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ウイリアム・ブレイク

William Blake


一粒の砂に 一つの世界を見 一輪の野の花に 一つの天国を見 掌に無限を乗せ 一時のうちに永遠を感じる。


ウイリアム・ブレイクの詩や絵画については、また日を改めて是非、書いてみたい。
今夜は、そこではなく、彼が作品を制作するにあったって、備えたことについてひとつだけ、、、。
何かといえば、身体である。
もう随分昔に、恐らく彼のデッサン集のどれかで読んだものであるはず。

それは、一言で言えば「身体」をほとんど感じることがないほどに、身体を鍛える-調整するということだ。
これは、今のわたしにとって、極めて説得力のある切実な備えである。
所謂、健康であること。
つまり真に中庸であること、である。

身体的な不具合や痛みを抱えていることで、思考に物質的な障害を与えることは少なくない。
特に時間性において過剰な遅延と停滞を齎し、その流れ・運動からの逸脱を強いる。
中断・断念・挫折へ繋がる。
そこに落ち込まなくとも、思考の中立性が維持できなくなる可能性に晒される。

スポーツとは、元来放つべき言葉をスムーズに出すために身体を調整することだといった身体論を読んだことがある。
(わたしのかなりの解釈が入ってしまっているが)。
何らかの種目で相手を倒すために、特定の筋肉のみを鍛える肉体的スポーツとは思想的にも方法的にも異なる。
実際、多くのスポーツでは、体の故障が引き起こされている。
精神-ことばには、何らかの影響は及ぼすにしても、それは二義的というか、結果的な副次性に過ぎない。
では、ヨガや太極拳などにそれが見られるか、というとどうであろう。
そこにある健康法が、自覚的にことば-身体に方法的に意識されているとはやはり見えない。
瞑想はどうか。
例えば、ずっと何も摂らず、座り続けていたら、身体そのものが衰退してしまうだけである。
何かを悟るとしても。
恐らく何も残さぬことを思想に繰り込んでいることは明白だ。
伝えること自体が端から放棄された自己完結性に徹底されている。
それで基本的によいのだが、ブレイクのように作品化する(伝える)には、あたかも肉体の重力を滅却した(肉体に縛られない)身体性の獲得が肝心であった。
ことば-詩そして造形において、完全な自由-中庸の場所を備えることを、まず彼は前提とした。
そういうことだと当時理解した。


相当な私的拡大解釈に思われるかも知れないが、改めて切実にわたしの現状に接続してきたことがらである。


”To see a world in a grain of sand. And a heaven in a wild flower, Hoid infinity in the palm of your hand. And eternity in an hour.”

こんな受容性(感受性)は、かなり鍛えられた透徹した身体を通さなければ、発せられない。
器官なき身体か?


石川啄木を読んでみたくなった。
いや、ドゥルーズか。


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