼い頃観ているのだ。仲代の演技は朧げに覚えている)。
ただ、リメイク(オマージュ?)であろうと、これ自体実に愉しめた。
ハリウッド映画ではない。
マカロニウエスタンとは何か。
何故、イタリアが西部劇を作るのか。
わたしは、その辺からして知らない。
(淀川先生が「マカロニウエスタン」と命名したことは知っている。実にスタイリッシュ)。

その西部劇は、過激でリアルなシーンで構成され、アウトローがヒーローとして登場していたところが斬新であったようだ。
特に銃撃戦における距離感。銃を向けてからの時間。離れて長く撃ち合うのではなく、これらを日本の居合切りみたいに一瞬にして決める。このソリッドなシャープさ。やはり「用心棒」を元にしている分けもわかる。
ワイルドバンチ」(サム・ペキンパー)ほど過激ではないにせよ。
しかし「用心棒」(黒澤)をベースに見事な西部劇に転換していると思われる。
エンニオ・モリコーネの音楽とピッタリ合った哀愁に染まるクリント・イーストウッドがまた良い。
これぞマカロニウエスタンの様式美と謂っている様だ。

いかし、それまでリアリスティックに過激に狡猾に噺を展開して来たジョーが何故か、だらしなく捕まり拷問を受け、最期の決闘の場面では何度も撃たれてひっくり返る。心臓を撃つことに自閉的な拘りを持つ早撃ちラモンであるから仕方ないが、普通なら兄弟が「兄貴、頭だ!」くらい言わぬものか?術中にはまり、もう焦りしかなくなっていては、勝ち目などあろうはずもない。
心理戦における勝利であろう。ポンチョの下に鉄板などと大胆な賭けでもあったが。
本来、拳銃より有利なライフルが見事に負ける。
ここは説得力ある気持ち良いシーンであった。
(条件によっては拳銃の方が有利なのだ。それを証明した)。

ファニング(連射撃ち)がこの映画の肝であろう。
特に最後の4人の悪党を一瞬にして葬り去る圧巻の早業は爽快だ。
ここから「ワイルドバンチ」への流れも分かるような気がする。
(まだ途中が欠けていることは察するが、おいおい見てゆきたい)。

ともかく、この用心棒、一体誰の用心棒であったのか、、、。
結局ひとつの家族を命がけで守ったことになる。
クリント・イーストウッドも元気で旅を続けるというところでエンディング。
もっともカッコよいクリント・イーストウッドも見れた。
めでたしめでたしである。


A Fistful of Dollars002






傷だらけの栄光

Somebody Up There Likes Me002

Somebody Up There Likes Me
1956年アメリカ

ロバート・ワイズ監督
アーネスト・レーマン脚本

ロッキー・グラジアノ、ローランド・バーバー原作

ポール・ニューマン、、、ロッキー・グラジアノ
ピア・アンジェリ、、、ノーマ・グラジアノ (ロッキー夫人)
エヴェレット・スローン、、、アーヴィング・コーエン
アイリーン・ヘッカート、、、バーベラ夫人
ハロルド・ストーン、、、ニック・バーベラ
サル・ミネオ、、、ロモロ


誰もが自由に生きていると思っているところは、四肢が任意~自在に動かせることなどから帰納的に推測して自分の人生(全般)も自分の思いのままに操れると思い込んでいるようなものだ。これは別にわたしが言っていることではなく、多くの哲学者が大分以前から述べている。
わたしも痛感することがある。
自分の意思で行ったと思ったことでも、強いられ選択の余地なくやっていた。または自動的に行っていた。
そう事後的に反省することは少なくない。
それが苦痛に充ちた流れであれば、その流れの中にあって、何とかこの流れ自体を変えられないものか、と悶え苦しむ。

特に少年期~青年期の嗜癖や反社会的行為、非社会性は特に親や周囲の環境からの強い影響を抜きには考えられない。
遡行して考えるとそこに原因を特定できる。
しかしその逆(逆の矢印)は、必ずしも成り立たない。
このような幼年期(または少年期)を送れば、青年~成人になって同一の結果を生むというものではなかろう。
あくまでも個別の関係において特定されるべきことである。
だが、やはり幼少年期の「関係性」が決定する流れはとても大きい。

例え原因を何処においたとしても、人はなかなか変わろうとしても変わることの出来ない生き物である。
生活実感としてそれは意識に非常に根深く横たわっている。
そして、何とかDisciplineによって、それまでの流れを呑み込む(包含する)大きな流れがまた異なる強力な様相を呈しつつあっても、その足を掬うかのような過去や柵がもちだされたり、突発的な妨害があらぬところから舞い込むことは少なくない。
まるで新たなデータを過去データで上書きするように仕組まれているかのように。

Somebody Up There Likes Me001

この映画で、丁度その悪の循環~予定調和に向かいつつあったところを断ち切ったのは、ソーダ屋のマスターの説教であった。
ロッキーは、まず一度目は唐突に出逢い即座に恋に落ち、速攻で結婚したノーマに救われた。
そこから快進撃が始まり、忽ち絶頂を極めんとしたときに大変なトラブルに巻き込まれる。
彼の過去~まだ若い(幼い)時のある意味サインを出しながらの無軌道な身悶えとも謂える愚行の数々が再び彼を襲ったのだ。
ここまで積み上げた時点での、かつてない程の深い闇に彼を急転落下させるタイミングでもあった。
奥さんと並んで、このソーダ屋のマスターの役割は途轍もなく大きい。

ソーダ屋を例によって金も払わず飛び出たロッキーは父に逢いに行く。
そこで初めて心を割って父と話すことになる。
彼はその時、恐らく父を始めて愛おしく思えたことだろう。
父にしてあげられることはないかと真摯に向き合う。
父はロッキーに自分が成し得なかったチャンピオンになって欲しいと涙ながらに伝える。
(彼はロッキーが過去の重くのしかかる柵によって窮地に立たされていたこともよく分かっていた)。
このことで、ロッキーは生まれて初めて、憎しみからでなく相手と闘う経験~新たな次元に入ることが出来た。
ヒトが変わる契機の一例である。

Somebody Up There Likes Me003

憎しみは大変根深い絶大なエネルギーであり、それが幼年期などに源を持つのであれば、常に現在にフラッシュバックしてしまい、今を支配してしまう。それは確かに破壊力はもつが、無意識の荒れから大変制御が困難で不安定でもある。
両親との関係~記憶程大きな障害~病の源となるものはない(ロッキーの場合、母とは慈しむ関係は保持されていたが)。
(その関係が良好であれば、どのような共同体にあっても精神の域は高く、崩れるようなことはない)。
だが一度、関係が浄められた場合、これまで支配的な基調をなしてきた精神構造も相転換し得る。
チャンピオンになるには、この転換が必須であったのかも知れない。
もう過去も引き摺る必要もなかった。過去が意味を変えてしまった。悪友の存在も意味を亡くした。
全てが今を支える記憶に変質したのだ。


これが幸せというものだろう。
ホントに清々しいハッピーエンドであった。






ムーンウォーカー

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Moonwalker
1988年
アメリカ

ジェリー・クレイマー、コリン・シルバース監督

ミュージッククリップ集である。
最後のものはやたらと長い、映画みたいな、何と謂うべきか、、、極めて彼らしい世界が窺えた。

マイケル・ジャクソン
ショーン・レノン 、、、ショーン(マイケルと仲良しの子供)
ケリー・パーカー 、、、ケイティ(マイケルと仲良しの子供)
ブランドン・アダムス、、、ジーク(マイケルと仲良しの子供)
ジョー・ペシ、、、悪者


何と謂ってもマイケル・ジャクソンのダンスである。
ダンスと歌なのだが、それに留まらない生々しいひりつきがある。

昨日の前作に当たる本作は、純粋にマイケルの卓越したダンスを愉しむことも出来るが、彼の精神のルーツみたいなものにひんやり触れてしまう恐ろしさも感じる。昨日の”THIS IS IT”の方は、彼の外面的パーソナリティ~完全主義で他者に優しく地球想いの面に触れられ、暖かく大きな人格を感じたものだが。

Moonwalker004.jpg

次々に変身したりしながらいろいろなもの相手に踊ったりする。
彼に夢中の可愛い子供が必ず一緒にいる。
ここでは、子供を薬漬けにしてやろうという悪党の追手を振り切りつつ見事なダンスを披露し、連中とのファンタジックで荒唐無稽な闘いを(まるで玩具のごっこ遊びみたいな感覚で)繰り広げ、何か不気味なステージでエンドロールに向かう。
これは自宅に”ネバーランド”を創ってしまう彼ならではの世界であろう。
(監督がそれをよく分かって創っているに違いない)。
白昼夢とか一種の精神療法的(箱庭療法的)な世界にも受け取れる。
子供が主体となって登場し、何とジョン・レノンの息子も混ざっていて、悪い大人に追い回されるというのは、、、
マイケルの原体験を感じないではいられない。その孤独はショーンとも共有できるところもあったかも知れない。
永遠に大人にならないと決めたヒトの世界が描かれていると感じた。
ここに登場して来たものは彼(ネバーランド)のコレクションのほんの一部だとは思う。

見ようによっては踊るウサギがかなりグロテスク。いや二人の踊る場面自体が。
可愛いという感覚とは違う(可愛いにはその種の毒が必ず含まれるとしても)。
独特の嗜癖がある。マイケルの着ぐるみのウサギが自立して彼と踊り、警官が踊りは禁止だと言ってマイケルを罰する。その時、ウサギ自身も消えてなくなり、そこを立ち去るときにウサギは岩の形でサインを送ってよこす。
マイケルと二人で踊っているところなど、間違っても無邪気な微笑ましさとか感じない。
何か妙である。
それから悪者が捕らえた女の子ケイティをパンパン叩く虐待にはかなり違和感を覚えたが、それに対するマイケルの絶叫も尋常ではない。ここは、生な何か~記憶を強く感じた。ある意味、子供向けファンタジーを逸脱する部分であり、本質的なところに思える。
このトラウマの生じた場の再現そして変身。破壊。そして何処かに戻ってゆき、帰還を果たして子供たちにサプライズ。
ビートルズ(レノン作曲)の”ComeTogether”のステージでしめる。この曲にせよ歌詞などは子供向けではない。どういうサプライズだったのかよく分からないままにエンドロールのアカペラに、、、。



とは言え、ダンスの映像の素晴らしさは言う事なし。
特に”Smooth Criminal”のシーンである。
まさに圧巻!
昨日思い出さなかったが、マイケルの曲で最もカッコよい曲はこれではないか?
それに持ってきてこのダンスパフォーマンスである。
実はわたしはこの部分だけ、今日10回は繰り返して観てしまった。
サウンドとダンスの融合は逸品。
見所は、何と謂うか、、、知ってる人は、「そうそれ!」と叫ぶところだが(笑、あの重力調整しながら体を倒してゆくところである。
わたしも真似してみたが、真似してどうなるんだ(怒!、、、というものであった(爆。
また、敵か味方か分からぬが、一緒にシンクロして踊るダンサーたちも見事の一言。
ダンスクラブに入った次女に見せない手はないが、先ほど寝てしまったので、明日見せる。

実際、子供時代にマイケルのダンスを見たら、これは夢中になってしまうに違いない。
そこで育ったダンサーたちが、”THIS IS IT”のオーディションに世界中から集まって来たのだ。
そして、彼らのコメントには、わたしの方も、もらい泣きしてしまった。

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だが、マイケルが銀色のロボットに変身してゆくところは、とても悲痛であった。
これは、「凄いマイケル!」では片付かないものがある。
誰も踏み込めない、近づけない、孤絶したファンタジーだ。
共有できない夢とはこういうものか、、、。
その虚しさと哀しさと、それでも仄かな郷愁に彩られたシルバーメタリックマイケル。
どれだけマイケルを愛している子供でも唖然として見守るしかない。


マイケル・ジャクソンの狂気と偏愛とクリエイティブな欲求とが綯交ぜとなった映画みたいなミュージッククリップである。
ミュージッククリップみたいな映画というのか、、、。


ネバーランドに一度、わたしも滞在してみたい思いをもった。
きっと、お化け屋敷などよりずっと怖くて、甘味で煌びやかな場所であるはず。



マイケル・ジャクソン THIS IS IT

Michael Jacksons This Is It001

Michael Jackson's This Is It
2009年
アメリカ

マイケル・ジャクソン、ケニー・オルテガ監督

マイケル・ジャクソンとオーディションを通った出演者、ダンサー

2009年6月25日突然のマイケル・ジャクソンの死には驚いた。
何故その若さでとは思ったが、彼の精神的に抱えもっていた重みには誰もが気づいてはいた。
この映画は、幻のコンサートとなってしまった”This Is It”のリハーサルを映画として編集したものである。
充分にマイケル・ジャクソンのアウラのこもった貴重なドキュメンタリー映画となっていた。
(このリハに参加した人の誰も、この公演がこういう形をとるなんてマイケルのダンスの切れからしても想像だにしなかったはず)。


「人生はつらいだろ。前向きになれる何かを探しに来たんだ。
人生に意味を見つけたかった。
信じられる何かを、、、
それが、これだ」

ダンサーのオーディションにやって来た、とても内省的な雰囲気の男性のことばだ。
「それが、これだ」というのが、よく分かった。

他にも、オーディションの情報を2日目に知って何も考えずに地球の裏側から飛行機に飛び乗ってやって来てしまった。
という人もいる。
皆、感極まって目を潤ませていた。
まさにマイケルと共にステージに立ち、仕事が出来るということで、、、。



久しぶりに堪能した。
マイケル・ジャクソン!
昔、よくPVで見ていた。
だが、シングルカットで出た曲以外はあまり知らない。
とてもファンとは言えないわたしだが、彼の曲が掛かるときまって聴き入ってしまうし、ダンスには釘付けになっていた。
わたしにとっても魅力いっぱいのエンターティナーでありパフォーマーであることは間違いなかった。

若い頃の精悍な顔つきのマイケルを見慣れていたこともあり、50歳のマイケルはちょっと雰囲気は異なった。
勿論、年齢からは考えられないシャープなダンスと高音の声も安定してよく通る。
しかも自分の楽曲についての完全な把握とステージに合わせた細かい変更指示は完全主義の彼の側面を示していた。
所謂カリスマすら超えた別格の存在に見える。
リハーサル中のステージでスタッフが、ここは教会(聖堂?)だと言っていたが、まさにマイケルを信奉し取り巻く人々の創る空間はそういった神聖な場所~聖地のように映った。マイケルがやって来ただけで、憧れに染まった明るい表情に誰もがなり、声を掛けられるのを待っているかのようであった。

マイケルのスタッフに注文を出すときの明瞭だが優しさの滲む態度、物腰の柔らかさがこちらにもよく伝わってくる。
そこに如何わしさなど微塵もない、非常にピュアな魂のやり取りを感じた。
とてもテンションの高い出逢いの状態が維持されてゆくのが分かる。
確かにそれぞれの曲の緻密で入念なアレンジと演出が練られるリハは、この場を創っている者たちにとっての至高体験の場とも想えた。

彼に抜擢された女性ギタリスト、オリアンティ・パナガリスにとっても脚光を浴びスキルアップも果たす大変重要な場となったことは間違いない。
この映画でマイケル・ジャクソンの次に際立っていたように思う。

Michael Jacksons This Is It002


おおよそこの辺の曲に断片的に触れることが出来る、、、。

「スタート・サムシング」
「ジャム」
「ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス」
「ヒューマン・ネイチャー」
「スムーズ・クリミナル」
「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」
「シェイク・ユア・ボディ」
「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」
「スリラー」
「今夜はビート・イット」
「ブラック・オア・ホワイト」
「アース・ソング」
「ビリー・ジーン」
「マン・イン・ザ・ミラー」
「THIS IS IT」

やはりワクワクして、昔のビデオテープを掘り返して、「スリラー」、「今夜はビート・イット」、「ビリー・ジーン」、「ブラック・オア・ホワイト」など聴いて~観てみたくなる。懐かしいロックMTVで発表当時、必ず毎回掛かっていたものだ。
しかしマイケル・ジャクソン、昔懐かしいで終わるアーティストではない。
やはりこのパフォーマンス、時間を超脱した力がある。
そのパフォーマンスの力量・才能に加え、、、
彼には人を惹き付けると同時に決して接近できない不透過な闇がある。
単なる優しさや寛容さを超えた裂け目として。
そう、クールである。
危ういクール。

このような絶大な支持(前作「ムーンウォーカー」のライブで熱狂し失神する夥しいファン)をもったうえでの極めて危ういクールさ。
こういう人はいる。ジェームス・ディーンとか、、、。
エルヴィス・プレスリーたちはぶくぶく太って失速していったが。
危うい影を色濃く畳み込んだクールなアーティスト。
マイケル・ジャクソン。
この点でも、彼はいつまでもわれわれを深く惹きつけてやまない。






お嬢さん

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아가씨 (アガシ)
2016年
韓国

パク・チャヌク監督・脚本・製作
サラ・ウォーターズ『荊の城』原作
原作のヴィクトリア朝を日本統治時代の朝鮮に置き換えている。

キム・ミニ、、、秀子お嬢様
キム・テリ、、、スッキ、珠子
ハ・ジョンウ、、、藤原伯爵(詐欺師)
チョ・ジヌン、、、上月
キム・ヘスク、、、佐々木夫人
ムン・ソリ、、、秀子の叔母


これ程の完成度をもつ映画は、最近見たことがない。
極めて緻密に計算しつくされた映像だ。
呆気にとられて観てしまった。

韓国映画、恐るべし。
というか、このパク・チャヌク監督のパワーの成せる業か。
他の映画も観てみたい。
と思ったら、あの「イノセント・ガーデン」(Stoker)の監督ではないか!
ミア・ワシコウスカがあそこまでやるか、という切れのあるエロティシズムも凄かったが、、、その比ではない。
だが、よく分かる。同様の構築美を誇るものだ。成る程、、、である。

映像も緻密で圧巻であったが、ストーリー、脚本も見事な運びであった。
その為、映像に説得力があるのだが。
衝撃としては、「神々のたそがれ」、「シルバー・グローブ/銀の惑星」に並ぶところだが、エンターテイメントな面でも突出している。
どこにも隙が無い。ストーリーの3部構成の交錯する立体的展開が見事。

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エロティシズムにおいては、ひたすら美を堪能するところだが、セリフが露骨なのには驚いた。
創作に体制的抑制が掛かることは、多くの例があるが(それで人生の多くの時間を牢獄で過ごした監督もいるが)、通常自分の中で自己規制してしまうことも少なくないはず(内なるマイクロファシズムである)。この監督は、それを完膚なきまでに蹴散らしている。

あくまでも、ある(監督の)美意識に従い一切の妥協を許さず生成された映画である。
である為、ディテールまでとてもスタイリッシュだ。
「映画」(の生成)それ自体が自己目的なのだ。
ある意味、芸術至上主義的作品でもある。
人が普遍的にもつ審美的な感受性に深く訴え陶酔させる類のものだ。
しかしその上で、この映画自体のベクトルはある方向性を確かに指し示す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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キム・ミニはカリスマ的人気を誇る女優だそうで、確かに透明感溢れるオーラを発していた。
その相手役のキム・テリは新人だという。
今回がデビュー作なのだ。
体当たりで精いっぱいの演技であることが分かる。だが、誰かに似ている。
最近わたしがTVでよく見ている乃木坂のメンバー若月女史に似ているのだ。
途中までそんなことが妙に気になったが、似ているからと言って鑑賞の邪魔になるものではない(笑。

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そう役割、固定的イメージというものはたちどころに浸透してしまう。
噺の内容的には、お嬢さんにしろ、詐欺師の手先で自身泥棒の娘のスッキ(珠子)にせよ、上月にせよ、詐欺師にせよ、、、
だが、何重にもがんじがらめになっているのは、男性中心的文化の支配下に置かれた女性であろう。
そこに経済的なものも大きく絡む。
ここで、富豪の娘のお嬢さんを結婚詐欺で上手く騙して金を得ようとする男とその手先のメイドに成り済ました女が登場する。
しかし、男は自分の身の上をお嬢さんにばらし、屋敷の主である上月に拘束されている彼女を自由にすることをも持ちかける。手に入れた金は山分けということで。ここでメイドのスッキ(珠子)を裏切る。
しかし、お嬢さんとスッキ(珠子)は感情的に深く結ばれてしまっていた。双方とも母親を幼くして亡くしたことが現状の孤独と隷属を強いている面は大きい。そうしたことからも、ふたりは手を組む。だが二人だけでは動き切れないため、スッキの泥棒一味の人々にも金品を送り、企てに参加してもらう。

当初、お嬢さんを騙して精神病院に送り込んで、スッキをお嬢さんに仕立てて逃げる予定であったが、病院に収容されるのはお嬢さんに仕立てられたスッキの方であった。これでうまく運んだと、お嬢さんと金の両方を手に入れた気でいた詐欺師であったが。
女性二人組の方が上手であった。女性二人はすでに誰の拘束も受ける気はない。全てを切断するつもりであった。だから強靭なのだ。
そしてスッキの仲間が病院に予定通りに火を点け、その隙に彼女は逃げ、用意された偽旅券で二人は船に乗って無事に逃亡、、、。
いや、解放されたのだ!
出自から、身分から、制度から、性から、、、ある意味究極の解放を耽美的に詠っている。

二人が上月の秘蔵する高価な、お嬢さんに無理やり読書会で読ませていた本を滅茶苦茶に破いて(勿体ない)、地下に放り込み、トランク抱えて小舟に乗り込むために叢を走る姿の、何と軽やかな歓喜に充ちた姿~シルエットか!
トワイライトゾーンを突っ切る二人の姿のそれは美しいこと、、、。ここはホントに感動した。(本が勿体なかったが)。


解放である!
この映画は、映画自身も含め!全てのシステムからの解放を描く。
それは美しく、、、。


面白い映画とはこういうものだ、ということを確信した。





ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト

Shine a Light001

Shine a Light
2008年

マーティン・スコセッシ監督

ミック・ジャガー
キース・リチャーズ
チャーリー・ワッツ
ロン・ウッド

ジャック・ホワイト
バディ・ガイ
クリスティーナ・アギレラ

ミック・ジャガー氏、現在75歳だから、このステージでは65歳である。
全く枯れていない。若い時と変わらぬステージアクションで迫る(他の同期のミュージシャンが次々に他界するなか、素晴らしく元気である。ぜひとも肖りたい。73歳で8人目の子供も出来ている)。


わたしが子供の頃、モノクロのストーンズのステージ模様がTVに映されているのを偶然見た時のことはまだよく覚えている。
ジャンピン・ジャック・フラッシュ ”Jumpin' Jack Flash”からサティスファクション ”(I Can't Get No) Satisfaction”への流れに血液が逆流するような高揚と衝撃を味わった。
キース・リチャーズのリフの痺れること、痺れること、、、もう極まった。
やられた!
である。

わたしがその時期に、これを体験したかしないかはとても大きかった。
精神の基調を形作った部分もあるといってよい。

このマーティン・スコセッシ監督の映画では、その二曲の他に、メジャーな曲を中心に選曲されていたが、”As Tears Go By”を聴いたときには、呆然となった。遠い彼方から届いた曲であった。今ごろ、この曲を聴くことがあるなんて、、、思い出した。こういう名曲があった、、、。”Tell Me”も思い出す(笑、、、確か彼らの一番最初の曲ではなかったか、、、。
すると芋づる式に次々とリリカルでストリングスの荘厳なアレンジの曲 なども浮かんでくる。
このコンサート(ビーコン・シアター)では、ノリノリの曲ばかりで構成されており、それは仕方ないことだが、、、。
やや一本調子な感じは否めない。” Connection”が入っていたのは良かったが。

”You Can't Always Get What You Want”みたいなメッセージ色の強いものや美しくしっとりしたバラードなどはなかった。
”Gimme Shelter”は、このコンサートの流れなら、ほしかったなあ~。ゾクゾクくる曲だし、、、。
”Honky Tonk Women”などここにぴったりだと思うがなかった、、、まあ、似た感じの曲が沢山あったし割愛されても無理もないか、、、だが、やったら大乗になったとは思う。キーボードがかなり入るしアクセントにもなるはず。それを言ったらD・ボウイもカヴァーしている”Let's Spend The Night Together”も入れたい、というか聴きたいではないか、、、。ボウイが出たついでにリリカルなバラード”Angie”は定番すぎるか?
”Sympathy For The Devil”は、ちょっと他の曲に似たアレンジ~サウンドになってしまってこの曲独自の魅力が充分出ていなかった気がする。
何と”Wild Horses”がスタッフロールでインストゥルメンタルで流れていた。勿体ない。
これをステージでやって欲しかった。
そう謂えば、”Shine a Light”も尻切れだったような、、、。

わたしの好きな曲はその他にある。
例えば”Winter”とか(笑、、、余りにマイナーか?だが好きなんだから仕方ない。
取り敢えずユーチューブで探して聴いてみようと思う。今聴くとどうだろう、、、。
それにしても、ストーンズを久しぶりに思い出したのだ。
思い出す限りの曲を、何曲もこれから聴き直してみたい。
、、、良い機会となった。

キース・リチャーズのボーカルが渋いしカッコよい。
”All About You”で聴きたかったものだが。これは名曲だし。


色々ない物ねだりの注文ばかり出してしまったが、これもこの映画に触発されて思い出が溢出した結果なのだ、、、。
究極の無い物ねだりだが、ブライアン・ジョーンズのシタールで”Paint It, Black”も聴きたくなってしまったではないか。
だんだん虚しさも感じて来る、、、というか複雑な想いだ。
わたしのストーンズに絡む記憶は、とても一言では表せない、、、。

このままにしておくと次々に出て来そうなので、もうやめにしたい。


こんな綺麗でしっかりした撮影でまとめられたライブ映像は、この監督だからこそ出来たものか。
安定した接写など一番良い客席でも堪能できない、やはり映画作品となっていた。
深夜番組でよくやっているライブとは、映像と音響の鮮明さと臨場感が雲泥の差であった。
過去をじっくり堪能する作品であった。

演奏された曲:
ジャンピン・ジャック・フラッシュ
シャッタード
シー・ワズ・ホット
オール・ダウン・ザ・ライン
ラヴィング・カップ(with ジャック・ホワイト)
アズ・ティアーズ・ゴー・バイ(涙あふれて)
サム・ガールズ
ジャスト・マイ・イマジネーション
ファー・アウェイ・アイズ
シャンペン・アンド・リーファー(with バディ・ガイ)
ダイスをころがせ
ユー・ガット・ザ・シルヴァー
コネクション
悪魔を憐れむ歌
リヴ・ウィズ・ミー(with クリスティーナ・アギレラ)
スタート・ミー・アップ
ブラウン・シュガー
サティスファクション
ライトを照らせ (スタッフロール中の音のみ。途中でフェードアウト)

Shine a Light002



これで”NewOrder”も観たかった。
もうわたしの感覚~感性では残念ながら、こちら(NewOrder)の方でしか共振・共鳴は出来ない。
(若しくはKing Crimson叉はProcol Harum)

懐かしみ昔の想いに浸ることは出来ても、、、。
「今」を共有は出来ない。







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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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