無意識という言葉

「無意識」
一番都合よく使われる言葉かも知れません。
危険な言葉です。
無意識と言ってしまったところで、「意識」が構造化している。
免罪符をもらって、正当化している。
先程、昔の読書ノートを見ていて、引用に使おうと思って書いたものには作者名と書籍名を書いているのですが、ただの重要な一文を走り書きしたものは、誰のものか分からないモノが結構あります。
しかし、これはすぐに誰が言っているかは、分かります。
「心理学は精神の不在証明に使われる。」
小林秀雄さんです。
無意識に関する知識がヒトに、自分と戦う力を喪失させてしまうというような下りにあったもののはずです。
自分と戦わずに他人とばかり戦うようになる。
まさに現代の様相です。
「無意識が個人を取り巻く社会環境にとって変わった。
社会の階層構造を考えるように、無意識界の合理的構造を考えるようになった。」
芸術作品の分析などにおいてもことごとく無意識の分析がおこなわれ、作品(さらに作者)の精神には触れられないことは少なくありません。
心理と精神が混同されることへの危惧は、小林氏は何処においても基調として論じていたように思えます。
ここが極め付けです。今回、これだけが書きたかったことです。
「もし芸術作品の個性というものを言うのなら、それは個人として生まれたが故に背負わなければならなかった制約が征服された結果を指さなければならない。与えられた個人的なもの、偶然的なものを越えて、創造しようとする作者の精神だ。」
個性とは外化された無意識などではなく、「精神」であると。
われわれは「個性」という言葉も随分貶めている。ヒトが環境=無意識=運命によって形作られた結果を個性と呼ぶことがなんと多いか!とんでもない。そこには、いささかも創造的な運動が見られない。それによる生成過程こそが個性=精神と呼ばれなくてはならない。
わたしも「無意識」を都合よく使ってきたきらいがある。
自分と戦えない人間ほどそうだ。

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