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狩人の夜

The Night of the Hunter01

The Night of the Hunter
1955年
アメリカ

チャールズ・ロートン監督


ロバート・ミッチャム、、、(偽伝道師ハリー・パウエル)
リリアン・ギッシュ、、、(孤児をボランティアで育てる信心深い婦人レイチェル・クーパー)
シェリー・ウィンターズ、、、(ハリーに殺されるジョン、パールの母ウィラ・ハーパー)
ビリー・チャピン、、、ジョン・ハーパー(ウィラの息子)
サリー・ジェーン・ブルース、、、パール・ハーパー(ウィラの娘ジョンの幼い妹)

かなり特異な肌触りの映画であった。
ハリウッド映画とは思えなかったものだ。

わたしが感動してしまったのは、あの訳のわからぬジョンとパールの兄妹が夜小舟に乗って川を下ってゆくときの光景である。
岸辺のカエルやほかの動物たちの姿がアップで映ってゆくシーン。
静かで生々しい威厳に満ちた動物たちであった。(兎や亀、羊もいた)。
そのなかをただ流れゆく小舟。
アメリカの非常に優れた写真家、例えばスティーグリッツなどの撮った写真を想わせるふたつの家屋や鳥かごに驚く。
通常のハリウッド映画に組み込まれる絵とはとうてい思えない。
超自然的な雰囲気で一気に画像に神秘的な厚みが増す。
ここは一種の境界である。子供たちは生と死の狭間を行く。
勿論、ここにくる前の川において、彼らの母親が首をナイフで裂かれ車ごと沈められた、髪が流れにそよぐ水草のようなあの妖艶な姿は、もうミレーの描くオフィーリアであったが。
やはり同じ川なのである。夜も更けより死の密度は高まってゆくのだ。

突然あの妹が唄いだした美しい「ハエ」の歌。
兄のジョンが眠りに就いたときであった。
これはもう、極めて良質なシュルレアリズムの作品である。
兄の意識の不在に伴い妹が目覚め動物たちのオーラが放たれ。
彼女の歌は、深夜の漆黒の川に煌く光のようにたゆたう。
やがて物語のテーマ音楽としてオーケストラに引き継がれてゆく。
ここから一段深く(無意識の層から)映画に取り込まれて行くことになる。
そしてその後に流れる「母」の歌としかとれない歌は、水底からふたりを見守る母の想念によるものか、、、。
優しく子供の身を憂える歌である。


何度も聞くハリーの唄う歌は「虚無」を歌にしたらまさにこれ、という歌である。
「頼れよ。頼れ。そうすれば全ての恐れは消えゆく、、、。永遠なる主の御手に。」
絶妙なタイミングで悪魔(ここでは狼)の到来を告げるように不吉に流れ出す。その乗馬の影とともに、、、。
彼自身の存在を顕に示すテーマソングみたいだ。
普段は当たりの良い伝道師として振る舞いながら、ナイフを持って雄叫びをあげる表情など尋常ではない。
未亡人ばかりを金品を奪って次々に殺害する男だ。
しかも聖書を唱えながら。
「聖書には殺人が満ちています」って解釈も自己弁護にはならないが、、、。
彼もある意味、原理主義者のひとりなのかも知れない。
その確信的な振る舞いからしても、、、。
これがロバート・ミッチャムの風貌で伝道師の姿であるため、みんながコロッと騙される。
(あのhateとloveの指文字のカインとアベルの物語も、話自体は他愛もないものである)。
「羊の皮を着た狼」でなければ、未亡人を20人も殺し続けられるものではない。

ロバート・ミッチャム見事な怪演である。


中盤以降の絵の説得力は凄まじい。
勿論、効果音も全く無駄がなく、音楽も情景にピッタリである。
全ての事象が象徴的な意味でコンテクストを紡いでゆく。
聖書を基調としていることが分かる。


物語全体を見て、女性の愚かさに転じてしまう危うさがひとつのテーマに流れている(レイチェルにもそう語らせている)。
狼を呼び込み、狼を守り、狼に秘密を打ち明け、狼に付け入らせる存在としての。
最後に身寄りのない子供たちを守ったレイチェルだけが、自覚的な女性として描かれていた。
つまり「羊の皮を被った狼」に騙されない強い意志と知性を持った勇敢な女性である。

但し、そこはアメリカなのである。宗教国家であり、プロテスタントとしての共同意識でまとまっている国である。
他の場でも度々書いたが、このピューリタン(宗教的迫害を逃れてヨーロッパからやって来た人々)としての集団意識が如何に強固なものか、そのこともまざまざと知らされるのである。であるため、多くのアメリカ映画にはこれが無意識のテーマとして流れている事は多い。薄っぺらいSFやホラー映画すらにも底流に流れていたりするものだ。
ここはわたしの感覚には、どうしても距離を感じてしまうところなのだが。(いつもそうである)。
その共通感覚を破ることは、大変難しいはず。
聖書の言説に絡め取られる度合いの問題でもある。
だから、ジョンとパールの母ウィラは、あのような目にあったのだ。
その結婚をしきりに進めたお節介おばさんも極普通の感覚をもつ一人に過ぎない。

最初と最後で語るレイチェルは、コロッと偽伝道師に騙された彼女ら(彼ら)と基本的にどう異なっていたのか、、、。
彼女も聖書に深い造詣をもっている女性である。
ジョンとパールの試練を「出エジプト記」になぞって語っていた。

何処にでも少しパラダイムからズレた感覚を持つ存在はいる。(ちょっと頑固な変わり者とか、、、)。
恐らく枠の中の充実よりも枠自体に思考を巡らすタイプの存在である。
通常の内容的な理解では見破れない「見掛け」を見抜く眼力であろうか。
レイチェルにそれを感じた。(批判的宗教家としての)。



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