シックス・デイ

”The Sixth Day”
2000年アメリカ映画。
クローン技術が発達した近未来の世界が舞台。
シュワルツネッガー主演。
TV録画で観た。
いくらシュワルツネッガーの娯楽映画だからといって、クローンならクローンにしてもらわないと。
これだと、ドラえもんのコピーロボットである。
ロボット技術が発達して、見た目は人間かロボットか分からないモノの生産に成功した、という状況にすればよかった。
実質、ストーリーは、ほぼこのままで行ける。
でも、もうすでにターミネーターやってるんで、ロボットでは被ってしまうか?
そうすると、主演はウィルスミスか?
と、シュワルツネッガーのための映画であるため、前提条件を変えるわけにはいくまい。
クローンは三毛猫も毛並みの色が親とは全く違っていたりする。
遺伝子情報が全く同じであっても生育環境(経験・学習など)により自分とは異なる個体になる。
何においても瓜二つにはならない。
それから、胚から成長するもので、最初から母体と同じ年齢ということは有り得ない。
まずは、赤ん坊として生まれる。親と同様に普通に成長する。
それを補完するためか、素体?とかいう、なにもない体に遺伝子情報を入れる、しかも記憶までというのは、無理。有り得ない。
DNA,RNAのある身体情報を書き換えていくのならまだしも。
記憶(後天的記憶)については、遺伝とは全く異なる領域の問題であり、コピーして書き込めるような情報ではない。
(内部情報系に対する外部情報系と言える)。本能のみで生きている人間はいない。
パソコンのデジタルデータ移動のアナロジーか?壊れても、新たな同じ体でそっくりそのままを引き継ぐというまさにロボットの発想。
この物語、やはり革命的なロボット技術の発達により、人間ソックリのロボットが、、、とすれば。
何でもアリのブラックボックス化出来るではないか。
ああ、これでは、ターミネーターと一緒だ、、、。
堂々巡りになるので、やめる。
いっそ、アンドロイドとか言って、茶を濁すのもありか?
レプリカントというのは、流石にうまかった、ブレードランナー。
そこにとらわれず、楽しめば結構楽しめる映画ではある。
兎も角いくら殺されてもいくらでも復活する(スペアのある)、コピー人間たちが続々出てくる。
どうしても、ドラえもんを思い浮かべる。
しかし体型は全然異なる、シュワルツネッガー、しかもオリジナルとクローン(やはりコピーと呼びたい)と2人も出てくる。
人間だと信じていた方が、コピーであり、苦悩する。
タクシーの中で居眠りから覚めた、と思ったときそれが引き継がれた記憶をもった「コピー」の目覚めであった。
ここは面白かった。コピー体によって、人間存在の有り様が逆照射される。
しかし、人間とは何かという認識論ではなく、人間はどうあるべきかという存在学に向かう。
シュワルツネッガーの映画であるから必然的に。
ヘリのパイロットを無断で代わってもらった為、自分のコピーを知らずのうちに作られてしまったというのも、なかなかよいアイデアだ。
このコピーは、自覚してなっているのは、法律を破って秘密裏に彼らを製造している企業上層部と用心棒くらいで、他の人は、死んでしまうと企業にとってマズイ人間が知らずのうちにコピーに入れ替えられている。
シュワルツネッガーは、友達が身代わりに殺されたので、彼は生きて自分のコピーと鉢合わせしてしまうはめに。
ここから、物語が目まぐるしく展開してゆく。
この攻防は結構、スリルもあり、目を離せない。
敵は卑怯にも妻と娘を人質に取り、あくまでもシュワルツネッガーを消そうとする。
2人いてはクローン生産がバレるし、企業の悪巧みも暴かれる。
彼は自分のコピーとも仲良くタッグを組み、巧妙な作戦を立てて戦う。
しかし、惜しむらくは、昔のSFから借りてきたような味のある光線銃を多用することだ。
ヘリコプターも自動操縦したりでよく出てくる。
設定上必要な道具であろうが、シュワルツネッガーの持ち味が削がれてしまう。
彼の主演なら、荒唐無稽なマッスルファイトをフルに期待してしまう。
シュワルツネッガーのもうひとつ得意なマイホームパパぶり(如何にもアメリカ的な)は健在であった。
彼らはクローン製造工場を潰し、共に家族を命懸けで守った。
クローンであろうが、人であろうが、何であるかより、何をやるかに意味がある、というようなところで終わる。
2人一緒には帰れない。
片方は家族の元へ戻り、もうひとりは旅に出ると。
スリリングなアクションはあったが、マッスルファイトはおとなしめのシュワルツネッガーであった。
しかし、こういうシュワルツネッガーもよいかも。
面白かった。
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