初恋の来た道、、、

1999年
中国
チャン・イーモウ監督
パオ・シー脚本
鮑十(パオ・シー)『初恋のきた道』原作
章子怡(チャン・ツィイー) 、、、チャオディ(若い頃の母)
鄭昊(チョン・ハオ) 、、、ルオ・チャンユー(若い頃の父)
孫紅雷(スン・ホンレイ) 、、、ルオ・ユーシェン 私(語り手)
趙玉蓮(チャオ・ユエリン) 、、、老年の母
文化大革命のこと、その背景などでここを埋める気はない。
そんな暗黒時代があったとしても、そんなものより遥かに本質的で、普遍的な力と美をここに見たい。
監督はその年齢からもその時代の辛酸を嘗め尽くした世代だろう。
わたしの全く窺い知れない、現実を生きてきたはずだ。
それでも、なおこの「道」ははっきり残されている。
チャン・イーモウ監督はそれを見てきたのだ。
その「道」を自らも通り、待ち、蹲って来たのだろう。
その「道」は、、、
何よりも明るく照らしだされて。
しかも強烈な強度をもって。
激烈な郷愁を呼ぶ。
「初恋」
「初恋」とは何だ?
「初恋の来た道」とは何だ?
現代の東京では、いや日本ではまず、現実が(社会が)許さない。
映画でも、少なくとも、日、米、欧ではあり得ない。
UFOに出会うほうがずっと易しい。
しかし、良い邦題である。
まさしくこの通りだ。
「初恋」
この絶対性を全身からオーラ(後光)として激しく終始放ち続け、
すべての道をひとつの道へと統合してしまう、チャン・ツィイーのただ美しい疾走振り。
「初恋の来た道」
残念ながら、これほどシンプルで本源的な行動が現在もとれる道はもう地球上には恐らくない。
これを今現在やってしまったら、集団リンチのうえ何処かに収監されてしまうだろう。
われわれはもう真の意味では生きてはおらず、死ぬことも出来ない。
この映画の夫婦のように生きてはいない。死んでもいない。
この映画でのチャン・ツィイーのように、夫の死んだ後もこれほどに恋し続けられるなんてことは稀である。(この夫婦の場合、立場に関係なく対称的である)
もはや初恋自体の強度などなく、萎えた、ルサンチマン塗れの心理的やりとりが恋愛のように見られて久しい。
人間のDNAもそのプリント自体が薄れて、消えつつあるところに来ているのかも知れない。
DADAで一回はリフレッシュする機会はあったとしても。
ビッグデータ、ビッグブラザーの下で、ただ、枠組みと人目だけを気にして互いに訴えあっては、チョロチョロ逃げ回っているだけの存在だ。
もう早晩消え去る運命の種に「初恋」など無意味と言えばそれまでだ。
この映画は、強烈な郷愁に染め上げられている。特にカラーの場面。
その郷愁には、何の大災害に因るでもなく自分たちの内側から立ち腐れして逝くわれわれの悲哀が深く滲み渡っている。
この映画を観ている間だけ、われわれは正気に戻り、「初恋」の真の美に触れた気になれる。
本当の生と死を想える。
それが自分ではなくとも。自分の外でのことであっても。
イデアとして。
だから涙なしに見れない。
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