日野敬三「夢を走る」に触れて

「夢を走る」
現実もまた夢のひとつなどと軽々しく言えない、夢(または現?)です。
わたしたちに対していかなる意味でも親和性などひとつもない世界。圧倒的な自然の側に立った物質的な精細かつ速度感のあるディテール描写がもはや夢なのか現なのか判別できないまま展開してゆきます。
わたしもこれは夢であると知りつつ夢を見ていることがあります。大変鮮明です。起きているときよりもディテールが明瞭で深遠な世界です。そんなとき何をもって、夢・現というのかと疑う気持ちも芽生えるのですが、一方でやはりどこかで自分は横になって夢を見ているという意識が保持されてもいます。不思議です。さらに、一刻も早く醒めて欲しい夢もあります。日野敬三の「夢を走る」もまるで夢が入子状となっているかのような構造で大きな輪の中を主人公たちの群れが走り続けます。主人公(語り手)はその途切れることのない走り続ける世界に耐え切れず絶望を感じるたびに世界の淵から奈落の底に落下するようにまた新たな夢に落とされ、ただひたすらに過酷な道程を走り続けてゆきます。醒めない夢というものがあるのでしょうか?わたしたちはそれをもって現と呼んでいるのでしょうか。しかし主人公はただひとり?これが夢であるという意識はもち続けているようです。確かに夢のなかにおいて疲れることはないはずです。この主人公はとことん疲弊します。これもまた夢特有の描写のひとつか?疲れを克明に描写していくが実質(重み)がない夢特有の。ともかく現と夢の縁を彷徨う危うい光景―悪夢です。
作者、日野敬三氏は癌の手術前後に、何気ない日常を異なる世界(次元)がはっきりと侵食している様をありありと見届けています。幻視と呼ぶにはあまりに鮮明に完全に、あるべき世界と交錯してそれが厳然として存在しているのです。
切迫した死に目覚める意識世界(アルタードステイツ)―夢という圧倒的な他者性。これらはある意味、まさしく「自然」そのものと何かの法則で繋がってゆくのではないかでしょうか?ヒトなど一切受け付けない、関係しない世界。通常の意識などの到底及ばぬ世界。本来の「自然」と呼ぶ他ない世界と。
日常世界と自然。
この均衡は保たれていくのか?
その自然は、何かのきっかけで風の谷のナウシカの腐海に棲む蟲としてヒトの世界に侵食してくるものかも知れない。グレゴール・ザムザの悲劇をあなたに(わたしに)突然運ぶかも知れない。そして蟲ー名づけようもないものたちの群れと共に「夢を走る」、永遠に走り続けていくのかも知れない。
もしかしたら遠い銀河の果てで反世界ー反物質との接触が起きていないとは限らない。われわれの時間のストックが加速度的に減少し、人々の時空が歪み次々に眠りに落ちてゆく、全的崩壊が静かに始まっているかも知れない。バラードの描く世界のように、、、。

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