見えない重力を描く Ⅱ

児玉氏の絵についての感想を幾度か書いたが、わたし自身思春期に複雑な思い入れがあるためである。
あの作品群(10点+1点)がそこから出てきた絵であることは一目見れば確かである。
(わたし自身、考える良い機会となった)。
その元イメージー=思想がどんなものかは容易に析出し得ないが。
絵は言語に比べ形式上、遥かにイメージにおいて限定的である。
奈良原一高氏がかつて述べていたが、「光」を表すとき写真では不可避的にその光として限定されるが、ことばで「光」と言えばそのイメージは限りないものだ、、、といったことであった。
しかし、そのニュアンスと方向を与えられたイメージがまた、饒舌で芳醇なのである。
雄弁なのである。
それは奈良原氏の圧倒的な写真作品で逆によく分かるところであろう。
同様に絵画もその限定性によって遥かに雄弁で芳醇であり得る。
大体、われわれがことばのイメージをどれほど豊かに持ちあわせているだろう?
例えば、宗教的法悦を言葉で言い聞かされても、あのエルグレコの天に向かい果てしなく丈高く伸び上がる聖者たちの絵画のイメージを凌駕出来るとは、想えない。(ベルニーニの彫刻でも構わないのだが、、、ここは絵で)。
ことばの「光」の速度を上回る絵画イメージは、ある。
また、重力を語りえている絵画はある。
勿論、絵画には解釈の幅も不可避的に大きい。
言語は言語によってなされるが、絵画を全く形式の異なる言語で語るのは、端から二次的創作は免れない。
(言語ー言語の批評も当然、従属性はあっても新たな創作となるが)。
ただ、ここでわたしが絵を前にしながら、遡行する(それは上方にか下方にか)引力があるということ。
見えない重力を想わせるのだ。
(絵は必ず絵以上のものである)。
そう、実際何を、と言うより重力そのものに行き着くことなのかも知れない。
つまり、究極には何らかの自然の原理を感知するまでの実験の場なのかもしれない。
そのはじまりの過程を見る思いであった。
「等閑の境界、多重するズレ」という初期(古い)作品に遡行してみる価値を感じる。
「ズレ」というのは、非常に確信犯的である。
新しい作品では、「青空の空隙」に愛着がある。
具体的な技法(視座の多重化)による多重なズレを現出している。
まさに「青空=日常」の「空隙=宙吊り」思春期の少女の瞳の強度による。
シーツの鏡への変容は、微睡みから自覚(映る)への内省の過程である。
皺は必然的に鋭い割れ目に変貌する。
どちらも全く日常の光景の一瞬の多重なズレの確かな光景である。
ここで、児玉氏の絵に関しては、とりあえず終了する。
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