ガタカ GATTACA

Gattaca
1997年
アメリカ
アンドリュー・ニコル監督・脚本
イーサン・ホーク、、、ヴィンセント・アントン・フリーマン(不適正者として生まれる)
ユマ・サーマン、、、アイリーン・カッシーニ(ヴィンセントに好意を寄せる同僚)
ジュード・ロウ、、、ジェローム・ユージーン・モロー(事故に遭い歩けなくなった適正者)
ガタカは”ブレードランナー”や”第9地区”や”IDENTITY”などと同様のわたしの好きなタイプの映画です。
それらは同じなかまといった感じで観ています。(3ツ目のはサイコスリラーでジャンルが違うと云う方がいるはずですが、解離性同一性障害は極めて存在学的な問題と云えます。)
W・ヴェンダースやD・クローネンバーグやティムバートン等を観るときとは違う。
ゴダールやL・カラックスをみるときとも異なるところで観ています。
存在を扱っているといえばどれもそうなのですが、W・ヴェンダース等はその場-廃墟を見事に描いており、ガタカはその人物-孤独に焦点をおいて全体を描いていると思います。the MachineとかAnother Earth(何故か邦訳だとアナーザープラネット!)等も後者で、所謂SF作品ですね。
サイエンスフィクションでもサイエンスファンタジーであっても良いのですが、このようなSFだと思い切った設定で現存在のあり方を鮮明にドラマチックに浮き彫りにできます。
だからタルコフスキーも「惑星ソラリス」を前提としてみました。
ゴダールのアルファヴィルは絶妙でした。
さてここでは、遺伝子の解析に基づく決定論をヒトの想いが乗り越えてゆくという、ドラマが描かれています。
ヒトの社会における適応性が、DNA解析のみで判断されるというこれまた極端な未来図ですが、今現在われわれも「適応性」を様々な場面で測られていることに重ねてしまいます。
寧ろ自らを進んでその枠に当てはめている。
主人公は、優秀な遺伝子による人工授精が普通の社会で、自然出産によってこの世に出たばかりで不適応者としてデータ登録されます。
しかし父親から運命を乗り越えよという祈りを込めた名を付けられます。(ヴィンセント、、、ゴッホと同じ)
彼は幼い頃から強く宇宙に憧れ宇宙飛行士になりたい意志を示しますが、その父親からなれないことを宣告されます。
これは生きながら死ぬことを意味します。もともと彼は若くして心臓病で死ぬことを出生時に告げられています。
彼は長じて自分の名を捨て、契約を結んだ他人とすり替わることで自分を超克します。
一心に本来の自分にならんとします。権力に怯えながらも。
彼は地球-運命を憎み、身分詐称し細心の注意をはらい憧れのガタカに所属し違うアイデンティティの仮面を被り優秀な宇宙飛行士となってゆきます。ただひたすら宇宙を目指して。
彼のこの意識は、遺伝的には完璧な弟との度胸比べの遠泳競争に如実に表れていました。
帰る岸のことなど全く考えない無茶な泳ぎに、計算してしまう弟は終いにはついて来れなくなっていた。
この一途な想いとは、、、真に実存的なものです。
生きながらえることよりも生きることを選ぶ。
規範という外部の圧力からというより、自らを拘束する意識-催眠から、憧れという強度によって解かれ、その夢を貫いてゆく。
多くのヒトは、この無謀な憧れをその時代の規範意識-パラダイムにより幼いうちから潰しており、想うことすら麻痺してできなくなっていると思われます。
この外傷経験は重くのしかかります。
それがひどく過酷になって、慢性的に継続し、恒常化すれば、場合によっては、解離性同一性障害にまで行き着くこともあるでしょう。
主人公は、結局彼の夢を分かち合う協力者に支えられ、寿命も余裕で越え、彼女まで得て飛び立ちます。
わたしは、彼が自然出産で生まれたからそれができたように想えるのです。
「生命は遠い宇宙の塵から生まれた。僕もそこに帰ってゆくのかも知れない。」
宇宙にまさに旅たとうとするときの彼のことばがとても印象に残りました。
マイケルナイマンの音楽が静かに感動を深めてゆきます。

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