ステイ

人が不慮の事故(または病)などで死ぬとき、取り敢えず目の前にいる人に何を願うか?
それが行きすがりの赤の他人であっても”Stay"と頼むのかも、、、。
恐らくそうだ。
”Stay!"
「君だけが僕を救える」
そして、最期に出逢った他者-だれかを取り込み重厚に交錯しつつ固有時間が展開して逝く。
よく走馬灯というが、これは残酷なまでに強いコントラストで錯乱する走馬灯だ。
このイメージの重奏と混濁と反復に意識が離れていきそうになるところをつなぎ止めていたのが、ナオミ・ワッツの演技-存在だ。
最期にストラップされるのであるから、途中は捩れながらも乗っかって行かなければならない。
彼女はこのような心理劇?によく出演しているが、こういった役どころが実に合っていることが分かる。
繊細で知的な優しさを的確に表現できる隠れた(隠れてもいないか)名女優である。
(お父さんはピンクフロイドのサウンドエンジニアであったそうだが、この映画もまさにサイケデリックである)。
ライアン・ゴズリングとユアン・マクレガーのセリフの絡みと重なり(双方から同じ言葉が同時に発せられる)など、音の面も映像に一体化し破れ目がない。
途中からプロットとは直接関係ないと言えるが、ユアン・マクレガーのズボンの丈の短さがどうしても気になった。
こういうソリッドなカットの細やかな繋ぎやアングル、様々な映像効果・補正の凝りに凝った映像であるから細かいこともすぐ注意が向く。このズボン丈は充分に目を引き付けて止まないものであった。
この作品は、映画によって何かを訴えるなどという、映画の形式を利用した思想の伝達などではなく、映画そのものである。
映画という形式=内容となっている。
であるから、もしこの映画は何を言いたいのか、という視点で見たら、つまり内容だけを抽出しようとしたら、言葉の還元不能性に行きあたるだけだ。
恐らく、夢を見るのと同等の体験が最適である。
夢はただ受け容れるしかない。
そして朝が来てふっと覚める。
死を前にしたVISIONも自動的にスイッチが入り、周囲の人間-時間から見ればあっという間に切れるのだ。
その狭間の美しくも痛ましい生きられる時間をわたしたちは垣間見た、と言えるか?
その儚さ、無常さ。
確かに”Stay"
「ここにいて」
これ以外に発する言葉がない。
今まさに逝こうとしている彼にそっと寄り添う2人。
ユアン・マクレガーとナオミ・ワッツ。
この瞬間の自責の念を抱えた魂の迷いが3人の世界を作って見せた。
その時の外界の時間にすれば2分程度であろう。
光の速度の物語である。
キャメルとともに光を表現し得たピンクフロイドつながりで言えば、アルバム"Wish You Were Here"があった。
死ぬ間際でなくとも、日常的にこれはある。
常に、そういうものなのだ。
孤独は絶対的なものであり、本質であるが、誰か-あなたは必要なのだ。
何であるにせよ。
それが孤独を際立たせるにせよ。
「あなたがここにいてほしい」
ユアン・マクレガーのズボンの丈は何故、あの丈でなければならなかったのか?
今も気になる。