死刑台のメロディ

”Sacco and Vanzetti” ”Sacco and Vanzetti”
1971年
イタリア フランス映画
ジュリアーノ・モンタルド監督
ファブリッツィオ・オノフリ脚本
エンニオ・モリコーネ音楽
ジョーン・バエズ主題歌 勝利への賛歌(Here's to you)
ジャン・マリア・ヴォロンテ 、、、バンゼッティ(イタリア移民の魚行商人)
リカルド・クッチョーラ 、、、ニコラ・サッコ(イタリア移民の靴屋)
ミロ・オーシャ 、、、ムーア
シリル・キューザック 、、、カッツマン
ロザンナ・フラテッロ 、、、ローザ
「怒りの葡萄」を何処にしまったか見つからずこれを観た。
強盗殺人事件の冤罪事件を忠実に描いたものである。
アメリカの事件であるが、作ったのはイタリア・フランス。
あのイタリア・フランスがよくここまで、タイトにストイックに作ったもんだ。
言い回しは凝ってはいるが、洒落やユーモアの遊びもない。
この当時はこのような政治的謀略による冤罪事件がアメリカには蔓延っていたようだ。
アナーキスト、共産主義、移民への過敏な拒絶反応が露骨に見られる。
赤狩りの影響を受けた映画も多い。
確かに異様極まりない光景である。
しかし今はもっと巧妙に不可視な形でファシズムは染み渡っている。
その劣悪さは更に増しているといえよう。
大方自分が実際にどんな目に遭っているかすら気づかずに抹殺されて逝く。
ヒト-存在として一度も生きずに滅んでいるなら、そもそも生まれる意味がない。
まさにそうなのだ。
まずそこがヒトとしての、前提となろう。
全ては、自覚にある。
本作の力強さはドキュメンタリータッチで描ききっているところにある。
バエズの歌とエンリオ・モリコーネの音楽以外に演出らしいものはない。
1920年アメリカ合衆国マサチューセッツ州で起きた、イタリア移民のサッコとバンゼッティの冤罪事件。
有罪とされたのは、靴職人のサッコと魚の行商人ヴァンゼッティである。
殺人及び窃盗によるものではなく、われわれはアナーキストである罪で殺されるのだ、とバンゼッティは訴える。
民主主義という主義を守るために殺される、と。
わたしも100%アナキストである。
今更言断るまでもないが(笑。
当然である!!
中庸を生きようとするその仕方である。
何が自由主義の最大の敵だ?!
その主義こそ叩き潰さなければならない!
ハーバード・リード卿を改めて思う。
それはそれとして本作、単純に検察対弁護側に収まらないところを精緻に描こうとしているところが良い。
全て政治的な思惑で動いている事を晒すことが、テーマを際立たせるポイントであるから。
話のほとんどが法廷での闘争場面である。
(弁護士が丹念に記録や証拠、証言を洗い直す場面も強調されるが)。
検事側は、当然でっち上げと強要偽証の積み重ねで強引に迫るが、弁護側も政治的な対抗によるものでしかない。
サッコはそれにすぐに気づくが、すでにどうにもならない。
「だまされた!」両者に対する怒りが突き上げる。
しかし歯車は動き始めたら止まらない。
最初に捉えられた時点でもう回転の向きは決定済みであった。
三権分立がどうとかいうレベルの問題ではない。
人々の内に巣喰うファシズムの発動の光景である。
サッコとバンゼッティは世界的に名を売る事になる。
思ったより情報の隠蔽や歪曲の操作が働かなかった事に驚く。
謂わばシンボルだ。そう、シンボルに過ぎない、、、。
熱狂的な支援者も強固な弾圧者も増えた。
(アインシュタインも確か異議を表明していたはず。請願書もアメリカの全ての大学から寄せられた)。
勿論、時の人になることなど本人たちの望むところではない。
しかし、そうなってしまった自分たちの存在自体を持ってなすべき意義は心得ている。
終盤の死刑の前に述べるバンゼッティの演説である。
「わたしは犯罪を無くすために闘ってきた。その犯罪とは人が人を搾取することである。」
「だからわたしは、ここにいる。」
「アナーキストという罪でここにいるのだ。」
「皆さんに礼を言おう。われわれは一生かかっても、これ程人間の理解の為に役に立つことはなかったはずだ、、、」
2人のアナーキストが世界に運動を巻き起こす結果となった。
強盗殺人犯では、一瞬でも人を活性化することはない。
しかし、その大分前に語るつもりもなく吐露してしまうサッコの心情により共感を覚える。
それは、溢れ流れ出る感情の言葉である。
勿論それすらも単なる体制批判、反体制思想として取り込まれ象形化される。
ことごとく言葉の全てが紋切り型に編集し直され、社会は退廃し硬直を極めるだろう。
バンゼッティの方は政治的に利用されることにも甘んじようとする気持ちに揺らぐが、結局拒否する。
最後はこころの尊厳に行き着く。
最終的にサッコのように黙って取り合うべきではなかったと述懐する。
最も印象に残ったのは、死刑が決まって留置されているサッコを妻と子供が面会に来たシーンである。
彼が無念を妻に訴え、妻は控訴の可能性と世論の高まりを希望として彼に伝える。
しかし彼はもう何か(主義、同志とか理想も含めて)に縋る気など毛頭ない。
「イタリアに帰るはずだったのに何故ここにいるのか、、、。」
すでに彼には妻と息子しか確かなものはなかった。
しかし別れ際、子供にもっと顔を見せてくれと呼びかけるも、息子は後退りし父を異様な目つきで見るだけなのである。
、、、後に何が残る?
最期に彼は最愛の息子に手紙を書く。
「へりくだって隣人を思いやれ。弱い人、悲しむ人を助けよ。迫害される人に手を貸せ。彼らこそ真の友人だ、、、。われわれの信念は受け継がれる。忘れるな、、、」
流石にこの時期の映画(と言うよりお国柄か)、電気で黒焦げになる即物的シーンは映さなかった。
(「グリーン・マイルズ」では、見られたものだが。この映画ではそこは必要ない)。
また、裁判員制度の危うさというよりも完全な限界が晒されている。
こんなシステム(茶番)を日本は採り入れこの先もずっと続けてゆくつもりか?