見ること 見えること

ヘミングウェイの豹の話は有名だ。
キリマンジャロの頂上近くまで登った豹の屍の話だ。
バナナフィッシュでも吉田秋生がアッシュにその逸話を語らせている。
(ちなみにサリンジャーはヘミングウェイを嫌っていたが、敢えてそれをもって来たか、、、)
確かにアッシュが語れば、それらしく聞こえてくる。アッシュなら語る資格がある。
キリマンジャロの西側てっぺん当たりまで、豹は何を思って登って行ったのか?生存の為では断じてないその行動は、彼の実存について考えさせられる。そしてわれわれを途方に暮れさせる。干からび凍ったその屍はヘミングウェイに、何を語ったのか?威厳をもって全ての問いを、はねつけたのか?
何故、豹がそんな処まで、登って来たのか聞けるのならその豹に聞いてみたい。しかし、人の場合と同様に聞いて事の真相が掴めるなんてことはない。(豹ならどうかは知らないが)
恐らく豹自身にもはっきり分からないものだったかもしれない。何かに惹かれて止むに止まれぬ思いで半ば狂気のうちに登って、登りきった処で力尽きたのだろうか。
実際、のっぴきならない事態であったことは、想像に難くない。
死体は今や何処にでも転がっている。ヒトの営為の中で、死体は定期的にコロコロと生産される。
遺棄された死体を朝の散歩に見つければビックリもするだろう。
しかし、この豹の話ほど戸惑い、考えさせられ、想い巡らしてしまう死体はそうはあるまい。
この高貴さすら感じさせる、孤高の行為、目的の全く分からない行為に対して、わたしは厳粛さにとらわれ身のすくむ思いでいる。
そう、何処かアッシュの生き様ではないか?いや、死に様だ。
われわれが漫然と見ているものの中にもこんな映像があったかもしれない。昼間の光景に。
2度見る事を単にしていなかったかもしれない。
真に他者の姿として看過できず。
観ていなかったかもしれない。
ずっと何年にも渡り、見ているつもりで観ていなかったかもしれない。
何も幻想や夢に何かを託す必要などない。そんなことはわざわざすべきことではない。「押し並べて、夜は気まぐれ」(Few)なものだ。
昼間の光景を昼間にもっとしっかり観るべきなのだ。
さんさんに降り注ぐ太陽光の下で。
本当に観るべきなのだ。
何時もの光景を。

にほんブログ村

- 関連記事
-
- お焼香を離れ 断片補遺
- お焼香をあげに
- 見ること 見えること
- 既視感
- 他者