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去年マリエンバートで

LAnnée dernière à Marienbad

L'Année dernière à Marienbad
1961年フランス・イタリア
アラン・レネ監督
アラン・ロブ=グリエ脚本

ヌーボーロマンの旗手アラン・ロブ=グリエの脚本がアラン・レネの手によりほぼそのまま映像化したものだという。
非常に緻密に構築された映画である。

A、、、デルフィーヌ・セイリグ
X、、、 ジョルジュ・アルベルタッツィ
N、、、サッシャ・ピトエフ


「瞳の中に何かがあった。あなたは生きていた。」
XがAに語る。

わたしは、振り返ってみると、ひとの眼を見て生きてこなかった。
避けてきたと思う。だから、あなたが生きていたかどうか、分からないままでいた。
それは同時に、自分が生きていたかどうかも分からないことになる。


舞台は、時間と空間の錯綜する擬場とでもいうべき場所-館と庭園である。
と言っても何があるでもなく、何が起こるでもない。
いや、何も起こるべきではないどこかであろう。

ここで映画は、厳密に映画のエクリチュールの内で進行する。
決してそこを離れた意味はもたない。
プロットやテーマであるとか、教訓、心理、イデオロギーなどの超越性に接続しない。

広大なフランス式庭園をもつ陰鬱で豪奢な館での舞台劇からいつも始まる。
しかし、どこから始まろうが意味はない。
時間はバラバラな夢を繋ぐように切り貼りされ、視点はAとXの間を彷徨うのみ。
ただ視点が存在すること自体が、奇蹟でもある。
それ以外の視座は芽生えようがない。
館に集まる夜会服の人々は皆、幻影だからだ。
よって「映像そのものが生の時間」である。

硬直する人々。
飲食せず、眠らず、魂の感じられない彼らは、まさに夜に目覚めるオルゴールの人形のよう。
なかでも精巧に出来ているのは、Nか。
カードさばきの正確さはまさに機械である。そして絶対にゲームに勝つ。この館の歴史に精通している。
彼は、その強度からAの夫かも知れぬ存在らしい。

どうやら、話は壁に掛けられた一幅の絵から自動的に生じているらしい。
場所に纏わる幽霊が一時その絵の世界を模倣してゆくのか。
長い廊下や高い天井には姿なき声が木霊する。
舞台劇が始まり、その再現~続きをふと現象化した彼らは演じ始めてもいる。
ひと時をナンセンスな討議や虚ろなお喋り、必ずNの勝利するゲームや射撃に興じ、やがてシンと静まり返る。
広大な庭園に立つ立像たちの如く。
それが際限なく反復されてゆく。
これは、一体何なのかも問うものは勿論いない。

ただ、その得体の知れぬエネルギー体の中のゆらぎのようにたち現れるXは、そのエクリチュール(決してコンテクストではない)から超脱を試みる。
何故かは分からない。
ドラマを必要とするからか?
いや恐らくどのような系においても、そのような現象は又は変異は起こるのだ。
BIGBANGのように。

Xは、周囲の彼らの瞳を見る意思をもってこれまで何度も生じてきた。
そしてAに「生」の兆候を確認する。
いや正確に言えば、Xの志向性に対しAが身体的(無意識的)に呼応したのかも知れない。
Xは、彼女に「去年関係を持った」事(物語)を何度も説いて植え付けようとする。
その言葉によって、彼女に動揺を与え、意識と記憶を懐胎させようとする。
彼女はその「事実」を否定し、撥ね付けるが、それは決してその記憶を抑圧しようとか、嘘に憤慨しているのではなく、あくまでも記憶をもつという体験、精神の目覚めに怯えているのだ。(それは死の恐怖に近いものか?)
Xは、彼女との間にプロット=記憶の文脈を捏造しようと交渉を繰り返す。
それによって、この物語に並行する亜時間が生成され、そこ(別の宇宙)に共に展出できるからだ。
しかし、彼らには作動時間の制限がある。
幻影人形は、一時の祝宴?を終えると消えてしまい、XはまたゼロからAの覚醒に挑まなければならない。
机の引き出しに夥しく貯まってしまった「Aの庭園での写真」がその無残な挑戦を物語っている。

XはAと一緒でなければ、ここを、この世界を脱出できないのか。
恐らくそういうものなのだろう。
意識は対象を必要とする。

Nは、その写真の存在に気づき、Aに問いただす。
Aは、すでに自我をもっており、曖昧に応える。
以前も、Xに対し「愛してるなら、ここから消えて」と言って、Nの監視から逃れていたことがあった。
Nは射撃場に行くふりをして、権利上この世界の秩序を守るため彼女を銃殺する。
彼はこの世界のゲームを司る存在なのだ。
しかし、時間は複雑に切り貼りされており、入れ替わる。
Xもその主体性をもって、それを差し替える権利を持つ。

Aが感情の発露とともにグラスを割ったとき、視点は彼女に移り、彼女にアイデンティティが生じた事が分かる。
その証拠に彼女は気持ちを昂ぶらせ、涙を流す。
細切れにモザイク状に組み込まれたシーンにXのものでない幾つもの「彼女の視点」が存在していることに気づく。
そして、反復の末、XはAを自分の時間に引き入れることが出来、共にその館を出てゆく。
完全な終わりが訪れる。
階段を降りてくる館の主であるNがそれを確認する、いわばカメラによる蛇足的なところで、物語は終わる。


「瞳の中に何かがあった。あなたは生きていた。」
こんなふうに一度でも相手の瞳を見ることが出来ていれば、わたしも違う世界に生きていたかも知れない、と思う。


このエモーショナルな映画は、わたしの身体性にとても馴染むものであった。


LAnnée dernière à Marienbad02
LAnnée dernière à Marienbad003



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