ヴィデオドローム
Videodrome
1982年
カナダ
デヴィッド・クローネンバーグ監督・脚本
ジェームズ・ウッズ 、、、マックス・レン(『CIVIC-TV』の社長)
デボラ・ハリー 、、、ニッキー・ブランド(マックスの彼女)
ソーニャ・スミッツ 、、、ビアンカ・オブリビアン(教授の娘、ブラウン管伝道所責任者)
レスリー・カールソン 、、、コンベックス
ピーター・ドゥヴォルスキー 、、、ハーレン
ジャック・クレリー 、、、オブリビアン教授(ヴィデオドローム開発者)

「裸のランチ」(バロウズ)や「クラッシュ」(バラード)らの映画も手がけており、ここでも以前「イースタン・プロミス」を取り上げたデヴィッド・クローネンバーグの1983年制作映画。
最初の大ヒット作品。
とは言え、映画ではなくヴィデオでカルト的な人気が爆発したという。
まさにヴィデオドロームによる侵蝕が起こった。
ヴィデオカセットまたはメディアでなくドロームとして。
もし、カセット・メディアであればすでに効力はない。
(うちの娘はヴィデオカセットというメディアを知らない。
まだレコーダーは2台ばかり使っていないが残ってはいる。
書庫の屋根裏に1000本以上カセットが積んであるのだが、まだ見たことはないはず。
時折、わたしがどうしても確認したいものを探しに入るが、そんなことも最近は滅多にない。
もう亡くなったヒトが、その山のなかで音もなく蠢いている。
その中でたしかに生きている。不穏な空気が西日で温まってゆく。
そこで多くの様々な世界が再生されることを夢見ている。
ひたすら奇妙な感覚に陥る。
墓地をよこぎってゆく時の感触にも近く。
忘れ去られてゆく記憶のブラックボックス。)
しかしヴィデオは飛躍的に情報量を増やし恐ろしい速度で地球を覆っている。
偏在し何処にあっても顕在する現実となり。
ヴィデオ「ドローム」としてわれわれの身体と化している。
恐らく、われわれヴィデオ世代も無論その後の世代も、この記録された再生映像の受容に身体そのものが最適化されている。
わたしの娘は生まれながらにその身体を受け継いでいる。
最早、メディアではない。
あの郷愁を呼ぶ独特の無骨さ。大きさ。思わぬ軽さ。危うさ。質感。暗さ。
それらをわれわれが「現実」世界にあって、対象として取り扱い、その時間だけ映像記録が接続されるという事態ではなくなった、ということだ。
「生の現実」を生体の固有時間-生理において受容していくことは、今後ますます少なくなってゆき、もうひとつの世界-ヴィデオドロームの再生速度に合わせた表象に、場所に関わらず取り巻かれていくことになる。
ウェラブル端末の発展によりそれはますます加速される。
今後更に新たなガジェットが埋め込まれてゆくだろう。
もはやもうわれわれは自ら動く必要などない。
古いからだを必要としない。
現実は更にスピードを増したガジェット群によって、時空を超えて更新されてゆく。
あのグロテスクに見えた、ビデオの出し入れは、手軽に出し入れ出来る新たな内蔵器官のanalogyに過ぎない。
かつて細胞にミトコンドリアが侵入したときに次ぐ変革か?
時空間そして速度が生体を離脱し、われわれの新たな身体として再組織化されている。
今現在の事態の起源を記した映画とも言える。
この先更に膨大なデータが新たな現実をドロームしてゆく。
それがわれわれの表象を更新してゆくことだろう。
音響の催眠効果は尋常なものではなかったことも付け加えたい。
「時計じかけのオレンジ」が精神における記録なら「ヴィデオドローム」は身体の変革(の前日譚)を記録している。
1982年
カナダ
デヴィッド・クローネンバーグ監督・脚本
ジェームズ・ウッズ 、、、マックス・レン(『CIVIC-TV』の社長)
デボラ・ハリー 、、、ニッキー・ブランド(マックスの彼女)
ソーニャ・スミッツ 、、、ビアンカ・オブリビアン(教授の娘、ブラウン管伝道所責任者)
レスリー・カールソン 、、、コンベックス
ピーター・ドゥヴォルスキー 、、、ハーレン
ジャック・クレリー 、、、オブリビアン教授(ヴィデオドローム開発者)

「裸のランチ」(バロウズ)や「クラッシュ」(バラード)らの映画も手がけており、ここでも以前「イースタン・プロミス」を取り上げたデヴィッド・クローネンバーグの1983年制作映画。
最初の大ヒット作品。
とは言え、映画ではなくヴィデオでカルト的な人気が爆発したという。
まさにヴィデオドロームによる侵蝕が起こった。
ヴィデオカセットまたはメディアでなくドロームとして。
もし、カセット・メディアであればすでに効力はない。
(うちの娘はヴィデオカセットというメディアを知らない。
まだレコーダーは2台ばかり使っていないが残ってはいる。
書庫の屋根裏に1000本以上カセットが積んであるのだが、まだ見たことはないはず。
時折、わたしがどうしても確認したいものを探しに入るが、そんなことも最近は滅多にない。
もう亡くなったヒトが、その山のなかで音もなく蠢いている。
その中でたしかに生きている。不穏な空気が西日で温まってゆく。
そこで多くの様々な世界が再生されることを夢見ている。
ひたすら奇妙な感覚に陥る。
墓地をよこぎってゆく時の感触にも近く。
忘れ去られてゆく記憶のブラックボックス。)
しかしヴィデオは飛躍的に情報量を増やし恐ろしい速度で地球を覆っている。
偏在し何処にあっても顕在する現実となり。
ヴィデオ「ドローム」としてわれわれの身体と化している。
恐らく、われわれヴィデオ世代も無論その後の世代も、この記録された再生映像の受容に身体そのものが最適化されている。
わたしの娘は生まれながらにその身体を受け継いでいる。
最早、メディアではない。
あの郷愁を呼ぶ独特の無骨さ。大きさ。思わぬ軽さ。危うさ。質感。暗さ。
それらをわれわれが「現実」世界にあって、対象として取り扱い、その時間だけ映像記録が接続されるという事態ではなくなった、ということだ。
「生の現実」を生体の固有時間-生理において受容していくことは、今後ますます少なくなってゆき、もうひとつの世界-ヴィデオドロームの再生速度に合わせた表象に、場所に関わらず取り巻かれていくことになる。
ウェラブル端末の発展によりそれはますます加速される。
今後更に新たなガジェットが埋め込まれてゆくだろう。
もはやもうわれわれは自ら動く必要などない。
古いからだを必要としない。
現実は更にスピードを増したガジェット群によって、時空を超えて更新されてゆく。
あのグロテスクに見えた、ビデオの出し入れは、手軽に出し入れ出来る新たな内蔵器官のanalogyに過ぎない。
かつて細胞にミトコンドリアが侵入したときに次ぐ変革か?
時空間そして速度が生体を離脱し、われわれの新たな身体として再組織化されている。
今現在の事態の起源を記した映画とも言える。
この先更に膨大なデータが新たな現実をドロームしてゆく。
それがわれわれの表象を更新してゆくことだろう。
音響の催眠効果は尋常なものではなかったことも付け加えたい。
「時計じかけのオレンジ」が精神における記録なら「ヴィデオドローム」は身体の変革(の前日譚)を記録している。
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