さて、いつも通りの生活を、、、

ほっと一息。
いつも通りの生活に戻ろう。
うちは、またTVの重要性が高まっている。
子供のせい、いや、普通の「家族」生活を営んでいるせいだろう。
わたしが以前、東京の自分のマンションにいたころ、TVは年に数分しか見ない時期が数年間続いた。
はっきり言って、自分ひとりではTVを見る必要性が感じられなかった。
何故か?本を読んでいたからだ。TVやネットはむしろ鬱陶しいものだった。
閃きは感じることはあっても、体系的な展開というものがない。
これだと背骨ができない。
バラバラなものを統御・編集までもっていけない。
作ることができないと、その主体もできない。(作る過程で主体も生成されてゆくのだと思う)
もともとわれわれは受身世代なのだし。
それはそうと、、、。
NHKの受信料を払うのも(自動の振り落としを組んでいたからしかたないが)妙な気分だった。
しかしTV自体は置物同然でも持っていたから、どうにもならない。無骨な置物だった。
テレビや冷蔵庫などの家電はかつてのウイリアム・モリスのアーツアンドクラフツなどの工芸製品の流れやAppleのようなインダストリアルデザインの波を被ったことがあっただろうか?
パソコンだって勿論、スティーブ・ジョブス―Apple 以前はとんでもない箱であった。
椅子やテーブルなどには意識的な流れつくづく感じるが。
やはり他のものとの関係はアンバランスである。
いや、その話ではなく、、、。
わたしはBS最初期のころ(1と2だけのころ)お皿を立てて観ていたら、激しい雨の時画面が乱れてよく見えなかったという経験を以前ここで書いたが、それは設置上の問題であって、BS固有の問題ではないようだ。
(何処の電気屋に設置してもらったっけ)
特に、最近は性能も上がったこともあり、雨で見れないくらいならとっくに消えてなくなってるはず。
今回、ニューロ光にNTTフレッツ光から変えることにした。
それはまずネットの速度が段違いに速くなること。(Wi-Fiの速さ)
雪の時以外は天候は気にすることはない、ということからお皿へ戻ることへの懸念が無くなった。
よって、光ネットからTVを切り離すことにおける不安はほぼ払しょくされた。
初期費用だけで、この先TVにかかる費用はないし。
ネットのプロバイダーは、SO-NETになるみたいだ。
困ったな。今の、ocnのメールアカウントをあちこちで使いまくっている。
たしか、それも多少の費用負担で継続使用が可能のはずだが。
今日、業者が見積に来たが、今後はうまいタイミングで工事と、契約解除を組むこと。
空白は作りたくない。
わたしはいまだにそれほどTVは見ないが、次女は彼女専用の番組プログラムをもっている。
見ると言ったら絶対見る女だ。
今回の旅行中見れないTV番組を全部で7つわたしは次女に言われた通りに予約録画している。
帰って来てから、ちゃんと見れないとえらいことになる。
特に「妖怪ウォッチ」と「アイカツ」は外せない。それに加えて「黒田官兵衛」である。シブイ。渋すぎる。
その点、長女は見れたら見るし、見れなければそれでよいという拘らない人だ。
アウトプットにおいては、時折鬼気迫るものを感じるが。
思いは本当に散り散りに現れる。
しかし、意識というものはそんなものだ。
だから、このような線状的(リニアな)記述形式はどうもそぐわない。
事物―諸表象とイメージー言葉の関係もさらにその記述形式についてもである。
そう、ことばの発声についてもそうだ。発話か。
ネットとかTVとかそれらのツールは単なるツールに過ぎない。
バーチャル度がいくら高まってもスペックが上がろうとも、あくまでも単なるバーチャル精度の高まりに過ぎない。
生活の中でのそれらの置き方には、意識したい。
無理やりまとめても意味がない。

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