Living In the Heart of the Beast

ヘンリー・カウを聴いていた。
2009年のライブで、ダグマー・クラウゼのボーカルに、ロバートワイアットのスキャットが絡む。
凄まじい美しさだ。
最高の贅沢だ。
最も好きな現代音楽の曲の一つである。
ライブというのは、つくづく凄いものだと思う。
K・クリムゾンやLou Reedもそうであるが、極めて微分方程式的な生成が連動してゆく。
ライブとは、彼らのような存在にとっては特に実験の要素が強いのだろう。
人生そのものが実験ではあるが、、、それを最大限に増幅し優美に抽象化した波動。
その公開-共振の場である。
カオスモスというのか、これを、、、名付けない方がよいか。
ここでは高貴な野生が、次々に目覚める。
わたしと仮に呼んでおくこの場に、蠢く何兆もの生がそれぞれ騒めき立つ。
よいものに触れたとき、ほとんど「わたし」は消え失せる。
それが「ほんとう」なのだと。
ちなみに、わたしのiTunesをそのままほったらかしておくと、次にアルビノーニのアダージョへと引き継がれる。
カラヤン・ベルリン・フィルのものだ。
それが終え息を潜めた瞬間、何故かコルレリの「クリスマス・コンチェルト」が始まる。
究極の愛らしさ。
ビバルディより前の作曲家である。
であるから、バッハより更に前に生きていた。
しかし、その旋律の圧倒的な美しさは、厳格な対位法にさほど縛られていないせいであろうか。
古さ、固さを感じさせない。
大いなる予定調和と健康を感じ、何とも清々しい。
野生の小さなスミレに触れた時の感触に近い。
そのままにしておくと、ビバルディになっていた。
音楽の効用は、身体を「自己」から解き放つものだろう。
それが、何であっても、、、。
せいぜいビバルディまでで良かった。
このまま、進んでいくと、確かモーツァルトが待っている。
(わたし)はモーツァルトのマイナーにやたらと煽られる。
クリムゾンの二期とモーツァルトのマイナーには、過剰に反応してしまう。
今日はやめる。
(わたし)がいなくなるのはよいことなのだが、その代わり多くのモノが色めき立つのだ。
ある意味、身がもたないのだが、快感であることは理るまでもない。
ギリギリまで横溢する。
このディテールを、きっと強度というのだ!
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