アイデンティティ

文章を書くときは「わたしは」という主格をもって書いて(打って)ゆくが、当のわたしは、文章の整合上、主格を置いているに過ぎず、「わたし」をことさら意識したことはない。
日常生活のなかで、主格は特に意識しないと現れない。
その時も、限定条件の上でだが。
少なくとも、考えている時は全く、存在しない。
こうして文章を綴っていて、いちいち「わたしは」と断っていくのが、つくづく鬱陶しい。
(自分は、と置き換えてみると少ししっくりしてくるのだが、ここでは深入りしない)
実際、「わたし」は、何かその時のコンテクストにあって限定付きでの「わたし」に過ぎず、ただわたしと言ってしまったら、ぼんやり放けてしまうだけである。
純粋に「わたし」という時、「考えるわたし」など残らない。
「考える」は純粋に「考える」という持続する運動であり、そこにわたしの介在する余地はない。
取り敢えず、このわたしは日常生活を無意識的・自動的に送っており、「このわたし」は、反省的思考により意識上で記憶(時間的な空間性)により非連続的連続性をもって保持されてはいる。
しかし覚束無いありかたで。
本当にそれがわたしの仕業か、と聞かれたら確証のもてないことが少なくない。
知らず物を運んでたり、置き忘れている。
意識はチェックし損ねている。いや、単に忘れたのか。
そう、記憶はたちまち消え去り、飛んでおり、遥か昔の少年期の光景を鮮明に表象する。
時間ー意識の覚束なさ。
この実相をノスタルジックに克明に描写しているのが、タルコフスキーか。
存在とは、無意識の問題と言える。
この身体である。
感情や記憶の乖離、そして断片化とは、無意識ー身体性の破壊を意味するはずだ。
大きな衝撃によって気を失うとかある期間、離人症的に籠って過ごすといった防衛反応ではなく、修復不可能なほどの耐え難い圧力(暴力)を恒常的に浴びれば、記憶ー意識や感情それを維持する無意識ー身体はバーストしてしまう。
乖離した記憶・感情が何によってまた新たな有機的構成がなされるのかは、わたしは知らない。
しかし、現に解離性同一性障害という事例はあり(この映画で初めて知った)、複数のわたしが、おのおの好き勝手に主体的な行動を始めてしまっては、たまったもんじゃない。しかしそう感じるのはどのわたしだ?
支配的・超越的またはそれらを包含するわたしなしに、誰がそれを感じることができる?
お互いに意思疎通もない、それらのわたし。
これほど放置して恐ろしいものはない。
まさにキメラだ。
しかし自分に、それが起きているかどうか、原理的に自分の内省だけでは確認しようがない。
今現在、わたしがキメラかも知れない。
そう言えば、その痕跡、影が感じられる。
- 関連記事