『千と千尋の神隠し』を観て。廃墟のテーマパークの可能性

2001年
宮崎駿監督・脚本
久石譲音楽
主題歌 木村弓「いつも何度でも」
スタジオ・ジブリ
荻野 千尋(おぎの ちひろ) ・ 千(せん) 、、、独り異界に迷い込んだ10歳の少女
ハク 、、、湯婆婆の弟子
湯婆婆(ゆばーば) 、、、「油屋」の経営者
坊(ぼう) 、、、湯婆婆の息子
釜爺(かまじい) 、、、「油屋」の釜場でボイラーを担当している老人
リン 、、、 千の仕事場の先輩
カオナシ、、、人の欲しがるものを出し、それを欲した瞬間にその人を飲み込んでしまう

のっけから、廃墟の中での妖怪?たちの大パーティーと言うか、あれが日常なのか?あの打ち捨てられたテーマパークは、何とも言えない郷愁に彩られていて、そこで生活をする物の怪達の贅沢三昧が少し羨ましいものだった。ちょっと台湾ぽい。
なかでも物語の中心的な舞台となる八百万の神が一休みに来るお宿というのが、また珍妙だ。
なんとも人間臭くて、まるで代議士の接待現場を覗いているような感じもしたものだ。
お父さんとお母さんがあの場所に、ほんの入り口に過ぎないが、楽しくなってしまうのも分かる。それにひきかえ、千尋は何で子供なのにあんなに分別臭いのか?遊びゴコロがないのか?欲もない。ちょっとつまらない子だなと思う。
暫く見ているうちに、突然の事態、知らない物事に対する幼い警戒心がそうさせているだけだと分かる。(欲がないことは、この子のとても優れた資質に思える。)
だから両親が霰もない豚に成るなどのショックを体験して次第に揉まれて行くうちに、何に対しても逃げずに、判断にも冷静な洞察が見られるようになってゆく。
周囲にも認められ、信頼と人望を得て、だらしない小娘から一躍ヒロインになってゆく過程が、あたかも冒険譚で逞しくなってゆく様に描かれている。よくあるパタンだと言えばそれまでだが。
また、名前を奪って、忘れさせて、そのヒトを支配するというのは、分かる気はする。
神などの場合は特にそうだろう。
名前がそのままパーソナリティーであるから。
わたし自身は名前を奪われようが忘れようが、何一つ変わらない自信があるが。そんなもの元々、何とも思ってないし、何の役目も担ってない。
しかし代わりに貰った名前が、ルーリードなんていうかっこいい名前だったら、そんな気になってしまうかも、、、。
キャラクターたちも、どれも面白いが千尋は、トトロのメイの長じた顔に他ならず、よく出てくる美人ではない側の女の子であり、元気なお婆ちゃんはほぼ同様な姿で重要な助演役で他のアニメでも強力な力を発揮して物語の動きを支えている。
宮崎アニメのキャラと顔パタンには興味が湧くものだ。
菅原文太の蜘蛛のような釜爺は、他の宮崎キャラアニメに近い形では見られるものがあったが、そのもっとも完成された姿に思える。彼の言う、「やっぱり愛」は確かに千を成長させた。ここでも主人公を影で支える良い味を出している。
「顔なし」などについては、身近かな人間を思わず浮かべてしまったが、顔なしと言う割にかなり特異な魅力と表情をこの物語に与える重責を担っている。また、普遍性をも持つ、少し物語をはみ出る名脇役でもある。
よく出てくるタイプのハクはここでも神秘的で超越的な魅力と力を発揮して千の相手役である。
ハクの本来の名前と実体には余りに荒唐無稽で驚いたが、実際どのような形で彼が千尋と邂逅するのか、興味が湧いたが物語は何も知らせてくれなかった。
ちょっとそこまで観てみたい気がして少し最後に物足りなさが残った。
しかしそれをどんな形であろうが知らせてしまっては、平凡なエンディングになってしまう可能性は高い。
なんと言うか、ごく普通の(車がアウディなので経済的には比較的恵まれた)女の子が通常ではない通過儀礼により、逞しい活き活きとした魅力的な女の子に成長(変身)する物語の様にも受け取れる。
(両親は何というか、リベラルなタイプの放任主義というか、実際子供にはあまり手をかけない人たちであろう。)
廃墟という場所にこんなパワーが眠っていたら凄いものだ。
通常のテーマパークなど完成したって、こんな体験などできようもない、と言うか質がそもそも違い比較の次元ではない。
とんでもないプロデューサーがいたらどうだろう?
アニメでは、まず宮崎駿がやった。
このREALな空間で誰かやってみないか?
親があまり親でなくなった現実で、子供をホントに遊ばせる(仕事をさせる)場所があると面白いな。
ハクの役目もないことには、どうにもならないか?
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