晩秋

1949年
小津安二郎監督
笠智衆の存在がただ、圧倒的だ。
何とこの時、46歳ではないか!
それでこんな老け役をものの見事に演じきっている。
笠智衆という役者の偉大さに感じ入るばかりである。
こんな役者は、他に、、、樹木希林がいたか!
このふたりが双璧かも知れない?
そもそも何故、人は殊更自分を若く見せたがるのか。
歳相応で良いではないか。
(アンチエイジングってなんだ?)
寧ろ歳以上に見られることこそ凄いではないか。
役者としても、実年齢以上の年齢をある時間生きれるなんて、贅沢だ。
勿論、それだけの内実(時熟)がなければ空っぽさは、立ちどころに露呈するだろうが。
彼は娘の紀子(原節子の紀子は本作~麦秋~東京物語と続く)を嫁がせる為に、わざと自分も後妻をもらうと嘘をつく。
その時の彼の間ー娘へのすべての想いを呑み込む暖かい諦観の表情、はもう筆舌に尽くせない。
どんな超大作映画のドラマチックな場面であろうと、この一瞬のインパクトを前に白々しい実態を晒して霞んでしまうことであろう。
星が激突してくりゃ感動に繋がるかなんて、甘えてるんじゃない。
この静謐極まりない映画の強度が如何程のものか、こんな一場面にも如実に表れる。
笠智衆の存在ーリアリティの問題なのだ。
そのまさに身体性の所以なのだ。
役を演じるからといって、嘘がつけるか?
高度な表現が可能であっても、ヒトはそう簡単に騙されない。
感動をしたくて、そのモードで映画を観始めたとしても、白ける場合が少なくないのだ。
それは、仕方ない。
そういうものだからだ。
こういう映画を観ていると、ものを作る事の何というか基本的な姿勢について考えさせられる。
それが、どのような分野のものであったとしても、その基盤となるところのものである。
ときおり絶妙なタイミングで挿入されてくる風景が入るべくしてそこにあることに気づいた。
反復されて用いられる丈高い木が3本ほど抜きん出ている森(山)の景色の意識への触り具合が、まさに調度よいものであることがわかる。
超ローアングルの視野も、猫となってこの異界を無心に眺めてゆく優れた方法であることに気づいた。
その目で原節子ー紀子を観てみると、これもかなり面白い。(別に猫である必要はないが)。
紀子はここでは、まだ幼さが残るうら若き女性だが、屈託なく笑いこけたり、子供をからかってふざけたり、「汚らしいわ!」と不快感を素直にぶつけたり、父に対し愛情と嫉妬の綯交ぜとなった怒りの視線を送ってみたり、と結構ギャルっぽいのである。
能舞台を父娘で観に行った時、偶然に居合わした父のお相手と目される女性を確認した際の紀子の表情は、まさに普遍的なものだ。
ここは、静かに能を観劇しつつ、目線だけで、父とお相手の女性をそれとなく鋭く見守る紀子の息も詰まるスリリングで高度な情報戦が秘めやかに展開する。
複雑な目の攻防は、演技を超える。
父とお相手は、実際相手に気づき軽い挨拶を交わすだけだが、紀子にとってはドイツ軍のエニグマを解読してやろうというテンションである。
目である。
これは、露骨に凄い。
原節子がこれ程の目玉の使い手であることに驚いた。
ハンス・ベルメールのドローイングの少女の目玉くらいのインパクトがある。
このタイトな空間において彼女は鬼太郎のお父さん一歩手前まで来ていた。
ともかく、この能舞台の空間は、原節子の独壇場であったと言える。
笠智衆と原節子は映画史上最高の父娘であろう、、、。
この調子では、いつまでも終わりそうにないため、このくらいにしたい。
明日は、「麦秋」を観たい。
その後で、また改めてあの金字塔「東京物語」を観たりして、、、。
「紀子三部作」でもある。