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絵本のために 最終回

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j.描くための前提

すべての眼で被造物は開かれた世界を見ている。われわれの眼だけが、いわば逆転されている。

ライナー・マリア・リルケ

われわれは見ているときにある事柄が不可解であることを見出す。なぜなら見ていることの全体がわれわれにとってあますところなく不可解というわけではないからである。

ルードウィッヒ・ビィトゲンシュタイン

見るとは、線や形や色が視覚的に捉えられるその仕方であり、言語―文法を不可分な成分とした有機的体制によるものと説くノーウッド・ハンソンらを引くまでもなく、「わたしたちは知ってるものを見ている」のです。

言葉の数だけ世界は広がる。地の中に図が何らかのパラダイム―体制により浮き出てくれば、すぐさまそれをもともと知っていたかのような自明化が起こります。その起源、発端の瞬間はたちまち忘れ去られて。所謂、外部―差異性により内部―意味が生じたのに、はじめからそのものが、そのものとして存在していたかのような倒錯が起きます。至る所に起源の物語―歴史が作られ積み上げられてきました。意味の内在化―すべての物には意味がある、と。

時として、極めて異様なものが眼前に立ちはだかったり、不安で焦燥にかられるようなものに出逢うこともあります。寝ぼけているとき?トワイライトゾーンで。またはアルタード・ステイツにおいて。マックス・エルンストのコラージュなどに。ピカソの”アビニョンの娘たち”のように。ウンベルト・ボッチョーニの彫刻に。”それ”が現れた時、言語―有機的体制が希薄なときか、過剰で形態―意味がひしめき合い、打ち消し合って、宙吊りになってしまい眼がうずいてしまって見ようにも見れない。
しかし、その状態も一度或る対象として認知され構造的に把握されると、いつもの認識枠に回収されています。何もなかったかのように。夢から覚めた時と同様に。

わたしたちは何の疑問もなく線遠近法で整序された世界を見渡しています。15Cに作られたカメラ・オブスキュラによって始めて可能になる視界です。ルネサンス期に始めて成立した、自分が世界の中心―自我として世界を捉える視座です。
それは内面領域です。そう、キリスト教の告白の制度の当てはまる場所。フィジカルには内燃機関の発明によりさらに強化される。
では、外界とは、その問いは客観とは、と同様に意味をなしません。

人が言語体制により構造化されたものを認知する生理的必然として、眼球が高速度で微動し続けていることは忘れることはできません。そのような機能から継起的記憶の累積と抽象過程を不可避的に経ることになります。イデオロギーの介在する余地です。時空間の生じる余地です。わたしたちにとって“いま”は情報ではない。常に遅延している。存在学の生じる余地です。

わたしたちは存在に追いつかない。恐らくすべての生物のなかでもっとも大きく遅延している。膜構造をもった時点で生物としての遅延は始まり、、、。
すべての生物は固有の身体原理に基づき固有の幻想世界を成立させています。

誰もが違う場所に生きています。


この物語は回帰します。はじまりへ。




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