思春期への遡行

久しぶりに絵を見て想った。
重厚で先鋭的な思想や、戦略と技法で描かれた作品には圧倒される。
ことばがそもそも出ない。
まだ、どう語ってよいか分からないからだ。
新しい形というより、見えなかったものが現前している。
またそれらは、暫くすると変身する。
われわれは大概、追いつけない。
慣れる前に、変わってしまうからだ。
絵に限らず、そんなものが作れたならきっと、面白い。
(絵はある意味、一番難しい領域かも知れない)。
だが、理解は得られない分、作者は孤独であり、孤高を強いられる。
勿論、達成と満足は得られるも、、、いや、甘い。作家は例え世間がどう言おうと、絶対に満足を感じない生き物である。
だから永遠に反復する。それは、その生と同義になる。
大概、誤解・誤読で文化は成り立ってきた。
多様というのは、そういうことだ。
作者もそれを受け取る者も、本当の意味など原理的に分からない。
各自が自分のスタンスで意味と価値をその都度、見出す。
その都度、感動したり憤慨してみせる。
しかし理解できなくとも偉大さを厳然と示す。そんな圧倒的で異質な力を及ぼすものがある。
完全に選ばれたもの、である。
別格というか孤絶した傑作、、、。
とは言え、そんな至高の鏡より、もっと受け取りやすい鏡がある。
実は、後者にわれわれをより活き活きさせる力が宿っていることが多い。
所謂、好きな作品というやつである。
大傑作と好きな作品とは、異なる場合が多いものだ。
だれも成し得なかった形象を見せる努力は必要であり芸術家であれば必然だが、誰もが知っている既視感のある紋切り型から、生きる力を更新する方法も有り得る。
価値はある。
鉱脈を求め、思春期に遡行し、幼少期、更に幼年期などの地層を掘り進み。
例えば、ディテールを極める。
時空間の変質と多元化。
要素の再構成。
カットアップ・コラージュなどの技法。そう技法の工夫でより鮮明に浮かび上がらせる。
(ひと思いに生物全般~鉱物に飛ぶ方法はあるが、まずその前に)。
つい最近見た絵に、その可能性を感じさせられた。
われわれを未だ停滞させている事象の多くが、その場所に畳み込まれている何かの作用を受けていることは、確かなのだ。
解決済みのものは、何もない。
それを可視化するだけでも、有効であるし充分に美しい。
昨日の絵画鑑賞の続きは、こちらへ。
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