今を生きる

暫く寝ていると、とは言え家のなかはゴタゴタ続きであるが、様々な想いにとらわれたりする。
あくまでも、たりする、だけであり囚われっぱなしになるのではないが(笑
トリプタノールとリリカの痛み止め系を2週間止めたことで、すっきりしてきた。
これまで無駄な副作用に甘んじてきたことが分かる。
日々重層的な副作用にやられている可能性にも注意深くありたい。
また副作用と言ってもわたしには関係ないレヴェルのものではあるが。
しばしば心理療法に、過去のトラウマに対しフォーカスすることから始まる類のものをみかける。
過去もトラウマも創作された物語である以上、それらを自ずと作ってしまう精神傾向に対する治療なのだと思っていた。
しかし、実際その手の本を少しばかり斜め読みすると、当の物語を実体化してその同調に拘るところが気になった。
内面化するベクトルに対するのではなく、スタティックな物語-構造を対象としてイメージ操作を図らんとする。
固執・支配されている自己イメージの書き換え作業-エクササイズであったりする。
過去のトラウマも何らかの拘泥する意識的な表象には違いないであろうし何らかのフィルターともなろうが、
それがどれほどの質量を持ち得るか。
過去もトラウマも正に今の心的状況の反映であり、内容であり、その傾向のひとつであるに過ぎない。
自分についての過去時制のネガティブな物語に少なからず酔うことでかえってあらぬものへ固着を深める。
今、この瞬間の生々しい生の律動-リアリティから身を引いてまで行うべきことか。
関わること自体が自然から身体-存在を無限に遅延させる。
注目し対処すべきことが明らかに的外れである。
生命の存在原理からして、今この場所(時空間)にしか、われわれは存在し得ない-現存在として。
もし自分とは何か、と問うのなら。
正に、開示される表象の全てこそが、完璧なる答えであろう。
それ以外にあり得ない。
その表象に対峙する以外に本来的にわたしの有り様はない。
それを確かに意識化することから、今を生きはじめる。
あらゆる物質とちからが、今わたしという場所-存在を隆起させる。
宇宙の果てより光速で飛来する宇宙線もわたしに関与する。
わたしを形作るものすべての潜在意識、無意識、共同意識、集合的無意識も含めた身体そのもの。
それが高速に律動-現象する。
生命力、として。
方法論を内側を向いてあらぬところに求めていても埓のあく場合ではない。
痛みを止めてはならない。
(実際、わたしは痺れているのであって、痛いわけでは、ない。)
そもそも薬の調整と言うより、医療とは何か?

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