安城家の舞踏会

1947年。
吉村公三郎監督。
新藤兼人脚本。
モノクロ。
ビスコンティ映画と比較してしまうが、この燕尾服と着物のホールに流れる曲も微妙な、日本的舞踏会の方がずっと新鮮に感じられた。
ルオーの絵が壁に飾ってあった。
安城家のお父様は伯爵であり、パリに絵の修行に出ていた根っからの貴族である。
家が元40万石の大名であったのだ。
華族制度の廃止により、没落の憂き目を見て、彼は子供たちの行く末をただ案じている。
邸宅をどうするか、それが懸案であり、悩みを抱えているが、全てにケリをつける意味で最期の舞踏会を開催する。
物語はすべて、安城家の邸宅内で進むグランドホテル的形式で展開する。
ふたつの発見があった。
ひとつは何故、原節子が日本を代表する女優と言われるのか。
この映画でよくわかった。
小津安二郎監督映画では、彼女は常にこの世の人ではないのだが、ここでは終戦後の没落貴族のご令嬢としてかなり困った家族を独りで何とか切り盛りする実践的な女性となっている。
気に入らない闇成金男を冷たく睨みつけたり、階段を走り降りたり、上がったり、札束を抱え持ってたんか切ったり(上品にだが)、お父様を助けようと野球の選手みたいにスライディングアタックしたり、その後すぐにダンスをしたり、、、このアクティブさは誠に新鮮であったのだが、舞踏会の最中、バルコニーで夜風に当たる髪が一瞬靡いたところで、彼女はモンマルトルのキキにも勝るミューズであったと、実感した。
最後のお父様との深夜のホールでふたりきりのダンス(ステップ)も素敵ではあるが、、、さほどのインパクトでもない。
非常に表情も動きも多彩でビビットでありながら、小津映画のこの世離れした品格は崩さない。
彼女は女優として上手いのではなく、稀有な霊格をデフォルトでもっているのであった。
揺るがない身体性として備えているのだ。
原節子かAudrey Hepburnか、であろう。
単に綺麗とか美しいではない、次元にある。
いま、日本は体操やフィギュアスケートの層は実に厚く、次々にスターが出てくるが、、、
原節子の後を継ぐ女優はいるのだろうか?
美貌や才能のあるヒトは結構いるだろうが、この先どのような芽を開かせるのかは、未知数だと感じる。
人格とかいうより、存在そのものの品格である。
ペルソナとかアイデンティティーではない。
原節子恐るべし。
とも感じた。
(思わずアマゾンで原節子の本を購入してしまったではないか。これについては後日また)。
この映画は、原節子の凄さを再確認するための映画とも言えよう。
また、もう一つこれまた、大変な役者を知った。
勿論、とっくに知ってる人はよいのだが。
森雅之である。
安城家の長男であり、原節子の兄である。
それぞれ正彦と敦子という役であるが。
この森雅之、みんなにヒトデナシ扱いをされ、露骨に何のひねりもなく「ヒトデナシ」と罵倒されたりするヒトデナシであるが、この時代にこれほど決まったヒトデナシがいたのだ。
実は、こんなに役者に惹かれたことは稀である。(原節子は別として)。
フィルム・ノワール (film noir) の一連の映画やその後のフランス映画によく現れたヒトデナシも魅力的であったが、森雅之ほどではない。
こんなにいい役者がこの時期の日本にいたのか、という驚きは隠せない。
少し前に、佐田 啓二を小津映画で知って、得した気分に浸ったのだが、その比ではない。
この一本で彼のファンとなった。
退廃的で粋でフラジャイルな若殿である。(すでにお父様も殿の座を失ったにしても)。
そりゃ、小間使いの菊さんが惚れても仕方ない。
ここに出てくる誰よりも魅力がある。(原節子は別格として)。
森雅之の後を継ぐ俳優が今いるか?
単にニヒルだったり、デカタンスに浸ったり、ナイーブで奔放で衝動的であったりの形ではない。
存在の味である。
このヒトはどうにも憎めない、どうにも惹かれてしまうという味が凄いのだ。
原節子とよいタッグである。
世話の焼き甲斐があるというもの。
「ヒトデナシ」という言葉は久々に聞いたが、良い言葉である。
称号である。
華族が廃止されても、ヒトデナシで立派にやっていけるではないか!
演出、カメラ、美術全て丁寧に練りこまれており、セリフが如何にも当時という感じであるが、そこがこの時代性を映す効果を高めていた。
内容は栄枯盛衰といった無常観を湛えた殿様とその家族の苦悩から広がってゆくものだが、作品自体とても心地よく観ることができた。
ひとことで言って、綺麗な映画である。
すでにこの年代に、映画という形式の完成度がここまで達していたことは感慨深い。
間違いなく、観て得した映画である。
何よりも流れが綺麗であった。
つまり、良い時間が過ごせたことを意味する。