夏の庭 The Friends

1994年
相米慎二 監督
湯本香樹実 原作
田中陽造 脚本
三國連太郎、、、傳法喜八(老人)
戸田菜穂、、、近藤静香(少年たちの担任)
淡島千景、、、古香弥生(喜八の妻・静香の祖母)
3人の子役(主人公の少年たち)
原作が有名な児童文学で海外でも十数カ国で翻訳されているという。
コスモスが咲き乱れている主のいない庭が、「奇跡」の一場面にあったのを思い浮かべた。
ここがそのまま切り取られているように見えた。
死に興味をもつ年頃の少年たちが、もうそろそろ死にそうな老人を見つけて、彼の死ぬところを目撃するため密着して過ごすうちに芽生えてゆく関係性とその広がり(深まり)を描く。
死ぬところを見たところで、死のなんであるかは分かるはずがないが、それについて考えを深める契機とはなるかも知れなかった。
それに葬式などの儀式への参加ではなく、日常生活の中での突然の遭遇は、それに対する真摯な態度を要請する。
概念以前の身体的な感情と思いを呼ぶ場所ではないか。
少年たちは老人の庭の手入れをし、コスモスの種まきをしたり、廃屋のような家の修繕をする。
サッカーの練習(試合)以外は、ほとんど入り浸り状態で仕事に精を出す。
少年たちと老人は次第に気心も知れ、老人が何故名前を隠し世捨て人のように生きながらえてきたかを少年たちは察する。
戦争中、戦地でフィリピンの身篭った女性を射殺してしまったトラウマから、戦後引き上げてきても、妻の待つ家に戻れなかったのだ。
そして長い時が過ぎ、晩年を迎えた今日である。
確かに、その心情には共感できる。
少年たちは、もう死の探求より寧ろ老人との庭を介した生活とやりとりが主題となっている。
そして少年たちは、老人の妻の名前を聞き取り、「古香弥生」その人の所在を探り出すことに成功してしまう。
何とその人は、少年たちの誇りでもあるマドンナ的な担任、近藤静香先生の祖母でもあった。
これには驚く。
しかし、静香先生が老人―すでに傳法喜八の名が割れた―に戦後からこれまでの状況と自分が孫であることを明かしても、喜八は頑なに自分であることを認めない。
確かにその決心で家に帰らず独りで暮らしてきたのだから、孫が迎えに来たからといって、さっさと妻のもとには戻れまい。
妻もその状況を合理化するために、夫は戦死したという物語を作り「ボケ」を装い閉じ籠ってしまっている。
結局、喜八は妻を一目見に行って帰宅後、少年たちによって死亡が確認される。
彼らにとって、すでに待ちに待った一般的な死ではなく、大切な存在の死であり、認めがたい死であった。
そうであろう。
台風の日に、3人とも家を抜け出し、喜八の家に心配で来ているくらいなのだ。
全てのエピソードが伏線となり、最後に回収される必要などないし、日常を見れば孤立した系の連続にしか思えなかったりするものだが、ひとつ突出したシーンがある。
それは、プールで3人で泳いでいるとき、一番のおデブ少年がいないことに突然気づくところだ。
彼はプールの底に沈んでおり、そこを近藤静香先生が素早く泳いですくいあげる。
わたしは、てっきりそこでおデブの少年(喜八には関取と呼ばれていた)が、死ぬのかと思ったら、次のシーンでは古香弥生の捜索の相談をしており安心した。とは言え少し突飛なシーンにも思えた。
近藤先生と少年たちだけが水面に静かに光って浮かんでいるところ(イメージ的なシーンである)は、この4人の連帯感のようなものは充分窺える。
と同時に生きていてよかった、という生の実感をしみじみ味わっているシーンと捉えるところか。
後の喜八の死の事実の受け止め方が変わってくるところであろう。
三國連太郎のまだそれほどでもない年齢での老け演技は達者なものであった。
特にぎこちない歩き方など、役作りが徹底していた。
少年たちの新鮮で清々しいほどの下手くそな演技も、最後には少し自然に感じられてくるものだった。
(但し、大切な部分での感情表現などは、かなり厳しいところであった)。
地味な絵で進行する中、戸田菜穂の存在は咲き誇るコスモス同様、晴やかな彩を添えていた。
(少年映画には、やはりマドンナは必要なようだ)。
寝る前にさらっと見るに適した映画であった。
(2度見ることはないと思う)。
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