バケモノの子

The Boy and The Beast
2015年
細田守監督・脚本
「おおかみ子供の雨と雪」はお気に入りのアニメである。「時をかける少女」も良かった。
どうも、邦画は、溝口、小津、、、以外実写より断然アニメだなと、思ってしまう。
人間界の「渋谷」とバケモノ界の「渋天街」のパラレルに存在する街を舞台に繰り広げられる物語。
役所広司のバケモノ熊徹はキャラクター的に実に自然であった。
宮崎あおい、染谷将太の少年蓮(キュウタ)も申し分ない。
楓役の広瀬すずが意外と上手なのには驚いた。
リリー・フランキーの修行僧百秋坊は良い感じであった。
大泉洋の多々良もそれらしいものであった。
山路和弘が猪王山と、こうみると声の方は声優ではなく俳優がこなしているではないか。
宗師は津川雅彦であった。流石にこの辺に来ると枯れた良い味が出ている。
更に猪王山の子供、一郎彦、二郎丸なども重要な役を果たす。
最近、このパタンは多い。
失敗していることのほうが目立つが、ここでは上手くいっていると思う。
しかし、折角専門の声優さんがいるので、彼らを使ったほうが、無難だとは思うが。
あの「チコ」というモノは何だったのか。
蓮が一郎彦に対し闇の力を放つことを留める大切な役は果たすが、、、。
渋谷の路地裏に入ると、何故かどの方角の奥にも花飾りの置かれたところがあり、そこから不意に渋天街という、ちょっと、「千と千尋の神隠し」にも似た異界に出てしまう。
この渋天街が蓮の目の前-ローアングルにキラキラ開けたとき、思わずワクワクした。
こんな光景をわれわれは望んでいないか?
こんな光景を探し歩いた記憶はないか?
わたしは、随分長い間、探し続けた気がしている。
(その為、もうヘトヘトである)。
人はこころに闇を宿すもの。
闇に呑み込まれないために、連はパラレルワールドを行き来する。
そこで得た絆―こころの支えが結局、連を救う。
人間界には、楓という知を育む師匠ができ、バケモノ界には熊徹という武術の師匠を得る。
(双方を極めれば文武両道ではないか)。
そして彼らは皆、孤独に耐えている。
ただ、闇を持っているのは、蓮と楓である。熊徹たちには闇は宿さないらしい。
確かにそう思える。
しかし、あれだけ自分の気持ちを率直に言い放て行動にも移せて、闇がこころに沈殿するものだろうか、、、。
(勿論、実存としての闇は不可避的に持つとして、危険レベルの過剰な闇はどうであろう)。
連もその点では熊徹と似たようなもので、結構健康的ではないか。
独りで生きるなんて、相当強いこころを持っていなければ言えない。
闇を増幅させるこころとは、通常自分の意思や感情を抑圧して周囲に従順に生活してしまう内に生じる。
寧ろ楓の立場なら頷けるが、彼女は賢明にもその自分を対象化し、将来の自己投企に備えている。
蓮の境遇であったなら、親戚に大人しく引き取られて日常を普通に送る中にこそ起こり得る。
であるから、バケモノ界一の実力者の長男でありながら人間であるという引き裂かれたアイデンティティに苦しむ一郎彦に、闇をひたすら肥大させる可能性は大きい。
しかも彼はそれを「念動力」に変える(つまり外にエネルギーとして向ける)能力を持っている。
これは、充分に厄介であろう。
猪王山が頼られる存在で多忙を極めていたため、一郎彦に充分向き合う場を持てなかったことが最大の原因と言える。
人間であるため当然親に似ず容姿に差が出る。
その為顔を布で隠し、殊更父を崇拝するところに如実に彼の苦悩が現れている。
親の見る目が必要であった。
ここは、粗暴だが素直で暖かい熊徹と素で親密なやりとりを日夜続けられた蓮が恵まれてる。
百秋坊と多々良もいろいろ口出ししながら暖かく見守っている。
蓮も熊徹もどちらも未熟だが共に磨き合えるというもの。
しかも、蓮には元の人間界にも、楓というこころ強い彼女ができる。
やはりここは、とても大きい。
おまけに父親まで見つかり、一緒に暮らそうと受け入れられる。
彼はいくらでも自分の力で戻れるのだ。
こういった事は、全く珍しいことでも何でもない。
普通にある事である。
自分の事も当然含め。
最後の一郎彦との決着とは何なのか、、、。
ある意味、自分のファンタジー界(逃避や幻想、迷い、しがらみ)からの決別とも取れるものか。
最大の友、熊徹をこころの剣に変え(再び)内面化してしまう。
こう言ってしまうと、成人の儀式(イニシエーション)めいたものになって矮小化してしまうが、、、。
やはり、こうして逞しくしかも人格的な調和がとれて、還って来ることがテーマであったであろう。
あの「渋谷」に、、、ここに、である。
わたしであれば、こころに、熊徹がいると思うと落ち着かないが、楓と優しい実の父がいれば、基本怖いものなしだろう。
喧嘩の方はやたら強くなってしまったし。
こういうのリア充というのか?
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