バベル

Babel
2006年
アメリカ
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督
ギレルモ・アリアガ脚本
グスターボ・サンタオラヤ音楽
ブラッド・ピット 、、、リチャード
ケイト・ブランシェット 、、、スーザン
ガエル・ガルシア・ベルナル 、、、サンチャゴ
役所広司 、、、ヤスジロー
菊地凛子 、、、チエコ
二階堂智 、、、ケンジ
アドリアナ・バラーサ 、、、アメリア
エル・ファニング 、、、デビー
ネイサン・ギャンブル 、、、マイク
ブブケ・アイト・エル・カイド 、、、ユセフ
サイード・タルカーニ 、、、アフメッド
ムスタファ・ラシディ 、、、アブドゥラ
アブデルカデール・バラ 、、、ハッサン
この世は「ことば」で出来ている。
この世のほとんどの問題は「ことば」の問題だ。
今更であるが、そう言うしかない。
この映画は、極限的シチュエーションでその問題を浮き彫りにしてみせた。
しかし当事者はそれに気づかないことが多い。
ただ憤るだけ、ただ嘆くだけ、ただ悲しむだけ、ただ諦めるだけ、、、。
ただ、アメリカの家庭で働くメキシコの家政婦が最後に警察で述べることばがすべてを晒している。
「わたしは悪い人間ではありません。愚かな人間なのです。」
言葉はことごとく伝わらない。
外国語だから上手く翻訳できない、等という問題ではない。
権力の言葉、無知の言葉、偏見の言葉、傲慢の言葉、愛憎の言葉、差別の言葉、、、が相互に交わされ、双方にとって「ことば」として機能しない。
それらの関係を「言葉」でなく「目」にそまま置き換えてもよい。
全てが複雑に歪められ、単なる報復・暴走が起こる。
謂わばコミュニケーションの場ではなく(潜在的な)戦場と化すしかない。
メキシコ(及びアメリカ・カリフォルニア)、モロッコ、東京を舞台にストーリーは展開するが、ひとつの凶器ーライフル銃がその場所を繋ぐ。
それは戦争-兵器でもよいが、世界共通語はあたかもそれしかないような気がする。
明瞭に誰にも、それと分かることは、それくらいなのか。
そしてどの場においても、悪い人は取り敢えずいないといえるが、すべてが全く愚かでしかない。
弛緩しきった自堕落な日常で、極限的な事態にあって、どれだけヒトの愚かさが剥き出しになるか。
われわれには実は伝え合う「本当のことば」がまだないか、失われているのかも知れない。
今使っている言葉は、溝をさらに深める機能しかもたない、と感じることの方が圧倒的に多い。
一体、何を見ているのか?
この映画、極力先入観なく見てみると、つまり決めつけを解いて見てみると、一見当たり前に思えるシチュエーションが全く限定されていないことに気づく。
するとかなり恐ろしい事態が見えてくる。
菊池さんと役所さんは実はどういう関係か客観的な説明などされていない。
夜空の下バルコニーに裸体となった菊池さんの姿が、あたりまえの光景を全て異化する。
母親の死因にあの娘は何故あんなに拘るのか?
それにわたしも最後になって気づいた。
その目で見れば、幾つか露出しては来ないか?
われわれは、真っ新な目などもってはいない。
使い古された言葉に塗れて生きている。
この映画は、その先入した言葉を拭い取ることを要求してくる。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督のアメリカ映画である。
名前からすれば、メキシコか?
外国に来て映画を撮るという環境はまさにことばを際立たせる創造的な場ではないか。(もっともアメリカとメキシコなら外国という雰囲気でもないかも知れないが。)
夏目漱石もイギリス留学で見えてきたのは日本語である。言語そのものである。
カルロス・レイガダスという監督(闇のあとの光)よりも遥かにしっかりした普遍的な視座を感じる。
そしてわれわれにとってもっとも必要なことは、新たなことばの獲得かも知れない。
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