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ジキル博士とハイド氏

IngridBergman001.jpg

Dr. Jekyll and Mr. Hyde
1941年
アメリカ

ヴィクター・フレミング監督
「オズの魔法使い」、「風とともに去りぬ」とは、またかなり異なるとは言え、VFXもしっかり使われていて最後まで引き付ける。

ロバート・ルイス・スティーヴンソン原作
ヴィクトリア朝のイギリスを舞台にした噺である。
19世紀となれば、思想も相当高度に熟してきた時期であるが、それにしては素朴過ぎる「優秀な研究者」である。
ある意味、多重人格を劇的に表現している映画であり、そちらに注目して観ると面白い。
更に薬物依存の恐ろしさも表しているとも言えよう。


スペンサー・トレイシー、、、ジキル博士・ハイド氏
イングリッド・バーグマン、、、アイヴィー(水商売の美女)
ラナ・ターナー、、、ベアトリクス・エメリー(ジキル博士の婚約者)
イアン・ハンター、、、ジョン・ラニョン(ジキル博士の親友)

霧に煙る街灯の夜景が何とも言えぬ不安を湛えている。
ジキル博士からハイド氏へと顔が変身するが、VFXはなかなかのものであり、変身後の顔も漫画チックな下品さではない納得のいくものだ。(凄い形相のハイド氏も他に見たことがあるが、あれではアイヴィーが即逃げてしまうはず)。
ただ変身の際に飲む薬品はちょっと過激すぎる。
色も凄そうだが煙もモクモク上がっているではないか。見るからに劇薬である。
それを誘惑にかられ何度も飲むのだ。
何の研究なのか、本人はそれは何処かに置き忘れてゆく。

狂気の博士と言えばフランケンシュタインが著名であるが、このジキル博士も悪い心と良い心というものを実体化して、明確にそれを分離できるという突拍子もない考えのもと、片方の悪い心を消し去ることが出来ると確信し研究に明け暮れる。
(しかし19C終盤に現れるフロイトの学説も、唯物論的な科学として機械論的なアプローチをもって研究は進められており、科学として徹底する姿勢は似ていなくもない)。

周囲の人もそれに対し、それは神への冒涜になるとか、動物で成功したなどという事を平然と言う博士に、まだ人に試すのは早い等といっている。何を持ってその判断に至り確信を得たのか問う者もいない。
彼の前提とする考え-枠組みを崩す人は誰もいない。
周囲の人もひとのこころは善と悪で出来ていると思っているのだ。
善と悪とは何かとか、こころとは何かについての考察がない。
インテリの集まりの席であっても、この時期にしては恐ろしく素朴な議論しかなされない。
しかし、ジキル博士が「おかしい」ということを、誰もが直感していることだけは、まことに正しい。
そもそも何故、ジキル博士は、教会に行くのか、、、。
ベアトリクスは余程、他の面(医者として優秀など)で彼を慕っているのだろうが、父親は結婚など断固反対すべきであったが。

時折長期間に渡り、恐怖と暴力によって監禁される女性のニュースを聞くが、アイヴィーはまさにその例であろう。
不幸にしてジキル氏に偶然助けられた経験が災いした。
ハイド氏にも記憶はしかと受け継がれる。
つまりジキル状態にいた時も彼はアイヴィーをたいそう気に入ってしまっていた。
しかしそれは、恩師の娘ベアトリクスとの結婚を前にして意識化するのも避けたいこころの動きであった。
まさに無意識下に潜在させた悪いこころである。
そこで、ベアトリクスが父上と旅行中にちゃっかり彼は薬をやってハイド氏となる。
もう赤の他人とばかり、悪いこころ全開でやりたい放題。
確かにこう切り離して捉えられれば、お気楽この上ない。
これは悪いこころがやったの。わたしはもともと良い方なので関係ないと、、。
(こんな弁明を死ぬ前にもしていた)。
精神の弁証法的鍛錬も糞もない。
単にジキルの精神的なお粗末さが問題であっただけではないか!
罪なものだ。
あの向こう気の強い活き活きしたアイヴィーが衰弱しきってしまうことに、、、。
最後は殺されて、これ程悲惨な運命もない。


更に薬なしで不意にハイドに変身してしまうことで、事態はもはや収集がつかなくなる。
不幸な目に遭うのは、アイヴィー独りではない。
ベアトリクスとの結婚を期にハイドになるのを辞めようと思ったジキルであったが、勝手にハイドになってしまうのである。
その、意に反してハイドになってしまう「彼」の当惑の表情での変身は、哀愁を通り越してコメディタッチギリギリまで迫る。
ここは重いのだか、何なのか、、、。われわれまで当惑させてどうするのか。
あんなオドロオドロシイ劇薬飲んで副作用のないはずなかろう。
(わたしも気味の悪いビタミン剤を腰に手をやり駅でグイっと飲んで、胃が痛くなったことがある、、、関係あるか?)
ここが、この映画の肝だ。(原作は未読で知らないが)。

すでにジキル博士がコントロールが効かなくなり奈落の底にどのように落ちてゆくか、そのカタストロフを味わいたいという欲求しか、こちらにもない。
親友の前でも変身生ライブをやってしまい、もう後がない。自分はもう終わりだという自覚はもつ。しかし、、、
ジキルがベアトリクスに別れを告げ、そのまま立ち去ろうとしたところで、ハイド化する場面は皮肉であり大きな見所でもある。
ベアトリクスにも正体を晒し、駆けつけたその父親も殺害し、その後はスピーディーな展開で、ただ追い詰められてゆく。
流れはもう止められない。
最後は、逃げ込んだ自分の研究室に続々と詰めかけた警察官たちや親友からもう逃げられない、白状しろと迫られたところで、こともあろうに、と言うか案の定、わたしは関係ないジキルではないと繰り返し罪から逃れようとする。
そうするうちにまた変身してしまい(本来の姿となりというべきか)、大立ち回りをした末、親友に撃ち殺される。
ハイドが本質的な姿であり、ジキルは氷山の一角のほんの水から少し出た部分というところであった。
精神としての統合が進められていなかった。

そういった精神の場所からみるか、解離性同一性障害という病理における特殊性からみるか。
どちらからどうみても、面白いよくできた映画であった。
スペンサー・トレイシーの熱演、いや怪演は見応えがあった。

なる程、ナスターシャ・キンスキーがイングリッド・バーグマン似だということが、よく分かった。
ただならぬオーラが放たれているではないか、、、。
イングリッド・バーグマンの彼女らしい主演映画を観てみたい、と思う映画であった。

ラナ・ターナーはプレ・ラファエル派の絵に現れる美女のような繊細さと透明さが際立っていた。


Lana Turner001



明日は、娘2人のピアノ発表会である。
ドキドキして落ち着かない。

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