お焼香を離れ 断片補遺

死については最近いろいろなかたちで接してきた。
と言うか、その影響を被ってきた。
見知らぬ他人の関与。
人身事故の場合、こちらは多大なダメージは喰らうが、その主体や背景に関しての知識・イメージはゼロである。死んだのかどうかさえ分からない。
ただ人災の一種としてこちらにぶっきらぼうに告げ知らされるが、そののっぺらぼうな事件に単に不条理をひたすら感じるのみである。
このような見知らぬ他人の最も極端な影響として。(ピンポイントの)
投身自殺志願者が下を歩いていたヒトを直撃し、無関係なヒトは即死でダイブしたヒトは助かったという話。
自殺志願者が突然運転中のハンドルを切り、対向車線を走ってきた車に正面衝突し、普通に走ってきたドライバーは即死し、自殺志願者は命に別状なかったというケース。等々。
単に運が悪いのか?それで片付けられてよいのか?残された家族はどうするのか?そこの生活は大打撃なんてもんじゃあるまい!
しかし、考えてみれば、死は誰にも突然やってくる。
勿論自死を除いて。(自殺だってすんなり行くとは限らない)
だから、巻き添えを食って死んだ人も本質的には多くの死者と同等である。
その突然さにおいては、特筆すべきケースではあるが。
もしかしたら、本人も死んだことに気づいていない可能性も感じる。
だが、死においては、みんな原理的には同じである。
ひとりで死ぬ。
その孤独さにおいては。
これほどの現実と孤独は他に有り得ない。
どれほど現実感に乏しい夢想家にとっても誰にとっても、死だけは完全な現実として立ちはだかる!
それは暴力的な現実=レアルとして。
ひとりの人間の死によって恐らく多くの情報が消え去る。
その人間にまつわる多くの物語が語られる。
大概、その人間にとってほとんどどうでもよい物語が。
しかし物語という物自体がそういう属性で成り立つ。
死者のものなんてこの世にはない。
死者そのものなどどこにもない。
すべてはその関係者による錯綜した辻褄の合わぬご都合主義の物語に塗れて逝くだけである。
原子にまで分解され、何かを構成する一部となったからといって、もうそれは何の意味もない。
死者は消滅する。
物語も消滅する。
担うものが少なければたちまちのうちに、、、。
世界は忘却によって成り立っている。
そして言うまでもないが、わたしが死ぬと同時に世界も消滅する。
無というとき誰にとってもそれはすでに指し示せない。

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