ジャック・アンリ・ラルティーグ

日中、ポカポカ陽気であったため、ベランダのいちごプランターの前で、思い切り寛いで本を見たいと思った。
文字を追うと、すぐにちょっとした単語に過剰反応して興奮し、落ち着いていられないのでドゥルーズとかは、やめる。
ロラン・バルトもダメ。モーリス・ブランショは多分眠る。ここで寝るのは危険である。
ということで、写真集を眺めることにした。
取り敢えず持ってきたのは、マン・レイ、アルフレッド・スティーグリッツ、ロバート・フランク、ウォーカー・エバンス、アンセル・アダムス、ジャック・アンリ・ラルティーグ。
その他、リチャード・アヴェドンとか、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ダイアン・アーバス、そしてウジェーヌ・アッジェなどなど、、、大物が控えているのだが大判で重た過ぎるので、無理である。膝に置くと痛い。
選ぶまでもなく、ジャック・アンリ・ラルティーグにした。
書庫から運ぶ時点で決めていた。
思いっきりボケっとできる。
久々に見るラルティーグ。
純粋に、面白い。
大写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンとはかなり違う(笑。
勿論、ジャック・アンリ・ラルティーグにも「決定的瞬間」写真は数多い。
というか、それ狙いの写真ばかりが目立つ。
だが、ブレッソンに比べると、ギャグみたいな光景だ。
本人もそんなつもりで撮っているに違いない。
やはりアンリ・ルソーを想わせる。
だが、ルソーは素朴ではあるが、結構技法的な工夫を見出して描いているのだ。
ラルティーグは興味と好奇心に満ちているが、探求は感じられない。
少なくとも芸術家の苦悩など、どこ吹く風だ。
面白いシーンを切り取りたい、童心に近い「一心」が窺える。
単に”アンリ”つながりの連想をしてしまった(笑。
しかし、ルソーと比べると面白い。
彼には実にルソー的な、スポーツ写真がいくつもある。
ルソーの絵の下写真に思えるほどのものだ。
だが、ルソーはかなりの時間と試行錯誤を経てその絵を完成させる。
それは勿論、「絵」という形式であるための制作方法的な要請としてでもあるが、それだけではない。
構成・構図・技法などを考え、構想して制作している。(所謂素人絵描きのボンボワ達の素朴派とは、一線を画する。しかし紙一重的な部分が無いとはこれまた言い切れない、、、)。
ラルティーグは、動くものを見据えて、ここぞという時の運動神経勝負である。
釣りのようなものか?
構成的な静物・風景・肖像写真家の要素はない。
マン・レイなどのカメラレスの熟考された芸術写真からは、程遠い。
しかし、ではプロの大作家の写真で、これ程軽妙洒脱な楽しい絵を撮れる人がどれだけいるか?
と思うと、多くは重厚で壮麗な方向に洗練を重ねて向かって行ってしまう傾向が強い。
そう、重くなり、それに従い、ノイズも無くなる。
ラルティーグは、重力を自我で調整しない。
それを強靭なディレッタント精神で許さない。
微細な存在-有り様を全てそのまま、活かす(解放する)。
単に細かいことは、気にしないのかもしれないが。
しかし大雑把な性格で撮れる写真ではないのは明白だ。
この際、作家はひとまず置き。
作品は、必然的に(物理的に)色褪せるが、この写真のイデアは瑞々しさを失わないことが判る。
いや、はっきりイデアの存在する何かであると言えよう。
今これ以上語る準備は、脱力中のわたしにはないのだが、、、
ずっと、多くの脳裏に残る写真であることは、間違いない。
そしてやはり、作家が気になる作品群である。
彼ラルティーグにとって、世界はおもちゃ箱をひっくり返したような愉しさに満ちたものだったと想われる。
そんな世界とは、恐らく微細で多様で異質なモノ全てを面白がり愛する精神を前提とするはずだ。
そしてその強度を保ち、畢生ディレッタントで押し通せることは、超人(ニーチェの)に近いと言ってもよい。
アッジェも後で、ゆっくり楽しみたくなった。
写真集は、見始めると面白い。
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