夏になると想い出す

夏を心底味わおうと言うことで、と言うのは言い訳で、娘2人を連れていつもの公園にきたはよいが、大噴水の近くにそう長くいすわることも出来ず、遊具も焼け付く暑さで、いたたまれず、熱帯植物園に逃げ込んだ。娘もへーへー言っている。でも公園で遊びたいのだ。なぜか?広いから。大きな木や綺麗なお花がたくさんあるから。アイスクリームが食べられるから。池や噴水があって、鴨もかわいいから。ハーブティーが飲めるから、これはわたしか。
植物園に入ると、もわっと例の植物の吐き出している質量の重い吐息に包まれる。巨大なバナナの葉っぱ。多肉類の様々な巨大で分厚い造形。アーティフィシャルでこれまた大きすぎる花と棘そして実。垂直に上昇しては重さで垂れ下がるオブジェ。そして植物園にはお決まりのようにある滝。バシャバシャ落ち続ける水。それにきまってはしゃぐ娘たち、、、をみながら浮かび上がる光景がある、、、。
植物についての思想・感覚を自身の研究や文学の根幹に据えた学者・思想家は少なくないと思うが、ゲーテやルドルフ・シュタイナーは特に深い思索をもって作品に昇華し、言及される機も多い。しかし今の私の眼前に凄まじく不気味な生命力をもって喚起される物ー世界は、ブライアン・オールディズ、「温室」です。勿論、「地球の長い午後」が邦題。静謐な思考をもってではなく、ほぼ無思考的に喚起される噎せ返るようなグロテスクな生命そのもの。
自分の体調から事の他そう感じるのかも知れない、一種のアルタードステイツ、いつもよりまわりのものの異物感が際立つ。何にしても、それが契機となり、あの「緑色の光の柱」がジャングルからすべての生命を吸い取っていき、熱がさらに加わるにつれ、退化の過程が加速されていく、未来の記憶を喚起させた?
そこではすでに地球は自転を止めていた。相対的に動きの止まった月とのあいだを植物の蔓がはりめぐらされ、ヒトの希望は天にのぼって行くことだけが残された。植物の蔓の間をつたい天へと。様々な植物に襲われながら重い世界ー地球から子供をさらって逃げる主人公たち。恐ろしく説得力のある奇想天外な冒険譚。そう、あれらはみな、植物の体表感覚から見て(感じて)書かれたものなのだ。
「植物に再吸収されることの幸福と恐怖」エントロピーという大局的な流れに呑まれつつ、ヒトはみな植物に吸収されることを想い出す。植物だけが最後の生命ーネゲントロピーとして残る。圧倒的な巨大な生命として。しかしここでブライアン・オールディズの提示するヒトの生き残りの僅かな可能性には瞠目する。寄生植物がヒトの頭蓋に内在して共生進化(同化)した新生物としての存続である。この方向ー形態でのわたしたち?の生存の示唆は興味深い。確か、、、アミガサダケとの共生だった。
ヒトは内骨格をもって運動し、植物は体表感覚をもって導く。その相利共生体。どんな形をしているのやら。

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