カポーティ

カポーティ。
これも「冷血」は読んでいない。
実際に起こった凶悪殺人事件の取材による小説である。
いかしこの映画は彼が「冷血」を完成させるまでを描いた伝記的映画である。
彼によってノンフィクション・ノベルという新たなジャンルが切り開かれるに至る物語である。
この映像は完全にオリジナルとして観る事のできる作品だ。
隅々まで映像美に拘った映画である。
カーポティの小説描写のように瑞々しく痙攣する危うさを滲ませる。
クローズアップや間が冴え渡る。
奇を衒ったところやムダは一切ない。
しかしこのカーポティ、妙に既視感のある人物であった。
実際、滅多にいないと思うが。
遭ったことのあるような、、、。
似ている人物がいたような。
思い当たったのは、彼は幼形成熟(ネオテニー)の容姿-雰囲気だ。
ある種のエイリアン、未来人-人類の進化形。
環境の過酷さに適応するための生物学的な特殊化。
少年のまま大人へと成長してしまった姿だ。
フリップ・シーモア・ホフマンが一番それを直覚していたのだろう。
あの役作りから明らかに分かる。
ジョン・ナッシュを演じたラッセル・クロウのように見事ななりきり方であった。
似ている似てないレヴェルではない、確かな変身である。
幼少年期の育成環境が人に及ぼす影響の大きさは、やはり計り知れない。
カーポティが興味を惹かれる殺人犯もやはり自分のように年少期の人間の環境を与えられなかった男であった。
同種の者同士は触覚でそれを悟り、惹かれあう。
「僕と彼は一緒に住み彼は家の裏から出てゆき、僕は表から出て行った。」
カーポティはそのようにお互いの関係を例える。
特殊な育成環境への依存から身を引き剥がし、いかに自らの内的な意思を発露させるか。
人は誰でも少年期にその先の成長をかけた(淘汰から免れんとする)戦略を練る。
無意識的に意図的に。生物学的に(生命論的に)。
もっと言えば、どんな自然法則からも自立的に。
カーポティもその殺人犯も「適者」でなかったことは確かであるから。
超能力のような尋常でない才能が彼を生かした。
これは通常に発達した人間の能力とは異質だ。歪みとして捉えられるところでもあろう。
その魅惑する唯一無二な特異なセンテンス。人をたちどころに取込み、巧みに操る話術。その語り口。
「ぼくも子供の頃から常に人から誤解されて生きてきている。この外見からも、話し方からもね。」
「母に置き去りにされホテルに閉じ込められたぼくは、その恐ろしさのあまりに大声で叫び続け、そのまま気を失ってドアの前に寝込んでしまったよ、、、。」
(実際彼は母親に捨てられ親戚をたらい回しにされて育ったが、この言葉が彼の表現であることには違いない)。
おずおずと犯人は心を開いて語り始める。
カポーティの前では、誰もが全てを語ることになる。
だが今回ばかりは、詳細な取材を積み上げるため友人関係まで築いてきた実行犯を殺さないことには物語は完結しない。そういう新手法を編み出したのであるのだから仕方ない。
濃い取材を取るため弁護士を雇い死刑を先延ばしにしてきたが、裁判が4年以上も長引くことはもう耐えられなかった。
この稠密な物語から一刻も早く解放されたい。
小説は朗読会を経て、ほぼ大絶賛で迎えられることは確定してる。
しかしこの年月はじわじわと彼を引き裂き、深く蝕むことになった。
他者(その家族)の中に踏み込むことは、同時に自分(その家族)の中にもまた踏み込んでゆくことになる。
自分を徹底して対象化しきれるか、それに耐えられるか。
意識化という作業は、極めて過酷で残忍だ。
冷血とは願望だ。
殺人者も本人の内奥や血縁の周辺を精緻に調べるほど感情に移入してきてしまう。
彼もまた超一流のセールスライターのように自分の思惑通りに人をコロッとその気にさせるが、既に作家というエゴイストには徹することはできない。
「あまりに恐ろしいものに接すると、かえって気が休まるよ。」
彼も当初、余裕を持って気楽に始めたことであった。
「冷血」でありたかった。
最後に彼は自分を最愛の友と呼ぶ殺人犯に死刑執行の前に会う。
そこで彼は思わず涙をこらえきれなくなる。
これは彼自身を深く戸惑わせたことだろう。
もしかして、初めて彼が他者に共感した時であろうか、と思った。
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