ピアノレッスン

"The Piano"
ジェーン・カンピオン監督・脚本
マイケル・ナイマン音楽
ホリー・ハンター 、、、エイダ・マクグラス(口のきけないピアニスト)
ハーヴェイ・カイテル 、、、ジョージ・ベインズ(エイダのピアノを買い取る)
サム・ニール 、、、アリスディア・スチュアート (エイダの結婚相手)
アンナ・パキン 、、、フローラ・マクグラス(エイダの娘)
ケリー・ウォーカー 、、、モラグ
まさに"The Piano"であった。(何故、そのままではいけないのか?)
いつもわたしは邦題を見てから原題が気になる。
信用できないからだ。
今回も、「ピアノレッスン」ではないことが分かった。
これでは人間(の恋愛)ドラマ止まりであろう。
The Pianoは”Soft Machine”に近い。
「17歳のカルテ」ほど酷くはないが、明らかに違う。
デヴィッド・クローネンバーグの女性版かとも思える程の、piano(という延長)との機械的・有機的な融合、さらに原初的なエロスがむき出しに残酷に描き出されていたジェーンカンピオンの見事な「映画」であった。
わたしは随分と前に彼女のショートフィルムをVHSで3本ほど観た事がある。
確かオーストラリアのコンテストで最優秀監督賞をもらい(彼女はニュージーランドの監督だ)、”ピール”というのがカンヌ国際映画祭で最優秀短編映画賞を取っていたはず。特になんていうことのない面白い映画と思っていたが、後々何故か残るものがあった。
その頃の作品をもう一度観てみようとも思わないが(VHSは面倒くさい)、こんな映画を撮る人だったのだ、と改めて感慨に浸った。
精霊の宿るようなアニミズムの息づく幻想的な映像美とマイケル・ナイマンの繊細で透明に絡む音楽。
打ち寄せる海の波飛沫を受けて、岸辺に捨て置かれるpianoの静謐な雄弁さからもう胸が痛くなった。
pianoから引き剥がされたエイダ(ホリー・ハンター)の身体的苦痛にわたしの身体も共振する。
もう最初から鷲掴みされ、息もつかせない。
彼女が口のきけないことが、より内面を際立たせpianoとの一体感を浮き彫りにする。
緊張感がいやが上にも昂まる。
蒼い空と赤裸々の美しい旋律とともに。
pianoの蓋があたかもクローネンバーグの噛み付くタイプライター同様に敵意を示すかと思うと、自らの身体の一部(肋骨あたりか?)をへし折って取り出すかのごとく、ピアノのキーをひとつ愛の印として相手に差し出そうとするなど、、、延長した緻密な道具との融合体としての身体性と、ヒトが「人間」である前にはるかに深く「性」である現実を、余すところなく濃密に映像化してゆく。
われわれにとって身体はテクノロジーの前提なしに成立し得ない。
ましてやpianoは最も精神の近場にある音楽を具現化する重い機械・道具である。より長いpianoならば弦が伸び倍音はさらに理想的になるが、その関係(身体)性の不自由さが悩ましい。
さらに「死」がまだ地球上に導入される前から「接合」というかたちですでに単細胞生物に「性」は芽生え始めていた。
「人間」など、たかだか200年に満たぬ概念に過ぎず、ミッシェル・フーコーの謂うように、浜辺の砂の表情のようにやがて消えゆくだけのものである。きれいに初めからなかったかのように。
この「映画」は大変な強度をもった本質力と美意識に貫かれている。
ナタでpianoを傷つけられ指を切り落とされた彼女が、ピアノを縛っていたロープに足を絡ませて海に身を投じる場面は、まるで神話を実際に目の当たりにする衝撃であった。pianoと指を失えば、もはや彼女は羽のない鳥だ。
羽を背にしょった娘の母親を自分に繋ぎ留めたい無邪気な悪意も自然だ。
夫が彼女の言葉を正確に聴きとり、彼女の恋の相手に彼女を託すのも頷ける。
何故、彼女は海底でpianoに繋がれたまま漂う屍体とならなかったのか?
恋人との恋愛の情があったからなのか?
生への純粋な衝動からなのか?
恐らく両者によるものだとわたしは思う。
水中であのロープから足を引き抜いて浮かび上がるちからに、本当の救いを感じた。
何の救いなのか、どういう救いなのか分からない。
しかし救いとは、きっとこういうものだと感じた。
男が作った金属の義指がコツコツと鍵盤に当たり、妙に艶かしくて美しい。
配役は申し分ない。
とてつもない大傑作であることは言うに及ばない。
今度観る映画に困った。
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