戦闘機対戦車

Death Race
1973年アメリカ
デヴィッド・ローウェル・リッチ監督
チャールズ・クエンストル脚本
ロイド・ブリッジス、、、ハンス・パイムラー将軍
ダグ・マクルーア、、、カルペッパー中尉
ロイ・シネス、、、マクミラン少佐
エリック・ブレーデン、、、シュテッファー
二次対戦も終盤、砂漠の広がる北アフリカ戦線上で起きたかも知れないドラマ。
1機の戦闘機と1台の戦車(アメリカのM4シャーマンをドイツのパンターに見立て)との虚無な戦い。
この戦車両方プラモデルで幾台も作った。(懐かしい)。
全くけれんみの無い、ヒューマンドラマである。
名作である。
人が不条理で究極的なところに追い詰められたとき、どのような在り方が可能であろうか、という物語であった。
文字通りの究極の選択を彼らは迫られる。
それぞれのキャラクターも際立っていた。
戦争時期の映画には、よく砂漠が出てくる。
ここでは、それが舞台だ。
ドイツにとっては、すでに敗戦が決まった戦争であり、この戦車においては行先も目的も失ってしまった。
そこに現れた、自分の師団の全滅から独り生き延びたドイツの将軍。
彼はこの時点で正気を失っていたのかも知れない。
と言うより、行くところまで行き着いてしまった戦況において、人間の持つ狂気の一つが研ぎ澄まされてしまったのかも知れない。
アメリカ軍のカルペッパー中尉とイギリス軍マクミラン少佐のコンビの飛行機が丁度そこを差し掛かる。
彼らはドイツ軍の仕掛けた地雷を爆破処理するために送り込まれた。
しかしたまたま居合わせたドイツ軍の補給隊を深追いした少佐の飛行機はその戦車の砲撃に当たり彼は脱出するも負傷する。
少佐の助けに入ったカルペッパーの飛行機も羽を撃たれ、ラジエターも壊される。
そこから、この戦闘機、基本的に空が飛べなくなる。
地を滑りながら逃げる飛行機を、もはや尋常でない精神状態のドイツ軍パイムラー将軍に操られた戦車が執拗に追跡してゆくのだ。
まさに、地の果てまで戦闘力を失った飛行機を追い詰めトドメを刺すつもりである。
もはや、それが自己目的化してゆく。
その過程を延々と、ひはひたと追ってゆくかなり消耗する映画だ。
しかも追い詰めた先にある場所が、何と例の一面地雷の埋め込まれた地帯なのだ。
自殺行為ではないか!
この情報は、戦闘機コンビにも、戦車のドイツ兵にも、知られてしまう。
その将軍は、まともな頭脳でしきりに訝る部下となったばかりの兵士に、そこに我が軍の秘密基地がある。それに合流し、連合軍の後方を攪乱し勝利へと導くのだ、と捲し立てる。更に地雷はわたしが埋めさせたのだ。それを抜ける道はわたしが知っていると。
戦車に乗ってるドイツ兵は皆、あぶない将軍に危機感を募らし焦燥と疲労を増してゆく。
最終的に狂気の鬼ごっこの末、重傷を負ってしまった少佐が、カルペッパーの勧めに従い降参ー白旗を上げることに同意したため2人でハンカチを振り戦車に向かう。しかし、将軍は降伏を認めず、部下たちが止めるのも聞かないで2人めがけて発砲してしまう。
それによりマクミラン少佐は絶命する。
ここで、それまでチャラ男であった独り生き残ったカルペッパーの表情がキリッとハンサムに引き締まる。
意を決した人間の表情であろう。
(ある意味、1番印象的なシーンであった)。
彼は戦車に対し、ろくに飛べない飛行機で挑むが、、、。
この映画、ドイツ兵がとても人間的に描かれていた。
ヒト対ヒトの関係になっている。
最後のシーンは特にそれを表している。
戦争下では、往々にしてこのような場面はあるだろう、、、
しかし日常生活においても、パイムラー将軍のような××な者はいくらでもいる。
反面、将軍を撃ち殺し、カルペッパーに水を差し出すドイツ兵シュテッファーのような人物もいる。
極限状況でなくとも、それが鮮明化する場面は、多々見られる。
うちの近所でもそうであるから。