秋刀魚の味

昭和37年
小津安二郎監督 最終作品。
リアル「3丁目、、、」である。
終戦後の日本。
こっちは、夕日はないけど。
どうしても、リアル昭和30年代ものも、VFX30年代映画も、結婚が大きなテーマとなっている。
「家族」というものが、生きているからだろう。
終戦後の再生を目指しての根拠の確認と結束という意味からも、日本民族-家(家系)-家族が実質的に活性した時期だと思う。
すでにその意味で、随分前から家族はもうない。
少なくとも、当時とは大きく変質してしまった。
取り敢えず、親子が同じ屋根の下に暮らしてはいるが、それ以上の何かはない。
ほとんどは、そうである。
休日に、ディズニーランドに家族連れで行っているとかいう問題ではない。
そんなものであれば、東京スカイツリーの家族連れの混み合いなど物凄いものであった。
うちの娘たちも、あのタイミングでちゃっかり行っている。(もっとも水族館の方がずっとよかったようだが)。
実質的に全く違う。
祖父母がいない核家族であることに起因する、などと言われてもきたが、全く関係ないと思う。
祖父母自体がすでに変質している。
わたしは、昭和30年代の日本が今より良いとか悪いなど言う気も考えるつもりもない。
何においての比較も、あまり興味もない。
ただもうそれだけ、時代(歴史)が希薄化しており、われわれの根底に何らかの抵抗として感じられないのだ。
共同の幻想がほとんど持てない。
奇しくも、またオリンピックというのが開かれるようだ。
あのシンボルマーク、競技場で揺れに揺れつつ馬鹿げた形(代案)で兎も角やるようだ。
あの内輪での足の引っ張り合い、追い落とし(しかし肝心なところではひどく杜撰)、誰もがお互いの粗探しに血眼になりながら、日本を元気にとか経済効果がどうとか言って、結局何のためにあんなかったるいことをやろうとしているのか?これひとつとっても象徴的である。また少なくともオリンピックに象徴的な力などない。
(今回外からの妙で低級なイチャモンなどがあがっていたが、容易く押し倒され、一体擁護の声はどうなったのか?)
全てが、ことばがもっとも重篤であるが、形骸化している。
これについて書く場ではない。
ただ、ひとつはっきり言っておきたいことは、異なるものを認め活かす風潮-懐は、確実に身の回りから消えている。
外国人を呼ぶのだからとか言って、外国語を勉強したりしているが、勝手にやってなさい。
まず誰もが本質的に他者であることに対する感覚、その前提が極めて薄い。(特に政治家ほど酷い)。
つまらないことに、スペースを使ってしまった。
「秋刀魚の味」には関係なかった。
父が妻に先立たれ、娘が結婚になかなか踏み出せない。
孤独と家族や家への愛情を巡り、、、。
こんな関係性が今存在し得るか?
しかし小津安二郎の映画のテーマのひとつは、これである。
わたしにもこの小津作品や30年代をVFXトレースした「三丁目シリーズ」にある家族(愛)経験は微塵もない。
わたしにとって「東京物語」は、純粋な形式美の極北としてある。
内容の結婚-家族が中心にあり、いつも同様な設定下でキャストが想定内の動きを繰り広げるこの光景はゼンマイじかけで動いているように感じられる。
常に同じである。
鑑賞するこちら側としては、少なくともそこに切実なテーマ性は覚えない。
わたしは小津ドラマの物語内容に引き込まれるというより、その形式・意匠に惹きつけられてきたのだ。
笠智衆の演技もあいまって小津映画は、みな同じだ。
わたしは小津作品のそこに常に魅せられてきた。
この「秋刀魚」でも、娘・岩下志麻の父親として笠智衆がいつものように演じている。
このいつものようにが、もっとも大切に思える。
現時点において、孤独と愛情をこのような風景に切実に感得することは出来ない。
しかしかつてあった世界を夢想して感じることは出来る。
孤独とか愛情というより、もっとイデア的な調和ともいうべきものとして。
その点において、やはり「東京物語」は圧倒的に美しく洗練された作品である。
「秋刀魚の味」のキャストでは、
岩下志麻と岡田茉莉子、佐田啓二は言うまでもないが、何といっても東野英治郎であった。
戦後間もないこの時期の空気にたっぷり浸れたものだ。
原節子が小津の遺作に出ていないことだけが、何とも淋しい。
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