遠く高く離れる

いくらでも、奇怪化していても、そこに不自然さをもたない絵画がある。
無調でないのに、いつも耳に新たに響く音楽がある。
(12音階であれば、紋切り型ではない訳ではない)。
象形からの解放が、如何に可能であるか?
言い換えれば、新たな関係が如何に生まれるのか?
新たなことばが。
生命に、、、
目標などない。
方向もない。
価値もない。
かたちもない。
生命で有り続ける生命。
震え続ける生命。
存続する生命。
生成そのもの。
そうだ、David Bowieが地球に落ちてきて、何故変身をし続けたのか!
絶えず異なる何かに変わり続ける。
(成りきっては、ならない。ただの名付けられる誰かになってしまう)。
顔のないエイリアンに、または頭部という身体しか持たないベーコンの絵に。
そしてもはや、形体ーことばが尽きた時に、天に戻る。
そうだったのか、、、?
いや、最初の一撃以上の何かを示唆して逝ったはずだ。
(Lou Reedを見出したのは、David Bowieであった)。
確実に継ぐべき何かを渡して。
確かに時空間とは、受肉の形式だ。
リレーと反復を生む。
西暦何年何月何日と振られて、初めてわたしは何という病名が付され、同時に何層かの社会的な位置づけも更新された。
痺れは一体いつから始まったのかも書類に記されている。
全ての来歴は日付にあり、理解されることはないが何であっても承認される。
いや、予め全ての項目は書き記されてきた。
無限反復帳に。コズミック・レコードに。アーカシア年代記に。
わたしはその一片を、わたしとして体現してみたに過ぎない。
逸そ日付だけを毎日更新しても良い。
河原温みたいに。
それは、しかしいつから起きていたのか?
いつまで続くのか?
(しかし、知ってのとおり傷がその日付を曖昧に滲ませる)。
この身体はどこから来てどこにゆくのか?
時空とはそいういことだ。
何かに似ていると思えば、映画に似ていた、、、。
いや、舞台劇でもよい。
ジギー・スターダストのひとつのステージにも甦てっゆくだろう。
それは眩く灯る遠くの小さな出来事に見える。
認識しなければならない。
見渡すには距離が必要だ。
自分が出ている映画を見なければ。
- 関連記事
-
- 憑依機械
- ドライブ
- 遠く高く離れる
- ニヒリズムの足枷
- ウイリアム・ブレイク