自由の幻想

”LE FANTOME DE LA LIBERTE”
1974年フランス
ルイス・ブニュエル監督
何か題でも付けないわけにもいかないし、と付けたような題である。
たくさんの俳優が出ていた。
のっけから「自由よくたばれ!」はよいが、全編痛快なアイロニーに染め上げられている。
自由、、、月並みなカビの生えた言葉である。
言葉や権威に雁字搦めになって、妙な慣例や制度に従って盲目に行動するヒトの滑稽で猥雑なシーンが次々と現れる。
芋蔓式に連なって出てくる形式は面白い。
どれも、お茶目で軽妙で挑発的である。
警視総監が何人いようが、出まかせの死んだ妹や、ビルの天辺からの無差別狙撃犯だろうが、目の前の不在の娘や、トイレと食卓が入れ替わっていようが、、、趣味がSMだか、賭け事だか、宗教だか、年の差恋愛であろうが、何の写真であろうが、母が危篤であろうが、癌であろうが、何であろうとも、、、名付けようで何とでもなる、いや全ての物事は名付けられることを待っている、それから人はシステムに即して行動しなければならぬのだから、、、職務や自由や思想・信条に拘ろうが、、、差し当たり皆、囚われの身なのである。(書いてるわたしも、、、クレタ島のパラドクスか)。
ちょっと説明的過ぎる感じの噺もあったがその分、滑稽さや不気味さはより強調されていた。
死んだ妹のエピソードで、彼女がモーツァルトを裸でピアノ演奏する場面だけは、異様な清々しさを覚えた。
これら芋蔓の中で、死者の場所からの噺だからか、言葉に埋めきれない強度がある。
しかしその死者からの電話で、警視総監名乗る男が墓地を訪れ、警視総監がふたり鉢合わせになったかと思うと、何事もなかったかの如く談笑を始める。(警視総監が何人いようが知ったことじゃないのだ)。
全ては言葉に過ぎない。
眼前の娘の実在も言葉に覆い隠され、ビルの上からの無差別殺人犯もヒーローになる。
恐らく尽くそのように、在るのだ。
更に、その乾いたそっけない銃声が日常に裂け目を入れる象徴的なものに響く。
驚く間もなく突然、生を中断させられる者たち。
(しかし中断以外に何がある?)
そもそも彼らは生きていたのか。
撃たれる者たちも、誰かが撃たれた事に唖然とする者たちも、何か人形めいて、、、。
自由の幻想によって機械的に動く街を俯瞰する視線はブニュエル自身のものか。
少女に名所絵葉書写真を怪しげに渡す男も。
するとカフェで、出任せに死んだ妹に似ているなどと引掛けの種にする警視総監もそうだ。
あの幻想の妹の姿は、一体誰に向けられたものか、、、。
そう、日常の干からびた想像力に訴えた画像か。
不意に露呈した生の感触にも想える。
言葉が自壊する。
自由が内破する。
「自由よくたばれ!」がまた叫ばれる。
反復する。
この小噺は、この先も延々と続いてゆくのだろう。
シュールレアリズムというより、アナキズム、DADA!を感じる。
爽快ではある。
だが、噺自体が面白いという訳ではない。
わたしにとって自分の怒りに抵触する部分が多かった。
(勿論、映画のエクリチュールに愉しんだとは言えるが)。
たまには、こういうものを観ないと、感性が錆び付く。
自由の幻想、、、確かに笑える。
舛添氏の答弁に対して、内田裕也氏のコメントが痛快であった。
「あれは、ロックじゃない!フォークだ!」
わたしが聞いた限りで、最も説得力あるコメントだった!
(とても納得してしまった)。
いろいろグダグダ言っている中で、ずば抜けていた。
この映画を観た後で、何故かこれを思い出した。
イメージ、感性に訴えるもので、想像力を刺激するところがあったからか、、、。
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