ザ・ミスト

The Mist
1980年
アメリカ
フランク・ダラボン監督・脚本
スティーヴン・キング『霧』原作
マーク・アイシャム音楽
ロン・シュミット撮影
トーマス・ジェーン 、、、デヴィッド・ドレイトン(大物画家)
マーシャ・ゲイ・ハーデン 、、、ミセス・カーモディ(狂信的なキリスト教信者)
ローリー・ホールデン 、、、アマンダ・ダンフリー(新任の女教師)
ネイサン・ギャンブル、、、ビリー・ドレイトン(デヴィッドの息子)
アンドレ・ブラウアー 、、、ブレント・ノートン(著名な弁護士)
トビー・ジョーンズ 、、、オリー・ウィークス(スーパーマーケットの副店長)
ウィリアム・サドラー 、、、ジム・グロンディン(機械工の作業員、カーモディの信者となる)
ジェフリー・デマン 、、、ダン・ミラー(デヴィッド側に同調する年配男性)
フランシス・スターンハーゲン 、、、アイリーン・レプラー(小学校で教師をしている白髪の老女)
ゴシックロックの”Dead Can Dance”の音楽がこのフィルムの神学的重厚さを更に増していた。
一部の隙もない、完璧な作品である。
これほど身につまされる映画はない。
一人であれば、自分だけの責任において黙々と行動をとるだろう。
しかし、雑多な人間の集まりにあって、コンセンサスをとりつつ行動することは大変な困難に突き当たる。
まず、集団が一枚岩で行動を取るなどということは不可能である。
事態が深刻であればあるほど。
人間は何であれ意識-思考で判断し行動するしかない。
もっと言えば自分に深く染み込んでいる言葉(パラダイム)で考えるしか他にない。
それが限界である。
窮地に追いやられれば、まさにそれが顕在-発動する。
明確な経路がなければ迷いに迷い、何かを(誰かを)信じる方向に流れるだろう。
そこに自らを預けようとする。それしかなくなる。
もともと信仰はそういった場所に生じたはずだ。
その選択は究極であるが上に、極めて排他的だ。
その信仰(虚妄)の為には犠牲(殺害)も厭わない。
外敵に対する以前に、内部に外部ー他者を作り粛清する。
それによって狂信的なまとまりを保持しようともする。
その信じる対象が何であれ、聖書の物語、科学の法則、経験則、、、自分の信じるヒトであれ。
その言語体系に沿って、表象を感知し、事象を認識する。
策を企てる。
これは事後的な判断により正誤が評価される。
だれも先の事など解らない!
事態は、人知の及ぶところではなかった。
しかし、もともとそうであったのだ。
それが当たり前のことであった。
暫く人間は、そのことをすっかり忘れていたのだ。
自分の判断の及ばぬことが厳然と存在する。
そのことを、、、。
どこにあっても、霧に視界を奪われたら要注意である。
霧の中にそれを感じ取ったら、危機的状況である。
少なくとも、われわれの理性など何の役にも立たない。
いや、邪魔するだけである。
その迫り来る不安と恐怖に呑み込まれ。
不可知論の選択ではない。
ただ、本能の壊れた人間はあまりに脆弱であるということだ。
その前提の上で、身を守るしかない。
ギリギリのところまで、希望を捨てず。
如何なる短絡も、破滅しか呼ばない。
これは、永遠に残る映画の一つであることは間違いない。
「セラフィム(熾天使)の主」とは何か?
(天使の9段階の1位にあり、最も神に近い天使)。
そのホストとは、神か。
それは自然でもある。

原作本
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