本当のところは、分からない。決定不能。後は記述法。

何か問題があって、その解決にあたるとして、単純な機械的なケースであれば、ここのケーブルが抜けていたから挿して、で終わってしまうことも少なくはない。これは単なる見落としに近い。あるいはうっかり、とか。
しかし、われわれの問題の多くは、解決不能であり、問題とはズレたところの何らかの同意で解消されたり、が大抵のものだ。
そこに関わる人たちの気持ちの問題である。大事である。
厳密に追うと自己言及性のパラドクスに行き着くこともある。かなり理論的に掘り下げるとだが。
これはそれを包含する(メタレベルの)理論があれば解決するが、それがなければ決定不能のままだ。
究極的に物事を詰めてゆくと、内側から崩れることが、なんにでも解明されている。
論理ー数学が基礎的に孕んだものだ。
コンピュータはその上に立って大丈夫なのか?
ついでにAIがそもそも分からない。
ヒトとコンピュータ
意識と演算能力、全く違う原理を持ったものをどう結ぶというのか?
よくコンピュータがこのままスペックを上げてゆくと「意識が生まれるかも知れない」ってTVで言っているが、当の意識について何か知ってることでもあるのか?
知りようもない、原理的に対象化不可能なものをもって生まれるもなにもないだろうに。
そもそもなんでまた人間ーロボットを作りたがるのか?
死んだ神に任せるしかないことだ。
かつての絶対的メタレベル。
AIは多分永遠に不毛で、アンドロイドは10億年たっても原理的に無理だと思うけど。
今生きてる神は、AKBの女の子たちだ。(別に乃木坂46でもいいけど、、、わたしとしては、こっちの方が好きだ?生田さんとか素晴らしいではないか!)
フェイスブックとかですぐお友達にはなれる。
もっともページの管理とかは事務所のスタッフがしているのだろうけど。
本人も見たこともないかも知れない。気づいてないかも知れない、自分のフェイスブック。
虚しい記号関係。
このレベルでは、カンケイなどと呼べる域ではない。
ではどういうレベルが関係なのか。
握手会に行って手を握れば、取り敢えず関係の第一歩なのか?そこで刃物を持って暴れて怪我をさせればもっと濃密な関係か?
そもそも、、、神とどういう関係を持つというのか?
しかしコンサートや握手会で逢える神々とは、身近と言えば身近だ。
教会にいってもイエスに会えるわけではない。それなら取り敢えず握手会行こうってか。
神によって自我を支えたい。他に無い。
この寄る辺なさ、この不安を引き取ってくれる慈悲深きモノ。
そうなのか?
しかし、そういうもんだろう。
形式を追求しても数学のような問題に究極においては突き当たるし
その他の領域においてメタファーとして論じても同様の決定不能に行き着く。
そのへんの経緯はグスタフ・ルネ・フォフスタッターの「ゲーテル・エッシャー・バッハ」にたっぷり論じられている。
何処においても、何においても、はっきり何も掴めない。
メタレベルの論理などそうそう身近に転がってるわけではない。
しかも、例えば精神分析のようにそのメタ論理を適用しようとも本人が納得してそれを受け入れられるかどうか。
つまりは構造化されるかどうか。
これを吟味するのは個々の意識の水面にかかっている。
受け入れられ、有用とあらば、本質論が成り立つか。
とりあえずの物語が生まれる。
メタレベルの物語ーメタファーはその都度必要だが、意識そのものー現存在(これは不正確なハイフンだが)においては、おとぎばなし(メタファー)は使えない(ハイデッガー)。
不可知を不可知と認識できればはっきりするところは、はっきりするはず。
そして知るべきものは知らないと話にならない。
わたしは相変わらず、ひりつくだけで居心地悪い。

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