リリーシュシュのすべて ~呼吸 ~ソフト・ヴァーティクト

赤い空に緑に広がる地(田んぼ?)。
植物の盲目的に萌る生命の中にポツンと佇む脆弱極まりない存在。
ヘッドフォンなしの生活など彼には恐らく有り得ない。
そして夜毎打たれるキーの音。
張り巡らされるウェブ上のスレッドに引き寄せられてゆく孤独なひりつく魂たち。
彼らはエーテルに浸かり癒されたいと砂漠にありもしない泉を求めるように集まってくる。
一時の蜃気楼と知ってはいても。
ピアノ曲”sight”の淡々と流れる凛とした美しさ。
それは昔、ベルギーのクレプスキュールレーベルの澄んだ音楽を思い起こさせる。
(特に「ブリュッセルより愛をこめて」かのウィム・メルテン(ソフト・ヴァーティクト)のThe Fosse、、、)。
スッと腑に落ち、とても心地よい。
そこにジョイ・ディヴィジョン的な屈折が暗い歪みのように入る。
Lily Chou-Chou (Salyu)の詠うどの曲も、あまりに距離感なく馴染んでしまう。
音楽とは何か。この調べに絵は。
自然に存在するようで、ないもの-場所。
しかしそれなしでは呼吸することすら、できない。
まさにエーテルこそが必要なのだ。(エーテルとはまた絶妙なモノを選び出したものだ)。
そうだ別にダークマターがエーテルであっても良いはずではないか。
飛べない翼。
飽和。
回復する傷。
アラベスク。
エロティック。
共鳴(空虚な石)。
グライド。
(わたしは「飽和」と「共鳴」が特に好きだ)。
そしてクロード・ドビュッシーの前奏曲集第一集からの曲、亜麻色の髪の乙女。ベルガマスク組曲より前奏曲、月の光。そしてピアノ曲、アラベスク1番が主題音楽として空間を生成してゆく。
このポピュラーな印象派の名曲とLily Chou-Chouの曲、”sight”などのBGMがタペストリー状になって流れる。映像と音楽に切れ目がない。どこぞのアーティストのPVでもこれほどの融合は滅多にあるまい。
間違いなくスワロウテイル以上のPVである。
そして金-円よりも抽象度を上げたエーテルである。
(わたしたちには、”金”よりも”エーテル”が必要なのだ)。
しかしエーテルはこれまでに一度も、その存在は否定されてはいない。
単に新たな理論体系により乗り越えられただけの話だ。
所詮、全ては言葉に過ぎない。
そして、確かで儚いもの。
わたしたちの根拠であるもの。
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”呼吸”(Lily Chou-Chou)が呼び水となり、急にクレプスキュールのLPを確かめたくなった。
"Maximizing the Audience "(Win Mertens)をレコード棚から探し出し、聴いてしまった。
空はその時真っ赤だった。
禍々しいほどに美しい仄暗い孤独な反復。
切なさに感極まった。
何故、これほどまでにこの地球は哀しいのか。
もはや、痛ましい想い出のように。