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終末期における美術 ~デューラー ~マルク

終末感漂う今日この頃、いささかクーラーにあてられ風邪気味でもある。
咳は相変わらず。

どんよりと纏わりながらチクチク刺してくる不安(又は痺れ)に苛まれる日々。
恐らく今や誰もが少なからずそうではないか?
あえて終末とは今更口には出来ぬが。
かつて、牙を剥いた狂気が音を潜めながらも怒涛のように迫りくる終末期にあって、その空気に最も敏感であった芸術家たちの仕事に少しばかり思いを馳せてみたい。そんな気持ちだ。

まずは、ドイツルネサンスにおいて。
この時期ヨーロッパは自然災害・騒乱・疫病などにより、いよいよ世界の終末がやってきて最後の審判が下ると多くの人々が信じていた。
15C~16C。
代表する画家として、アルブレヒト・デューラー。自意識の目覚め、確信と探求。

001.jpg

デューラー28歳の自画像。
真正面を向いて彼方を見つめる画家自身の肖像画。
ゴシックからルネサンスへの転換期。
まだ肖像画(自画像)は真横か斜め45度から描くもの以外存在しなかった時代である。
(キリストと聖者は正面から描かれることが多かったが)。
この自画像、明らかにその表情の崇高さからみてイエスの厳粛かつ神聖な趣を湛える。
しかし何故か貂(テン)の高級毛皮のコートを羽織っているのだ。
この時期のニュールンベルクの富裕層のものであるが間違ってもイエスに似つかわしい衣ではない。
そして身分から言えば、ほぼ最下層に属する画家が纏う衣服ではない。
あらゆる意味で、時代も法も超越している。
ここに見出されるものは、自意識か。
ルネサンスの人間意識であろうか。
神に捧ぐために絵を教会の壁面に描く無名の修行から完全に放たれ。
立派な額縁で切り取られた移動可能な自我としての絵画の確立を見る。
(勿論、彼以前からカンバスは現れている。が、自意識を明確に打ち出したmonumentalな作品であろう)。

これは強烈な確信に支えられた単なる自画像を超える絵であることは、容易に直感できる。
彼の、時代に叩きつけたマニフェストとも言えよう。
本来、天使や聖人など想像で描くもの以外、鏡を見て描く自画像は、斜めが圧倒的に描き易い。
真正面では鏡との関係から距離ー遅延により(多少なりとも)記憶による作業となる。
少しでも斜めならダイレクトに観て描ける。
レンブラントの肖像画群にも真正面作品はない。

更に、髪の毛より細く鋭い線描による木版画。
そしてグーテンベルグの印刷術による作品のメディア化。
世界に拡散される稠密極まりない彼の絵=自意識の(もはや表現力による)影響力は、人々の終末感をイメージの上で強く決定づけた。
apocal.jpg

「ヨハネの黙示録」
だれもが我先に飛びついて購入したという。
(だからテンの毛皮などなんてことはない)。
更に木版画「大受難劇」が大ヒットする。
個人的な才能ー天才の開花だ。レオナルド、ベリーニ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ、、、。

Melancholy1514.gif

そして究極の作品。
「メランコリア」
謎に満ちた象徴的な画像世界。
無造作に散蒔かれた道具類、どの方向からも和が34になるユピテル魔法陣。
何らかの成り行きを鋭く見守るかのような天使の眼差し。
決然としたその表情は強度において彼の自画像に劣らない。
これは更に強力で難解なマニフェストか!
それとも、探求。
恐らく後者であろう。
宿命的に対峙せざる負えない世界という謎、または終末に向けた。

彼はマクシミリアン1世から依頼された「凱旋門」を100枚以上の版木を使って完成し、莫大な年金を得て優雅に暮らした。


そして20C。
ブラウエ・ライター(青騎士)である。総合的な抽象芸術の年鑑誌であり多国籍制作グループとして知られる。
この抽象芸術は既存の美術界に対する彼らの不可避的な挑戦であり、必然的な戦いであった。
中心人物はカンディンスキー、フランツ・マルク、ガブリエル・ミュンター。他にマッケ、ヤウレンスキー、作曲家のシェーン・ベルクもいた。クレーもマルクとは親交が深く、作品を彼らの展覧会に寄せていた。

Franz Marc

ここでは世紀末の深淵をカンディンスキーより鋭くとらえていたフランツ・マルクである。時代に対する闘争と精神の解放。
ブラウエ・リヒターの年鑑の表紙絵はカンディンスキーによるものであるが、その絵、蒼い馬に跨る「聖なる騎士」はフランツ・マルクその人である。(カンディンスキーの一筆描きでもはっきりマルクと分かる。如何にカンディンスキーがマルクの可能性を信じていたか)。

マルクの絵には、自然の中で遊ぶ鮮やかで生き生きした動物が描かれる。
しかし彼は動物画家ではない。
それは念を押して自ら述べている。

マルクを筆頭に、彼らは色彩を固有色から解放した。
ランボーのように色に(精神的な)意味を見出した。
馬は蒼い。その精神性から。
牛は黄色または赤い。その土着性から。
更に単純で躍動し交錯する輪郭線。
ここには、草や木や地平線や動物の背や尻尾や耳や脚の区別はない。
それらの美しいリズムの交差でしかない。

彼は自然の根源的リズムと様々な生命との調和をしなやかな線と鮮明な色とで躍動的に表す。
新たに導き出された色彩の調和に、活き活きとした生命感を表すフォルムは単純明快でもある。
それはそのまま自然の本質と人間精神の探求であった。
マルクは、一次大戦で最前線の戦地に赴きながらも、「創造のための集積」というフォルム実験を継続した。
まさに戦争も色彩とフォルムを戦いとる過程の一つであったのだろう。
しかし、彼は自分にとって戦後が存在しなことは知っていた。
自然の精霊から伝えられたのだろうか?

マルクの36歳の戦死に伴い、ブラウエ・ライターも解散となる。

招集前にドイツを去っていたカンディンスキーが「また会おう」と彼の元を訪れる。
「もうお別れです。」と返すマルクの言葉に驚き「何でそんな事を言うのか」尋ねるカンディンスキーに彼は「ぼくには分かっています。」「もう二度と会うことはないでしょう。」と答えた。
カンディンスキーは数ヶ月ですぐに戦いは終わると踏んでいた。

終末感が異なっていた。
マルクには分かっていた。
どれほど深刻な終末が訪れているか。
だからこそ、彼の絵には命の煌きが描かれている。


「やがて精神の世界が勝利する。」(フランツ・マルク)

FranzMarc Turm


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