17歳のカルテ

”GIRL,INTERRUPTED”
久々に見る不可解な邦題。
”17歳のカルテ?”奇妙な違和感。
この病は、思春期のちょっとした気持ちの葛藤などとはまったく異なる次元のものである。
しかし、やはり人間固有の根深い「存在の病」に違いない。
アンジェリーナ・ジョリーの存在感がただならぬものであった。(不必要に美しい自覚的悪役だ)。
青白いウィノナ・ライダーは,こころの過敏な揺れ動きを病的に的確に演じていたと思う。
終盤は特に、このふたりのぶつかり合いが鬼気迫った。
あそこまで、実際にお互い抉り合えるものか。まさに生死を賭けたやりとりである。
生半可なホラーなど吹き飛ばす怖さに震撼する。
「カッコウの巣の上で」を連想してしまうが、こちらのほうが凄みと生々しい痛みが迸っている。
あの病院にあって、少なくとも彼女らは自らの存在を極限的に問う場所を通り抜けたことは確かであろう。
そこが、何であろうと。
容易くできる経験ではない。
ボーダーライン・ディスオーダー、、、。
わたしはディスオーダーからニューオーダーへ向かったつもりだが。
今自分がどこにいるのか定かではない。
パラレル・ユニバースは本当にすぐ隣にある。
本作中にもTVで「オズの魔法使い」のドロシーが、冒険して得られるものはすぐ間近にも見つけられるのよ、ということを旅の後に言っていた。
5次元のように間近にそれは存在する。
そんな関係にあらゆる亜時間は存在するようだ。(わたしもその中の少なくともひとつにはまりこんでいる。この映画の主人公(原作者でもあるスザンナ・ケイセン)によれば、それは「流砂」であり「パラレル・ユニバース」となる)。
簡単に落ち込むことはあるが、抜けるとなったら、どうにもならないほどの隔絶を生じる。
程度の問題ではない。
そんな次元だ。
わたしも入院経験はある(「境界性人格障害」ではない)が、病院は体の疾患による入院であっても病棟にあって、人の無意識の狂気と愚劣さは外界にあるより遥かに生(なま)に発露される。
それは唖然とする場である。
わたしは病院に入院することはもう御免だ。
彼女たちのような病であると、入院は非常に長引くらしい。
(精神科医である弟の話では、完治はほとんど困難なものであると)。
価値観やこころの持ち方レヴェルの問題ではないのだから。
また、そこにいるだけでどれだけの影響を被るかも小さなことではあるまい。
そしてその環境に心ならずも順応・依存してしまう。
しかし病院を退院すること自体は可能である。
要は、そこから引き剥がした身を社会というもう一つの病棟に投げ込む覚悟がついているかどうか。
である。
その後、外で再会もあろうが、自己コントロール(プロデュース)がどれだけ効いているか、の間だったりする。
実際、病の完治などわたしには信じられない。
どのような病であるかの違いに過ぎない。
(人の存在自体が端から病であることは言うまでもない)。
あの婦長(彼女の名演が光った)の言うように、全てを余すことなく書き出すことである。
まず、何より確かな人間であることからの治療法である。
精神的な痛みを少しでも対象化する役には立つ。
人として正常・異常などナンセンス。
もはやなにかである必要などない。
「わたし死んでないわよ。」
まさに、そこだ!
”17歳のカルテ”ってなんだそれ?
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