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遠藤彰子の世界展~COSMOS~を観る

ENDO001.jpg

8月6日(土)~8月28日(日)
相模原市民ギャラリー
(入場無料)

「絵を描いている私は、自分と向き合うことによってのみ、危うく自分の廻りや外の世界と繋がっています。それが私の絵を描くことなのだと思います。そして小さい頃の記憶の始めから現在までに見たもの感じたことが、絵の内側の重い要素になっているようです。」(遠藤彰子)
パンフレットの冒頭に遠藤氏の文として引用されたものである。(それ以降の解説本文の文章には一切関わらない、、、つもり)。

この一文は、どのような文脈から切り取られたのか分からないが、わたしなりに解釈(咀嚼)出来るものではある。
要するに彼女にとって絵を描くこととは、自分に向き合い幼年期から続く記憶を画像化する作業を通してのみ、廻りの世界との繋がりを危うくも再構築してゆく事の出来る行為である。

自分に向き合うとなると、自分の内界を降りてゆく又は上昇する、垂直的な時空間構造の生成を見ることになる。
通常の生活が、水平に伸び広がっている横軸の等質的空間であるとすれば。
まさに、遠藤氏の上にまた同時に下にどこまでも深化してゆこうとする世界が生じてゆく。
しかしそれは真っ直ぐではなく、螺旋状の捻れをもって伸びる運動である。
捻れは彼女の想念-記憶の人々にとっての階段であり、疾走する自転車にとっての坂路であろう。
それは、記憶の要素にとっての構造となる。

この捻れた垂直運動は、次第に強まりダイナミックになってゆく。
描き続けることとは、そういうものか?
描くという生命力である。
それが大作化を不可避的に齎した。(あくまでも遠藤氏の場合)。

何にしても、ひとつの方法があり、構造が出来れば半自動的に作品は流れ出してゆく。
構造の中を選択的に、かつ無意識的(自然)な流れにのってフィギュアが造形されてゆくはずだ。
ある意味、ジョン・ケージの「チャンス・オペレーション」または、ウォディントンの「エピジェネティク・ランドスケープ」である。
わたしの実感からでもある。

また先ほど垂直的な構造を強調したが、個別的な空間(異空間)の合成された擬遠近法とでも謂える広がりを感じるものもある。
ENDOU004.jpg
しかし、それぞれのひとが等質空間にいる訳ではない為、出逢う可能性は垂直構造よりも困難に思える。



よくこの人のような作品について書かれる物語(解説)に、現実の裏側にある何らかの真実を暴き出すとか、現実における欠落感を埋めるために未知の何かを追い求めて、、などの紋切り型が散見される。(というのもまた、この手のものをパンフに見てしまった、、、)。

絵とは平面であり表面でしかなく、隠された意味でも価値でもない。
作家を媒体として生成される有機的な(遠藤氏においては)構成の産物だ。
それと、蓮實重彦氏も説いていたように、創造は欠落を契機になされるものではなく、ひたすら過剰なエネルギーによって生まれてゆくものであると考える。

結局作品というものは、方法でありその具現化のための技術の問題であることを、今日見た絵で再認識した。
それは、確立してゆくに従い、止めどなく溢れ出てゆく。
ときに構造を解体しまた新たな構造を要請しつつ、、、。


わたしは遠藤氏の絵に出てくる要素にもとても愛着を感じる。
特に疾走する自転車やほぼ360度から観られる人物フィギュアである。
この微妙で特異なデフォルメ-フィギュアは、飽きない。
あえて言えば、バルテュスの質感に近いものを感じるものだ。


以前の上に伸びる前のキリコ的な作品も好きである。(以下の2点は、本展示場にはない)。
いまは、大規模な構造の中の記憶要素として活性している。
ENDOU003.jpg


好きなデッサン。
ENDOU007.jpeg

なお、遠藤氏が小学生のとき描いた絵も飾られていた。
フォーヴィスムの影響が見られるものであったが、、、果たしてどうか?

挿絵もかなりの数が展示されていた。
(これらについては、あまりらしさを感じるものではなかった)。


小学校時代からわたしも馴染んできた画家であるが、その頃は今よりずっとコンパクトな絵画であった。
1500号は、まさに壁画を観る思いである。
点数も多く、日本画を様式に取り入れたものもあった。
この充実した展示が無料ということは、驚きである。
しかも、会場が空いているのだ。
じっくり観ることが出来る。


だいぶ以前、同会場で遠藤氏の絵を2点ばかり観ていた。



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