ミツバチのささやき

”The Spirit of the Beehive”
1973年スペイン制作。
ビクトル・エリセ監督。
本当に「ミツバチのささやき」であった。
ダリも作品に描いていた「スペイン内乱」直後のまだ緊張の走っていた時期の物語である。
1940年あたりの情景である。
勿論、この作品を制作する頃も政権批判の出来る環境でないため、メタファーを多用してパスしているということだ。
ガラスの扉が丁度ミツバチの巣と同じ形であり、色も濃い蜜の色であった。
当事者にとっては非常に重い作品であろうが、わたしにはひたすら瑞々しい繊細極まりない叙情性を湛えた映画である。
面白いのは、主人公とその姉、両親もみな、実名である。
いや、名前だけであろうが。
少女アナは 、アナ・トレント
姉のイザベルは、イサベル・テリェリア
ついでに父フェルナンドは、フェルナンド・フェルナン・ゴメス
母テレサは、テレサ・ヒンペラ
別に特記することでもないが、わたしには面白かった。
まず映画「フランケンシュタイン」をアナが食い入るように真剣に観るところから、もうわたしも引き込まれ寄り添ってしまう。
わたしも真剣に観た。
ただし、先に「フランケンシュタインの逆襲」を観てしまったのだが。
その夜の姉妹の会話が興味深い。
ここが象徴的な意味ももつのか。
何故、フランケンは少女を殺してしまったのか?
何故、彼は人々に殺されたのか?
姉は、その問いに答えるのではなく、映画なんだから嘘よ、と突き放す。
しかし、それで話がお仕舞いではなら、単に白けた現実主義者にもう話もすることはないだろう。
しかし姉はモンスターは身体をもたない精霊なの、という方向に向けてゆく。
妹を内面化させる。
こころを開いて呼びかければ友達になることができ、いつでも会える存在なのだと信じこませる。
確かに姉はしょっちゅう妹を騙してからかっている。大概そういうものだが。
アナはフランケンを観た時から、彼のことを片時も忘れられなかったのだろう。
さらに姉の話が追い打ちをかけた。
姉に精霊が来ると教えられた廃墟に独りで足繁く通うようになる。
彼女の自我の芽生えと共に秘密の行動の開始だ。
自分自身の内面を見るかのような、廃墟の薄暗い部屋。
そこにいつしか、傷を負った逃亡者が潜んでいた。
想像と現実の境界の場所がまさにその廃墟である。
というか、廃墟とは元々そういうものであった。
彼女はその男を献身的に介護し、父親の上着まで着せてあげる。
それこそフランケンシュタインにしてあげたかったことかも知れない。
しかしそのフラジャイルな世界は突然掻き消えた。
不吉な血の痕跡を残し。
父も全てを気づいてしまっていた。
彼女の中で、再びモンスターは死んでしまう。
ショックを受けた少女は、ただ遠くへと走り去り、やがて森の中を彷徨う。
夢か現か、映画で見た例の湖畔に、同じ構図でフランケンと向き合う彼女。
向こうに行くことを決めて目を瞑る。
モンスターは彼女を殺すのか?
彼女は身を任せる。
あの場面の意味を身を持って知りたかったのだ。
翌日犬に発見されるが、もう両親は目に入らない。
夜、アナはベッドから起き上がり、精霊に語りかける。
「わたしは、アナよ。」
この映画のただしい見方とすれば、スペイン内乱による重苦しい空気(光景)を子供の感性を通し描いた、という観点は外せないだろうな、とおもいつつ観ていた。
アナの家族もとても疲労しきっていることが顕で、痛々しい。
同胞が引き裂かれた内乱直後である。
この空気はいくら幼い少女でも、直覚してしまうものだろう。
そこに、彼女の曲者の姉が、殊更「死」を想起させる悪戯をする。
(線路の音を聴く。死んだふり。)
アナは少なくとも、内面性の豊かな子になるはずだ。
タイプライターもあの歳で打っているし、小説家になっていてもおかしくない。