シャニダールの花

面白い着想の映画であった。
それにキャストが良い。
人類が植物に還ってゆく、というのは素敵な夢想だ。
花になるということは、眠ることを意味する。
いや、植物として目覚めることになる。
人間みんなの胸に花が咲いて、眠り始めれば地球はまた平和になってゆくだろう。
植物は力強い。
かつて恐竜を滅ぼし、
今や人類を肥しにして、地上を埋め尽くしてゆく。
そんな予感を覚えさせて終わる。
この映画では、女性だけに花が咲いていたが、男性も花になることをほのめかしていた。
女性キャストが揃っている。
刈谷友衣子、山下リオ、伊藤歩、それにヒロインの黒木花である。
綾野剛は勿論、このキャスト陣でこの物語は骨格が支えられている。
顔にしても花にしても非常にアップが多く、質感・量感を大切な美的な要素としているようだ。
しかしそれが物語のディテール描写に繋がっているかというと、どうであろうか。
映画ではあまり見られない画面分割のエフェクトも、その必然性があるかどうか。
それがどういう展開の強調として組み込まれたのかはっきりしない。
注意を惹きつける効果はあったかと思うがどこにどう注目したらよいのか。
掴みにくい朧げな内容であった。
全体的に具体性と肝心な部分の説明が乏しすぎる。
伏線に繋がっていくアイテム(場面)かと思うところがどう接続し広がったのかが不確かで、ただのエピソードなのかと思い直した。
このシャニダールの花から薬品を抽出する製薬会社の業務内容がもう少し具体的に示されないと、基盤が落ち着かない。
手術後の展開があまりに不明すぎで、広がりを全く知ることが出来ない。
女性が手術後ことごとく死ねば当然社会的に取りざたされるし、薬がどれだけの効用が見られているのかも含め分からない。
主任は、あの事態に対し単に犠牲はつきものとして押さえているだけで、研究室においての原因究明や打開策もましてや報告もまるでしないというのも、あまりに非現実的すぎる。
と言うより、決定的に幾つもできる流れの可能性についての考慮がなされていないとしか思えない。
もっとたくさんの流れや場面が生成されてこないと、物語に入ってゆく自然な構造が出来ないのではないか。
各キャストの人物の描き方がどうにも貧弱であった。もう少し量感が欲しい。
まさかあの大写しでそれに替えているつもりではないと思うのだが、、、。
スケッチブックに描く絵が何か重要なシーンに展開してゆくのかと思ったが、ただの絵に過ぎなかったような。
よく神秘主義の書物に載っている図にあるヒトは倒立した植物だ、という絵が暗示的にパソコンのテーマ画像になっていたが、雰囲気を漂わせるまでであった。他にも意味の有りげなシーンがあったが、それが結局どういう働きをしていたのか分からないというのが幾つかあった。
映画のテーマが今ひとつ絞り込まれていないところからくる、スカスカさが感じられる。
テーマに囚われずにわれわれは作品を鑑賞する自由をもつが、その前提として作品がある意図を下にディテールまで広がりを持ってしっかり(有機的に編成されて)作られている必要はあるはずだ。
「自分の理解の及ばない世界は認めないのね。」
それを認めざる負えなくなる主人公。
恋愛関係となっていた黒木と綾野剛であったが、ここで別れることになる。
シャニダールの花を悪魔の寄生植物と取るか、人類の次の姿として受け容れるかである。
戦いと転生の選択に立たされるが、
共存は有り得ない。
どちらかとして生きるだけだ。
ヒロイン(黒木)は植物への道を選ぶ。
と、思ったのだが、いまひとつはっきりしない結末に戸惑う。
自由な解釈ができる構造がない。
キャストの良さで、観ることが出来た。
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