バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance
2014年アメリカ映画
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督・脚本
あの「バベル」の監督
リーガン・トムソン (マイケル・キートン)映画「バードマン」の元スター俳優で、舞台での復活をかける。
マイク・シャイナー (エドワード・ノートン)大変癖のある、現有名舞台俳優。
サム・トムソン (エマ・ストーン)リーガンの付き人である彼の娘。元薬物中毒。
レズリー・トルーマン (ナオミ・ワッツ)マイクの同棲相手の舞台の主演女優。
初めてワンカット映画というものを観た。
あまりに自然な流れだったため、普通に観てしまった。
ワンカットで描ききる必然性・目的はいまひとつ分からなかったが、大変な労作であったことは、感じ取れる。
またカメラワークと演出の厳密な計算の上に立った、出てくる役者の達者なこと。
現実空間にすっと滑り込んでくるVFXも含め、絵作りが圧倒的であった。
SFアクションものの迫力とは、次元の異なる水準をもった強度がある。
このようなプロットであると、よくあるパタンでは、最後に真相が明かされ、実は主人公はとっくに海で死んでいた。
しかし、自身の死に気付かず、自分のこの世での夢を追い続けたり、、、などが連想し易いものだ。
例えば「パッセンジャーズ」などのように。(あの映画は、良い映画であったが)。
この作品は、卓越した撮影技術や美術に支えられ、主人公の世界が所謂現実に即しているのか、内的現実(想念)を漂っているのか、またその交じり度合いを特定せずに、一気に最後まで宙吊りにし続けてゆく。
脚本も振るっている。
下部構造が堅牢極まりない。
そのため、かなり文学性(芸術性)・抽象性の高い物語が、リアルで自然に出来ている。
先に挙げた「パッセンジャーズ」タイプの、ああやはりそうだったのか、と腑に落とす日常意識(意味空間)への着地点を設けない。
こちらを、ありきたりな理解で安堵させない、居心地の悪さ、良く言えば想像力を刺激し考えさせる場を提供している。
これは、カフカが発明し、常に彼の作品制作に用いた「方法」と同次元のものである。
つまり、「方法」によって作品を創造するという意味において。
それぞれのキャストに基づいた本をディテールに至るまでしっかり練りこむ。
絵を一瞬の破れ目も作らず、完璧に作りこんでゆく。
物語が厳密な数式により生成されるように見事に展開するのだが、何が語られているのかは判然としない。
解釈の余地が漠然とあるのみ。
ボルヘスがカフカの文学に対して言った言葉を思い出す。
「カフカの小説は、中心が欠如している。」(うる覚えで正確とは言えないが)。
であるから、未完であり続ける。
いくらでも続いてゆく。
その世界がどこまでも精緻に描き切られていれば、ヒトが目の前ですっと空を飛んで行こうが何の不思議もないだろう。
以前、哲学者の池田晶子氏も「わたしは、すぐ前でヒトが突然、空を飛び去っても全く驚かない、、、」とどこかで書いていたが、そのヒトの属するパラダイムのコンテクストにおいて、快不快や価値の感覚はもとより一元的に現実を、語れるものではない。
超現実的な風景を前にし、わたしたちはとても静かに落ち着いて、うち眺めている経験はなかったか?
そんないつか分からない経験の感触を、どこかに感じてしまう映画であった。
こんな映画にはなかなか出逢えない。
貴重な映画体験であった。
この映画、「6才のボクが大人になるまで」とアカデミー賞を争ったそうである。
4部門をこの映画が取ったようだが、確かにどちらも半端ではない大変な労作に違いない。
両者ともその鬼気迫る作り込みには、ただ圧倒されるのみだ。
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