ボディースナッチャー 1978
今回も昔のTVからの録画です。(録画時に一度、観ています)。
1978年制作。
ボディースナッチャー/恐怖の街(1956)のリメイク版。
ドナルド・サザーランドを久しぶりに見ました。
その上、レナード・ニモイにとは子供の頃以来です。(おおっ、Mr.スポック!)
さらに大傑作「エイリアン」にも出演されていたヴェロニカ・カートライトさんまで!
これだけでも前のめりに観てしまう映画ですが、その内容も申し分ない出来、ではあります。
ずっと、最後の絶望シーンは脳裏に残っていました。
(サザーランドの虚無を絵に描いたような顔もそうですが、ヴェロニカ嬢の表情は「ムンクの叫び」に近い)。
わたしにとって「他者」とは何か?が剥き出された瞬間。
普段、われわれがある名前で呼び合い確認している「相手」がどれだけの信憑性を担保しているか。
現在のコンピュータでは、顔認識程度で手一杯で、とてもその「雰囲気」の違いなど突き止めることは不可能である。
カフカの「変身」のように自分が気づいたときには自分が異物に変わってしまっていて、そこからもはや逃れられない絶望ではなく、周囲の人間が突然、見た目は同じなのに変わってしまっている恐怖と絶望である。
しかし両者ともに、自分にとってはいつもの日常を生きるはずが、取り巻く人々から徹底的に疎外され迫害されるのは変わりない。心が通じないのだから。
自分が虫になってしまうのも、周りの人間がみな虫になってしまうのも、ともに自分の日常が奪われる-自分の場所がなくなる恐怖である。さらに迫害も加わり絶望に導かれて逝く。
前半は断片的であるが異様な細部の克明な描写が、極めて不穏な空気を隅々にまで満たしてゆく。
然りげ無いヒトの交錯の全てが、秘められた意味を持つように浸透する。
ひたすら静かに、、、。
主人公たちが粘着質の繭のような人型を発見してしまってから、秘密裏に計画を進めていたであろうエイリアンたちがにわかに、ざわめきたつ。
街はもうすでにいつもの街ではなかった。
後半からはそのやりきれない恐怖と不安が押し寄せてくる。
予定調和や御都合主義的な仕掛けなど全く用意されていない。
何の手立てもなく全ての道が塞がれて追い詰められてゆくだけ。
息をするにも苦しい空虚の充満した光景が続き。
徐々に確実に絶望の袋小路へと迷い込む。
彼らエイリアンは感情をもたない。
共感や同情が出来なければ、ヒトとの相互理解はもとより不可能だ。
ここには、われわれヒトと他者としてのエイリアンが厳然とあるだけだ。
見た目はソックリなのに、彼はすでに彼ではない、、、。
彼女は昨日の彼女では、もはやない、、、。
この地球環境に適合したからだを乗っ取り、彼らが無事に生を繋いでゆくか、われわれが自らの精神を守って存続して行けるか、しかしわれわれは一方的な劣勢を強いられる。
覚束無いわれわれの相手に対する認識力では、コピーは容易に見抜けられない。
常に彼らに分がある。
常に先手を打たれる。
かつて細胞にミトコンドリアが侵入して、完全に適合したのとは異なり、われわれのからだ-乗り物をコピーし、そこに彼らが乗り移るということは、共存でも共生などでもない。
言うまでもなく単なる乗っ取りであり、ヒトの死滅を意味する。
まさかと思う人面犬!まで現れる。
ある意味、地獄図だ。
しかし、、、
現実に、日常で多少なりともわれわれが心に秘めている不安が晒されているのも確かであろう。
「放っておけ。すぐに眠くなる。」
眠りに落ちている間にそれは起こる。
目覚めた時には、、、
〈もうすでにわれわれは知らず乗っ取られているのかも知れない。〉
何も変わらず生きている。
そのままの地球である。
松岡正剛氏の次の言葉を思い出す。
「誰も今、世界が二分の一になったことを知らない。」
可能性はある。
文句のつけようもない。
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