写真についてーⅡ

このメタセコイヤたちは愛情たっぷりに撮られている、メタセコイヤの肖像写真みたいだ。
わたしの身体性に地続きの優しいフレーミングでもある。
この向こう側に、メタセコイヤの吐息が聴こえてきそうな彼らに密着したメタセコイヤの道がある。
常に木漏れ日とそよ風が絶えることのない、時折噴水の水しぶきが虹とともにかかるお気に入りの一本径が控える。
事後承諾であるが、この写真と後の写真の二枚、エストリルのクリスマスローズより、転載させて頂いた。
以前、「写真について」の記事で、写真の感情喚起する作用に少し触れた。
写真が説明的、資料的な機能を引き受けたので、絵画はその機能を放棄したという解説が一般的であるが、写真はいつも説明的、資料的以上の何かを語ってきた。
資料的役割に徹しようとしたアッジェが最もその機能を激しく逸脱しているとも言える。
アンドレブルトンもそこに注目した。(流石である)。
恐らく禁欲的な写真ほどリアルな幻想を孕むのかも知れない。
リアルなほど幻想性を増すのは、カフカの小説に如実に見ることができる。
余計な(お節介な)エフェクトがかけられている方が写真の意味が限定され、つまらないものになることは多い。
ただ、その時空を切り取っただけ、と言ってもその人の深い身体性ー現存在が如実に現れてしまうものだ。

ところで、自分がよく娘たちとほっつき歩いている日常的な場所が、写真によって一体ここはどこなんだという光景になっている好例である。
透徹した文学的写真である。
青空とメタセコイヤの圧倒的な重みが実に鮮やかだ。
まさか、このなかをわたしが、時折娘たちを叱りつけたりしながら歩いているとは思えない。
普段、周りは知らぬ人ばかりだという前提で歩いているのだが、もし知っている人にそこを見られたら、モグラの穴にでも入りたい気分になるはず。
この写真の部分がクローズアップされると、少しばかり人間的なドラマも見えてくるだろうか。
しかし写真は距離を切り取るものでもある。(それは同時にフレーミングを決めるもの)。
宇宙空間から観た地球にもある意味、これは似ているかもしれない。
この視点から自分の日常を見直してみなさい、と提示されているかのよう。
それは大切なことだ。
わたしにあれこれ言われながら歩く娘たちは、寧ろ微視的な視座をもっているようだ。
芝草の中の細かい虫などをよく見分ける。
その虫の顔をわたしからくすねたルーペで、しげしげ見ていたりする。
娘たちは、漠然と隣にある女子大に行くの、と言っているが、理由を聞くとこの公園で遊べるからと答える。
最初は、子供の考えていることは、、、と思ったが、満更でもない。
大学院を卒業したばかりの作家の展覧会をアートミュージアムで見たら、その人も授業中抜け出してここで虫採りをしていたそうだ。そのためたくさんの作品をものにしている。娘も見習ってもよいのかも?
わたしが一番つまらぬ距離感でものを見ている恐れもある。
写真がよく気になるのもそのためかも知れない。
多様性と言いながらも自分がどれだけ多様な時間を生きられているか、、、。
自分がそのなかを幾度となく行き来している場所の写真を見ることは、とても興味深い。
しみじみ魅入ってしまう。
自分にとっては素敵な資料である。
(地球をまるまる見てみるのもよいが、この距離感も必要である)。
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