闇のあとの光 ~アンダー・ザ・スキン断片補遺

メキシコの監督カルロス・レイガダスの作品。
ビスタサイズではない4:3アスペクト比による画面。
さらにセンターフォーカスで周辺部の画像のダブる世界。
その形式で見せる必然性とは?
感覚的に見にくさが引っ掛かかり、普段の映画の無意識化された見方-所作が絶えず意識化されることは確かだ。
その現実を「 」に容れて提示する効果を狙ったのだろうか?
身の回りのプライベートな映像をかき集めて編集したようにも映る、時間軸のバラバラな短い映像の羅列にみえて、赤く発光する牛のような悪魔が道具箱を持って部屋に入り、何をするでもなく出て行く。そんな、魔術的でアーティフィシャルな場面も暗示的に挿入される。
恐らくセンターフォーカスの画面自体が、今現在のそこではなく記憶に畳み込まれた、一種魔術的な世界の提示なのだろう。
波や雨、鳥のさえずり、犬の吠える声やチェーン・ソウの音など。
自然や人の営みの音がバックミュージックを一切使わない空間に響き渡る。
暮れた湿り気の多い重々しい曇天のなか。
何かが潜在していて不意に事件を起こすような不穏な雰囲気に絶えず呑まれる、、、。
性や暴力、依存症、虐待、言い争い、殺人や自殺など。
人の欲望が断片的にあからさまに描かれていく。
刹那的で利己的な行為の容赦ない描写が続くが、最後の自殺場面は、他にちょっと見られないものだ。
ラテンアメリカの作家といえばアルゼンチンのボルヘス、メキシコではシュールレアリスムの詩人、オクタビオ・パスがすぐに思いつくが、彼らにも通じる、一種独特な世界観が窺える。
私にとってこの映画も新しい視覚体験ではあった。
しかし何というか、良いものを見たという充足感、または感動とか呼べるものとは異質である。
タルコフスキーを観た時の重厚で濃密な感動体験とは全く別の何ものかであった。
視座をずらして見ることを要求する映画が先日見た、アンダー・ザ・スキンになるだろう。
前回の記事で、躊躇して書かなかった事を少し付け加えておきたい。
(少々エイリアンを擬人化し、また対象化していつもの視座で見ることに戻ってしまうきらいがあったため控えた。)
前半は、彼女の心象風景は、荒涼とした波打ち際であり、泣き叫ぶ赤ん坊はそこに無数に転がる丸石のひとつ、すでに捕食対象としての価値のない男に対するひとつの行為、その光景に見られるだけのものである。
人間的な意味での言葉も内面も完全に無い状態である。だから映像も非常に濃密な虚無で満たされながら進行している。まるで昆虫の世界を覗くような。
しかし単なる捕食対象でしかなかった人間への関心の芽生えとともに、徐々に確実なヒトとの新たな関係の取り結びと受容的な態度が生まれ、自分自身の変化に対する不安と戸惑いがいや増しに増してゆく。
従って後半、彼女は明らかに人間的な様相を呈し始める。
そして、ヒトに対する強い関心と綯交ぜになった受け容れ難い違和感を対象化し、言葉にすれば「恋」とも呼べそうなこころの動揺に、と言うよりその動揺に従いこころとも言えるものが現象し、堪らずその場を逃げ出してゆく。
「画皮」のはがれ、黒い本体となった時にある意味、全てを悟った。
その時がまさに滅ぶ時であった。殺されたにしても、確かにエイリアンとしての死を迎えたのである。(すでに捕食が不可能な状態になった時点でその方向性は免れないものであった。)
全体に非常に稠密で緊張感あるストイックな映画であった。
スカーレット・ヨハンソンのエイリアン理解も見事な演技に表れていた。
ルーシーより娯楽性は低いが、こちらの方が破れ目がなく、質の高い映画であった。
どうやら彼女は芸術性(実験性)の高い映画が好みのようだ。
わたしとしては、「真珠の耳飾りの少女」がベストであるが、、、。
*昨日は病院とその帰りが人身事故により、アップする余裕はありませんでした。
今後、このようなケースはたびたび予定されています。(人身事故は困る)
長期に渡るお休みはありませんので、どうかご訪問のほど宜しくお願いいたします。
- 関連記事
-
- 四月物語 ~松たか子
- 女子ーズ ~夜の上海
- 闇のあとの光 ~アンダー・ザ・スキン断片補遺
- アンダー・ザ・スキン 種の捕食
- ”画皮 あやかしの恋” ~恋とは ~絶望