13F~サーティーン・フロア

The Thirteenth Floor
1999年アメリカ
ジョセフ・ラスナック監督
ローランド・エメリッヒ製作
クレイグ・ビアーコ
アーミン・ミューラー=スタール
グレッチェン・モル
ここで役者たちは、時代・立場を超えてひとり何役もこなす事になる。
充分役柄を理解した好演であった。
”13F”っていう題が余りに地味(又内容にほとんど関係ないの)だが、傑作である。
ここまで惹きつける映画は最近無かった。
1999年の科学者が1937年のバーチャル世界を創造し、創造主として実験的にその世界に介入を繰り返していくうちに、何と1999年の世界も誰かに創造されたバーチャル世界であることを突き止めてしまう。これはまさに天地を覆す驚愕の事実であった。
実は2024年こそが大元で、その時代に作った何千というバーチャル世界のなかで、1999年のバーチャル世界が唯一1937年という孫バーチャルを作ってしまう。それだけでも混乱を生じるのに、自分たちの世界がバーチャルであるという自己認識すらもってしまう。この発見をしてしまった1999年の博士はすぐにその部下(主人公)に乗り移った創造主に殺されてしまう。
ゲームのコマが自らがコマであることを知ってはまずいか、、、そりゃその時代での創造主の好き勝手が効かなくなるか、、、(当然あのバーテンのように防衛に出るだろう)。
しかも、そのオリジナルの時代でバーチャル世界を作った男の妻が1999年の、自分の夫をコピーしたバーチャル男(主人公)に恋をするということで混乱も増してくる。(顔が同じなので見ている方にも紛らわしい)。
何というか近頃流行りのゲームキャラに恋をする感覚なのか?
自分たちと同レヴェルに高度化したキャラであれば、ほとんど外国人に恋する感覚に近いか?
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ともかく作られた世界の住人は自我をもち勝手に発展するのである。
(その時点ですでに、バーチャルなんとかではなく、創造物以外の何者でもないが、、、)
最近のAIのディープラーニングの件をひとつみても高度な情報処理能力さえあればそんな展開も見られるのだろうかという気もしてくる。
つまりそこまでの自律性(主体性)と創造性が育てば、何が偽でどれが本物など全く意味が無くなる。
同レヴェルの存在と化す。
(現に1999年の科学者チームが、1937年の自己組織化するバーチャル世界を創造してしまうくらいだから)。
何であれその枠内でリアリティを持って生きていてば、仮想空間もなにもない、それでひとつのリアルな世界である。
その枠外からの超越的評価など余計なお世話だ。
1999年のポリスも終盤に例の妻に「この世界をほっといてくれ」と格好良く言い放っている。
(それが2024年からすれば逆に脅威ともなるところか、、、)。
この物語は創造主たちが、それぞれの世界に介入して好き勝手をしてお遊び(殺人)を始めてしまったおかげで、事件が起こり厄介なことになる話である。
意識を同期(ダウンロード)してその世界の特定の存在に乗り移ってくるのだ。
その間、その仮想空間の人間には意識・記憶がほとんどない(介在する余裕がない)。
そこで彼らは一定時間やりたいことをして、元の時代に戻ってゆく。
ただ、乗り移られた者も、大迷惑だが何も気づかないというわけでもなく、その時の経験が、何処かで遭ったことのある人(もの)などの残像イメージとして残る。自らの存在と経験に疑いと内省をもつ。
文字通り既視感である。
そんな介入を時としてわれわれも感じないこともない。
こういう、誰もがもちかねない疑念を上手く拾い上げて作っている作品であるため説得力がある。
(また実存としてある、われわれの超越願望を逆なでするように刺激するものだ)。
演出も良い。
レトロなVFXだが、必要充分な効果をあげている。
特にスモークとレザーは独特の風合いがあり饒舌であった。
世界の「果て」の光景には、郷愁すら感じ唸った。
(集合無意識的な「果て」であった)。
これは明らかにVFX技術に寄りかからない確かなプロットの映画であるからこそ可能となったものだ。
そして何より1937年の舞台が素晴らしい。
街並みや車やホテル、ダンスホールなどディテールまで説得力のある再現がなされていた。
一定時間放心していたり、記憶が飛ぶ経験のある人(わたしのように)なら、かなり共感とリアリティを感じるはずだ。

最後はカーディガンズの曲だった。
選曲の趣味が良い。
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