美の翳りに寄せて

それは確かにあるのか、あることすらはっきりしないが、ないはずがない自分を揺さぶり、煽る何らかの実体。
美―調和と健全、の翳りに存在するもの。
病、メランコリア、ペシミズム、デモーニッシュなどと呼んでみたところで何もはじまらない。
他にもルサンチマン、ニヒリズム、デカタンス、、、等々。
それらの物語に絡め取られるばかり。
ただ、われわれが厄介だと感じるのは、いや厄介くらいならまだしも、真っ当な生を送れない程にそれに支配されてしまうことであろう。つまりは無意識の奴隷として。
それを構造化して捉え直すことで、翳りを新たなことばに回帰させたい。
言い換えれば、自己存在における不安、という未分化の何者かを有機的に分節する。
やはりそこからしか始まらない。
われわれ個々に課せられた仕事であろう。
それを読み解きたいとか、見易くしたいなどということではない。
紋切り型の象形に還元して安心を得よう(それは無理で、余計に病むことになる)というのではなく、形象を新たに生み出したいのだ。
念を押すが、無意識に揺さぶられるだけの奴隷とならないための仕事である。
ただ、自分のことば、自分の生の現在点を見極めたい。
今を十全に生きるに、必要な作業として、、、
、、、絵画制作は、その一つと成りうる。
しかしそこにおいて美とは、まだ可能なのか?
無論、それは定義の問題ともなろう。
わたしが、ここのところ観てきた絵画で、創造的アプローチをしているものに、同時代性の翳りを見ないものはない。
少なくとも伝統工芸的なもの以外、健やかなギリシャ的調和の美からは、遠いものばかりだ。
しかし、何というか美が手放せない、言い換えれば整合性―象形に最終的に寄り添おうとしてしまう例も少なくない。
フランシス・ベーコンなどは、突端の優れた例であるが、巷の自覚的な芸術においては、どんな水準の作品においても、度合いの差こそあれ、それが窺える。
またそれにおける、葛藤が感じられる。
フランシス・ベーコンのように戦略的方法を見出し、先鋭的に突き抜ける特異な画家はいる。
が、多くはそのような方法まで析出しない。
様々なレヴェルで、彷徨う。
具象的可能性に見切りをつけた画家は純粋抽象を選択してきた。
しかし、多くの作品が、具象的・抽象的を問わず、描いた際から見慣れたものに落ち着いていってしまうのは何故か?
象形化するのは何故か。
認識の度合いなのか?
単なる作者の身体的思い切りの悪さのレヴェルか。
方法の欠如によるところか。
とは言え、それらの作品は美と言うには、少なくとも禁欲的過ぎる。または、神経質過ぎる。
彩度の低い、又は狂乱する原色のぶつかり合う配色で統合より分裂・解体に向かう傾向は似ている。
感情よりも理性がやはり優位を占める。
その共通項はリアリティの追求からくるであろう。
理想的な美の構築・創造が仕事ではもはやなく、神にすがる宗教画は不可能である現在、作家の仕事は、リアリティの追求でしかない。
あらゆる面において齟齬・喪失・不安・不条理が先にある地平において、創造とは不可避的に現実との格闘となる。
勿論、リアリティと言うからには、自分の場所からである。
他の場所のリアルなど原理的ー身体的にない。
であれば、そこだけの形象の切り出し作業が始まる。
類型性はあろうが、独創は不可避であるはず。
後のその部分。
つまり、怪物のままの部分が観たい。
(紋切り型と言い換えても良いが、逆から見ればそれであろう)。
恐らく何故、怪物は怪物でいられなくなるのか?
多分考えるべきはこっちの、方だ。
ここで突っ込んで語る余裕はないため、また後日にまわしたい。
翳りが構造化され怪物として動き出す。
最近は劇画調(コミックタッチ)のポップな象形に堕落するものを多く見る。
それが怪物で有り続けるには、、、。
続きは、「美の翳りに寄せてⅡ」にて。
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